5.
舞踏会の授業が近付いていた。
学園では毎年この時期になると、礼儀作法の一環としてダンスの授業が行われる。
オリビアは放課後、一人で練習場に残っていた。
広い部屋には誰もいない。
窓から差し込む夕日だけが床を照らしている。
「……もう一度」
小さく呟き、ステップを踏む。
決して苦手ではない。
だが得意とも言えなかった。
だからこそ練習する。
何度も。
何度も。
足の動き。
姿勢。
ターンの角度。
少しでも美しく見えるように。
失敗すれば最初からやり直した。
気付けば窓の外は薄暗くなり始めていた。
「今日はこのくらいにしましょう」
そう言い聞かせるように呟き、ようやく練習を終える。
足にはわずかな痛みが残っていた。
けれど、この程度なら問題ない。
オリビアは何事もなかったように帰路についた。
◇◇◇
数日後。舞踏会の授業当日。
広間には音楽が流れていた。
生徒たちはそれぞれ組になり、練習を始めている。
オリビアの相手はリチャードだった。
周囲から小さな歓声が上がる。
「やっぱりお似合いですわ」
「将来の王と王妃ですもの」
そんな声が聞こえてくる。
オリビアは聞こえないふりをした。
「行くぞ」
「はい」
リチャードが手を差し出す。
オリビアはその手を取った。
音楽に合わせて踊り始める。
リチャードは上手かった。
動きに迷いがなく、自信に満ちている。
オリビアも必死についていく。
「もう少し力を抜け」
「申し訳ございません」
「肩に力が入っている」
「はい」
言われた通りにしようとする。
だが思うようにはいかない。
練習を重ねたとはいえ、本番になると緊張してしまう。
さらに数日前の練習の疲れも完全には抜けていなかった。
ターンをした瞬間、足に鋭い痛みが走る。
「っ……」
思わず息を呑む。
だが表情は変えない。
止まるわけにはいかなかった。
リチャードも気付いていない。
授業が終わるまで、オリビアは最後まで踊りきった。
広間を出た後。
オリビアは誰もいない廊下を歩いていた。
ゆっくりなら問題ない。
そう思っていた。
けれど足は思った以上に痛む。
(少し無理をしてしまったかもしれません)
誰にも気付かれなかったのだから、それでいい。
そう思いながら歩いていると、聞き慣れた声がした。
「オリビア様」
顔を上げと、そこにいたのはエリックだった。
「こんにちは、エリック様」
いつものように会釈をする。
だがエリックはすぐには返事をしなかった。
その視線が足元へ向けられる。
わずかな沈黙。
そして。
「足を痛めておられませんか」
オリビアは目を見開いた。
「え……?」
思わず立ち止まる。
驚きがそのまま表情に出てしまった。
授業中も誰も気付かなかった。
リチャードも。
周囲の生徒たちも。
それなのに……エリックは一目で見抜いていた。
オリビアは言葉を失ったまま、彼を見つめる。
エリックの表情は真剣だった。
まるで当たり前のことを確認するように。
その視線から目を逸らせなかった。
『足を痛めておられませんか』
まさか気付かれるとは思っていなかった。
オリビアはすぐに微笑む。
「大丈夫です」
いつものようにそう答える。
少し痛むだけだ。
歩けないわけではない。
だから問題ない。
そう思ったのだが、エリックは納得していないようだった。
「大丈夫には見えません」
「ですが——」
「歩いてみてください」
真面目な顔で言われる。
オリビアは困ったように笑いながら一歩踏み出した。
「っ……」
足首に痛みが走る。
わずかに表情が歪んだ。
エリックは小さく息を吐く。
「やはり無理をされています」
「……少しだけです」
「保健室へ行きましょう」
「本当に大丈夫です」
「そうおっしゃる方ほど大丈夫ではありません」
きっぱりと言われ、オリビアは言葉を失った。
結局、そのまま保健室へ連れて行かれることになった。
◇◇◇
「軽い捻挫ですね」
教師はオリビアの足首を確認しながら言った。
「数日は無理をしないように」
「はい」
オリビアは素直に頷く。
「少し席を外します」
処置を終えた教師は、そう言って部屋を出て行った。
静かな空間に二人だけが残される。
オリビアは視線を落とした。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「恥ずかしいことではありません」
すぐに返事が返ってくる。
オリビアは苦笑した。
「そうでしょうか」
「そうです」
迷いのない声だった。
しばらく沈黙が続く。
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえた。
オリビアはぽつりと呟く。
「皆さん、とても上手に踊られるので」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「私も頑張らないとと思ったのです」
エリックは何も言わずに聞いている。
