4.
執務室の机に向かいながら、リチャードは一枚の書類を眺めていた。
王太子教育の一環として与えられている課題だ。
内容そのものは難しくない。
前の人生の記憶がある今なら、なおさらだった。
「殿下、こちらもご確認を」
側近が追加の書類を差し出す。
リチャードは受け取りながら小さく頷いた。
以前なら煩わしく感じていた仕事も、今は違う。
未来を知っているという優位がある。
失敗することはない。
そう思うと自然と気分も良くなった。
ふと、オリビアの顔が浮かぶ。
試験では相変わらず優秀だった。
礼儀も完璧。
貴族たちとの付き合いも上手い。
やはりオリビアは有能だ。
前の人生では失って初めて、その価値が分かった。
(婚約が決まれば、外交関係は任せられるな)
リチャードは考える。
国内の貴族との調整も得意だった。
書類仕事も正確だった。
前回より早く補佐に入れば、事業の失敗も防げるだろう。
そうなれば、自分の未来も変わる。
リチャードは満足そうに頷いた。
(順調だ)
前の人生とは違う。
オリビアにも気を遣っている。
関係も悪くない。
このまま進めば問題ないだろう。
彼女が何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
そこまでは考えなかった。
必要な時にそばにいてくれれば、それで十分だった。
◇◇◇
数日後。放課後の図書室。
オリビアは課題に取り組んでいた。
あと少しで終わる。
そう思った時、ぱきり、と小さな音がした。
「あ……」
ペン先が折れてしまった。
慌てて筆箱を開く。
だが予備がない。
今朝、机の上に置いたまま来てしまったらしい。
周囲を見回す。
けれど皆、自分の課題に集中していた。
どうしようかと困っていると、机の端に一本のペンが置かれた。
オリビアは驚いて顔を上げる。
そこにいたのはエリックだった。
本を借りにきていたらしい。
「お使いください」
「え……でも」
「予備ですので」
それだけ言う。
まるで大したことではないように。
オリビアはそっとペンを受け取った。
「ありがとうございます」
「いえ」
エリックは軽く会釈すると、そのまま離れていく。
本当にそれだけだった。
課題が終わった後。
オリビアは借りたペンを見つめる。
高価なものではない。
特別な装飾もない。
けれど不思議と手に馴染んだ。
そして何より、自分が困っていることに気付いてくれたことが嬉しかった。
オリビアは小さく微笑む。
返さなくては。
そう思いながら、丁寧にペンをしまった。
◇◇◇
数日後。
授業が終わった後、オリビアは借りたペンを大切にケースへしまった。
あの日以来、返す機会を探していたのだが、なかなかタイミングが合わなかった。
今日はようやく見つけた。
廊下の向こうを歩くエリックの姿に、オリビアは小さく息を吸う。
「あの、エリック様」
呼び止めると、エリックは足を止めて振り返った。
「オリビア様」
「先日はありがとうございました」
オリビアはペンを差し出す。
「とても助かりました」
「お役に立てたなら何よりです」
エリックは穏やかに受け取った。
それだけで終わるはずだった。
だがオリビアは少し迷った後、小さな包みを取り出す。
「こちらも」
「……これは?」
「お礼です」
エリックは目を瞬いた。
「そんな、お気遣いなく」
「でも、お借りしたままでしたし……」
オリビアは少し困ったように笑う。
「受け取っていただけると嬉しいです」
その言葉に、エリックは包みを受け取った。
中には焼き菓子が入っていた。
決して高価なものではない。
けれど丁寧に選ばれたことが伝わってくる。
「ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ」
オリビアはほっとしたように微笑んだ。
その笑顔を見て、エリックの胸が少しだけ温かくなる。
部屋へ戻った後、エリックは机の上の包みを見つめていた。
焼き菓子は甘すぎず、素朴な味だった。
気付けば、全部食べ終わっていた。
「……お礼、か」
前の人生ではなかったことだ。
そもそも、オリビアとこうして言葉を交わす機会すら少なかった。
エリックは椅子にもたれながら考える。
お返しをした方がいいだろうか。
だが何を贈ればいいのか分からない。
宝石は違う。
アクセサリーも重すぎる。
花も何となく違う気がする。
考え込んでいるうちに、ふと一つの光景を思い出した。
図書室。
高く積まれた本。
閉館時間ぎりぎりまで机に向かうオリビア。
自然と答えは決まった。
◇◇◇
数日後。
