2.
朝日が窓から差し込み、机の上に積まれた本を照らしていた。
オリビアは最後の一行まで目を通すと、静かに本を閉じる。
「……これで大丈夫」
小さく息をつき、机の端に置かれた時計を見る。
思っていたより時間が経っていた。
「お嬢様、おはようございます」
侍女が部屋へ入ってくる。
そして机の上の本を見て、少し困ったように笑った。
「また朝早くから勉強なさっていたのですね」
「今日、王宮へ伺いますから。復習をしておこうと思って」
「昨日も遅くまで本を読まれていたではありませんか」
「まだ足りません」
オリビアは苦笑した。
「私より優秀な方はたくさんいらっしゃいますもの」
その言葉に、侍女は首を傾げる。
「何をおっしゃいますか。お嬢様は昔から何でもおできになります」
「そんなことはありません」
オリビアは小さく首を振った。
人より覚えるのが早いわけではない。
難しい本は何度も読み返す。
礼儀作法も、夜遅くまで練習してようやく身につけた。
それでも人前では、努力している姿を見せたくなかった。
見せる必要もないと思っていた。
「そろそろお支度を」
「はい」
立ち上がり、窓の外を見る。
今日は王宮へ招かれている。
侯爵令嬢として、そして王子の婚約者候補として。
正式な婚約ではないとはいえ、周囲は決まったも同然という空気だった。
だからこそ失礼は許されない。
(頑張らないと)
オリビアはそっと胸の前で手を握る。
その努力を知る者は、まだ誰もいなかった。
◇◇◇
王宮で開かれた顔合わせの席。
オリビアはいつものように深く礼をした。
「お久しぶりでございます、殿下」
「ああ」
短い返事。
今までなら、それで終わりだった。
ところがリチャードは少し考えると、オリビアに声をかけた。
「最近はどうだ」
オリビアは一瞬目を丸くする。
「……おかげさまで、変わりなく」
「そうか」
それだけ言うと、リチャードは満足そうに頷いた。
周囲の侍従や侍女たちも、驚いたように顔を見合わせる。
オリビア自身も戸惑っていた。
(どうしたのでしょう……)
これまでのリチャードは、自分にほとんど興味を示さなかった。
必要な時だけ呼び、仕事が終われば、それで終わり。
勉強も礼儀作法も、『できて当然』そんな態度だった。
だから今のように、世間話のような言葉をかけられたことはほとんどない。
リチャードは席に着くと、自然な口調で言った。
「君も座るといい」
「……はい」
オリビアは静かに腰を下ろした。
けれど胸の中の違和感は消えない。
(急に、どうして……)
嬉しいというより、不思議だった。
◇◇◇
学園の講堂には、朝から多くの生徒が集まっていた。
今日は定期試験の結果が張り出される日。
掲示板の前では、すでに歓声やため息が入り混じっている。
「今回も一位は殿下だ!」
「やっぱりリチャード殿下はすごいわ」
「二位は……オリビア様!」
「さすがですわ。何でもおできになるのね」
次々と上がる声に、オリビアは少しだけ照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます」
そう答えながら、一人ひとりに丁寧に頭を下げる。
その姿に、周囲の令嬢たちは感心したようにため息をついた。
「成績も礼儀も完璧だなんて」
「努力なんて必要ないのでしょうね」
その言葉に、オリビアは苦笑するしかなかった。
(そんなこと、ありません)
昨夜も眠ったのは日付が変わってからだった。
苦手な分野は何度も読み返し、覚えきれないところは紙に書き出した。
それでも一位には届かなかった。
(もっと頑張らないと)
オリビアは小さく息をつく。
その様子に気付く者はいない。
皆が見ているのは、『いつも優秀なオリビア』だけだった。
少し離れた場所で、その光景を見つめる青年がいた。