「昔から器用ではありませんし」
少し笑う。
「人より時間をかけないとできないことばかりで」
普段なら誰にも言わない言葉だった。
けれど今は、不思議と口にできた。
エリックは静かに首を振る。
「そんなことはありません」
「ですが、本当です」
オリビアは苦笑する。
「皆さんは私を買いかぶりすぎです」
試験の成績。
礼儀作法。
学園での評価。
周囲は簡単に褒める。
けれど、その裏にあるものを知る人はいない。
そう思っていた。
「知っています」
エリックが言った。
オリビアは顔を上げる。
「え……?」
「努力されていることです」
穏やかな声だった。
「図書室で遅くまで勉強されていました」
オリビアは目を見開く。
「舞踏会の練習も」
さらに続く。
「いつも人知れず努力されています」
胸の奥が小さく震えた。
誰にも知られていないと思っていた。
見られているとも思っていなかった。
だから言葉が出てこない。
「私は……」
何を言えばいいのだろう。
分からない。
エリックは少しだけ表情を和らげた。
「ですから」
その声はどこまでも優しかった。
「少しはご自分を大切になさってください」
オリビアは黙ったまま彼を見る。
「無理はしないでください」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
今まで何度も褒められてきた。
優秀だと。
立派だと。
けれど……無理をしないで、と言われたことはなかった。
「……ありがとうございます」
自然と笑みが浮かぶ。
肩の力が抜けるような気がした。
「そう言っていただけたのは初めてです」
エリックは一瞬だけ目を見開く。
そして困ったように視線を逸らした。
オリビアは小さく笑う。
窓から差し込む午後の日差しは柔らかく、保健室の中を静かに照らしていた。
◇◇◇
王宮の応接室。
向かい合って座る侯爵に向けて、リチャードは静かに口を開いた。
「本日はお時間をいただき感謝する」
「もったいないお言葉です」
オリビアの父である侯爵は丁寧に頭を下げる。
突然の呼び出しだったため、何事かと思っていた。
だがリチャードの表情は穏やかだ。
深刻な話ではなさそうだった。
「実はオリビアのことだ」
侯爵は姿勢を正す。
「はい」
「以前から話は進んでいたが、私は年内にも婚約を正式なものにしたいと考えている」
一瞬、侯爵は目を見開いた。
婚約の話自体は以前からある。
王家も侯爵家も、そのつもりで準備を進めていた。
だが、ここまで具体的な話になるとは思っていなかった。
「それは……大変光栄なことでございます」
「オリビアは優秀だ」
リチャードは当然のように言う。
「私の隣に立つに相応しい」
侯爵は安堵した。
娘が高く評価されていることは親として嬉しい。
それに王家との縁は家にとっても名誉だ。
「ありがたいお言葉です」
リチャードは満足そうに頷いた。
これで話は進む。
前の人生とは時期は違うが、オリビアも侯爵家も反対する理由はない。
そう思っていた。
その日の夕方。
侯爵家の食堂には家族が集まっていた。
父親の帰宅が少し遅かったため、夕食も遅い時間になっている。
「今日は王宮へ行っていたのですか?」
オリビアが尋ねる。
父は頷いた。
「ああ」
そして少し間を置いて続ける。
「殿下から話があった」
オリビアは自然と背筋を伸ばした。
「話、ですか?」
「婚約についてだ」
食堂の空気が少し変わる。
オリビアは父の次の言葉を待った。
「年内にも正式な婚約を結びたいそうだ」
思わず息を呑む。
婚約の話があることはわかっていた。
いずれそうなるとも思っていた。
だが、急に現実味を帯びた気がした。
「そう……ですか」
小さく答える。
以前の自分なら、もっと素直に喜んでいたかもしれない。
それが当然の未来だと思っていたから。
けれど今は、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
「オリビア?」
母の優しい声が聞こえる。
顔を上げると、心配そうな眼差しが向けられていた。
「どうしたの?」
「いえ……」
言葉が続かない。
自分でも理由が分からなかった。
リチャードは優しい。
以前よりずっと。
婚約の話だって名誉なことだ。
なのに……なぜだろう。
素直に頷けない。
「オリビア」
母は穏やかな声で言った。
「あなたはどうしたいの?」
その問いに、オリビアは目を伏せた。
どうしたいのか。
今まで考えたこともなかった。
婚約するものだと思っていた。
それが当然だと思っていた。
なのに、頭に浮かんだのは、リチャード殿下ではなかった。
『無理はしないでください』
穏やかな声。
『努力されていることを知っています』
真っ直ぐな眼差し。
気付けば胸の奥が少しだけ苦しくなる。
オリビアは自分でも分からないまま、そっと手を握りしめた。
「私は……」
けれど、その先の言葉は出てこなかった。