オリビアは図書室へ向かう途中で呼び止められた。
「オリビア様」
「エリック様?」
近付いてきたエリックは、少しだけ言いにくそうな表情をしている。
「先日のお礼です」
「え?」
差し出されたのは、小さな包みだった。
オリビアが戸惑いながら開く。
中には繊細な細工が施された栞が入っていた。
銀色の金具に小さな青い花が飾られている。
「綺麗……」
思わず声が漏れる。
「お気に召したなら良かったです」
「でも、どうして栞を?」
その問いに、エリックは少しだけ首を傾けた。
「本をよく読まれているでしょう」
オリビアは目を見開く。
本が好きなことは隠しているわけではない。
けれど誰かに話したこともなかった。
少なくとも、エリックには。
「覚えていてくださったのですか」
「図書室でお見かけすることが多かったので」
さらりと言われる。
まるで特別なことではないように。
だがオリビアの胸は少しだけ高鳴った。
リチャードからも贈り物をもらった。
美しい髪飾りだった。
けれど、今手の中にある小さな栞の方が、不思議と心に残る。
それはきっと、自分が好きなものを覚えていてくれたから。そんな気がした。
「大切にします」
オリビアがそう言うと、エリックは少しだけ目を細めた。
「それは良かったです」
穏やかな声だった。
オリビアは栞を胸の前でそっと握りしめる。
そして気付かないうちに、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
ある日の昼休み。
オリビアは図書室で借りた本を抱え、廊下を歩いていた。
授業の参考資料ではない。
純粋に興味があって借りた歴史書だった。
厚みのある本だったが、気になる記述が多く、昨夜もつい夜更かしをしてしまったほどだ。
角を曲がろうとした時、不意に足が止まる。
「オリビア様」
「エリック様」
向こうから歩いてきたエリックが軽く会釈をした。
オリビアも頭を下げる。
以前ならそれだけで終わっていただろう。
だがエリックの視線が、ふとオリビアの腕の中の本へ向いた。
「その本を読まれているのですか」
オリビアは本の表紙を見る。
「はい」
「珍しいですね」
「ご存知なのですか?」
思わず身を乗り出してしまう。
その反応に、エリックは少し驚いたようだった。
「読んだことがあります」
「本当ですか?」
オリビアの顔が明るくなる。
「この本、とても面白いんです」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
こんな風に話しかけたのは初めてかもしれない。
けれど一度口を開くと止まらなかった。
「特に第三章の交易についての考察が興味深くて」
「なるほど」
「一般的な説とは違いますけれど、私はこちらの方が納得できる気がします」
「確かにそうですね」
エリックも頷く。
否定されないことが嬉しくて、オリビアはさらに言葉を続けた。
「あと、この著者は——」
そこまで話したところで、はっと我に返る。
気付けば自分ばかり話していた。
「申し訳ありません」
慌てて頭を下げる。
「つい……」
頬が少し熱い。
恥ずかしくなって視線を逸らした。
するとエリックは小さく笑った。
「いえ」
穏やかな声だった。
「楽しそうにお話しされるのですね」
「……え?」
オリビアは目を瞬く。
そんなことを言われたのは初めてだった。
優秀ですね。
真面目ですね。
努力家ですね。
そう言われることはあっても、楽しそうだと言われたことはない。
なぜか胸の奥がくすぐったくなった。
その時だった。
抱えていた本が少し傾く。
慌てて持ち直した拍子に、本の間から栞が覗いた。
青い花の飾りが揺れる。
エリックがそれに気付いた。
「使ってくださっていたのですね」
オリビアも栞を見る。
少しだけ恥ずかしくなる。
「はい」
小さく頷いた。
「とても気に入っていますので」
自然と指先が栞に触れる。
本を開くたび目に入るその栞は、すっかりお気に入りになっていた。
エリックはその様子を見て、柔らかく微笑んだ。
「それは良かったです」
その笑顔を見た瞬間。
なぜだか胸が少しだけ騒ぐ。
オリビアは慌てて視線を落とした。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう言う。
エリックは何も言わなかった。
ただ穏やかな表情のまま頷く。
廊下の窓から柔らかな風が吹き込んだ。
オリビアは本を抱え直す。
胸の奥が少しだけ温かい。
その理由は、まだ自分でも分からなかった。