エリックは掲示板ではなく、オリビアへ視線を向ける。
(……お顔の色が悪い)
周囲は賞賛の声ばかりだ。
誰も気付いていない。
しかし彼には分かった。
笑ってはいる。
けれど、その笑顔の奥には疲れが滲んでいた。
その瞬間、前の人生の記憶が胸をよぎる。
同じように試験結果が発表された日。
誰もが、『さすがオリビア様』『何でもおできになる』と口を揃えていた。
だが、試験の前日の夜。
偶然通りかかった図書室には、灯りが残っていた。
中をのぞくと、一人机に向かうオリビアの姿。
何冊もの本を積み上げ、必死に文字を追っていた。
翌朝には何事もなかったように笑っていたが、結果はいつも二位だった。
誰も努力など知らなかった。
(あの頃の私は……)
エリックは静かに目を伏せる。
(婚約者になる方なのだから、殿下が支えてくださるだろう。私が口を出すことではない)
そう思って、一歩引いた。
結果として、何もできなかった。
あの日まで。
エリックはゆっくりと拳を握る。
(今度は違う。気付いたのなら、見て見ぬふりはしない)
その決意だけを胸に、オリビアの背中を静かに見つめていた。
◇◇◇
定期試験の結果が発表されて数日後。
オリビアは授業を終え、廊下を歩いていた。
「オリビア」
突然名前を呼ばれ、足を止める。
振り返ると、そこにはリチャードが立っていた。
「殿下」
オリビアは丁寧に礼をする。
「少し時間はあるか」
「はい」
「ならば、茶に付き合え」
断る理由はない。
「承知いたしました」
王宮の庭園にある東屋。
侍女がお茶を用意すると、二人だけの静かな時間が流れた。
リチャードは満足そうに紅茶を口にする。
(前の人生では、こんな時間を作ることはなかった)
仕事を任せるだけ任せ、必要な時だけ呼ぶ。
それが当然だと思っていた。
だが今回は違う。
こうして気遣えば、未来は変わるはずだ。
「試験はよくやった」
「ありがとうございます」
「二位とはいえ十分だ」
「……恐縮です」
オリビアは小さく微笑む。
昨夜も遅くまで勉強していたせいか、少しだけ体が重い。
けれど、それを口にすることはなかった。
リチャードは気付かない。
「私は今回も一位だった」
「さすがでございます」
「当然だ」
そう言って笑う。
「学園を卒業すれば、公務はさらに忙しくなる。他国との交流も増えるだろう」
リチャードは楽しそうに語り続ける。
将来の政策。
王宮での仕事。
自分が目指す国の姿。
オリビアは静かに耳を傾けていた。
「そうなのですね」
相槌を打つたび、リチャードは満足そうに頷く。
(前とは違う。私はちゃんと気遣っている)
そう思っていた。
しばらくして、リチャードは従者を呼ぶ。
「持ってこい」
差し出された小箱を受け取り、そのままオリビアへ向けた。
「これをやろう」
「……私に、ですか」
「ああ」
オリビアは驚きながら箱を開ける。
中には、美しい宝石の髪飾りが収められていた。
陽の光を受け、きらきらと輝いている。
「綺麗……」
思わず声が漏れる。
「気に入ったか」
「はい。ありがとうございます」
オリビアは笑顔で礼を言った。
だが、その笑顔の裏では少しだけ戸惑っていた。
(こんな立派なものを……どうして急に殿下はお変わりになったのでしょう)
大切にしなければ。
そう思う一方で、自分が本当に好きなものは別にあった。
静かな図書室。
新しい本。
読みやすい紙と、書き心地の良いペン。
そんな小さなものに心が弾む。
もちろん、リチャードは知らない。
聞いたこともなければ、知ろうとしたこともなかったからだ。
一方のリチャードは、穏やかな表情で紅茶を飲む。
(これでいい。今度こそ、すべてうまくいく)
その確信を胸に、オリビアの小さな戸惑いには、最後まで気付くことはなかった。




