1.
冷たい石畳の上を、オリビアはゆっくりと歩いていた。
両手には枷が嵌められている。重く、冷たく、歩くたびに小さな金属音が響いた。
広場には大勢の人が集まっていた。
好奇の目。
憐れむ目。
蔑む目。
そのすべてを受けながら、オリビアは顔を上げていた。
侯爵令嬢として、王子の婚約者として、人前で取り乱すことだけは許されない。たとえ今から向かう先が、処刑台であったとしても。
「オリビア・エルフォード」
名を呼んだのは、リチャード王子だった。
かつて、自分の未来の夫になるはずだった人。
その人が今、冷たい目でこちらを見下ろしている。
「そなたは他国との共同事業において、重大な判断を誤らせ、国に多大な損害を与えた。その罪は重い」
淡々と告げられる言葉に、広場がざわめいた。
オリビアは何も言わなかった。
あの事業は、最初から危うかった。条件も、相手国の思惑も、不自然な点が多すぎた。
だから何度も進言した。
もう一度確認を。
交渉の場を。
条件の見直しを。
けれど、リチャードは聞かなかった。
『私の判断に口を出すな』
そう言ったのは、彼だった。
それでも失敗した時、責められたのはオリビアだった。
リチャードは言った。
オリビアの確認が遅かったから。オリビアの進言が判断を鈍らせたから。オリビアが余計なことをしたから。
最初は誰もが戸惑っていた。
けれど王子がそう言えば、それが真実になる。
オリビアは罪人になった。
「何か言い残すことはあるか」
リチャードが問う。
その声に、わずかな迷いもなかった。
オリビアは静かに彼を見上げた。
本当は、言いたいことなどいくらでもあった。
私は止めました。
私は何度も伝えました。
私だけのせいではありません。
けれど、どれを口にしても、もう何も変わらない。
だからオリビアは、わずかに首を横に振った。
「ございません」
それだけを答える。
リチャードの眉が、ほんの少し動いた気がした。
けれど彼はすぐに顔を背けた。
処刑台のそばには、騎士たちが並んでいる。
その中に、エリックの姿があった。
王子の側近であり、若き騎士。
彼は普段と変わらぬ表情で立っていた。
けれど、その拳だけは強く握り締められている。
何かを言おうとしているようにも見えた。
しかし、その唇が開くことはなかった。
オリビアは静かに目を伏せる。
(あなたまで、そんな顔をしないでください)
オリビアはそれを責める気にはなれなかった。
王子の決定を、一介の騎士が覆せるはずもないのだから。
そう思ったけれど、言葉にはできなかった。
「刑を執行する」
リチャードの声が響いた。
オリビアは目を閉じた。
恐ろしくないわけではない。
足は震えていた。息も苦しかった。
それでも、最後まで泣くまいと思った。
自分が泣けば、きっと誰かが言う。
罪を認めたのだ、と。
だからオリビアは涙を堪えた。
ただ一度だけ、胸の奥で小さく願う。
もし次があるのなら。
今度は、誰かに決められるのではなく、自分で選べる人生を生きたい。
刃が振り下ろされる。
その瞬間、誰かが息を呑む音がした。
それがエリックのものだったのか、リチャードのものだったのか。
オリビアには、もう分からなかった。
オリビア・エルフォードの人生は、そこで終わった。
けれど、終わらなかった者たちの時間は続いていく。
オリビアを失った後、リチャードの周囲からは少しずつ人が離れていった。
他国との事業の失敗は、オリビア一人に押し付けられるほど単純なものではなかった。
書類を調べれば、判断を下したのが誰かなど明らかだった。
さらに、彼を支えていた調整役がいなくなったことで、国内の貴族たちとの関係も崩れ始めた。
リチャードは苛立った。
なぜ、うまくいかない。
なぜ、誰も自分に従わない。
なぜ、オリビアがいないだけで、すべてが狂っていく。
やがて彼は王位継承から外された。
かつて王になるはずだった男は、誰からも信頼されず、ただ後悔だけを抱えて生きることになった。
あの時、オリビアを処刑しなければ。
あの時、違う選択をしていれば。
そうすれば、自分は失わずに済んだはずなのに。
暗い部屋の中で、リチャードは何度もそう思った。
そして、最後の瞬間。
彼は強く願った。
もう一度だけ。
もう一度だけ、あの日々をやり直せるなら。
次こそは間違えない。
次こそは、すべてを失わない。
◇◇◇
目を開けると、朝の光が差し込んでいた。
リチャードは跳ね起きる。
目の前には、見慣れた王宮の自室。
鏡に映った顔は、まだ若い。
十六歳の自分だった。
「……戻った、のか」
震える声で呟く。
やがて、その唇が笑みを形作った。
神は自分に機会を与えたのだ。
やり直せる。
今度こそ、失敗しない。
『まだ婚約は正式ではない』
それなら十分だ。
今から変えればいい。
今までより少し優しく接すれば、未来は変わる。
オリビアは優秀だ。
そばにいてくれれば、自分はもう失敗しない。
リチャードは強く拳を握った。
◇◇◇
そして同じ頃。
アシュフォード伯爵家。
自室で、エリックもまた目を覚ましていた。
彼はしばらく天井を見つめ、それからゆっくりと片手で顔を覆う。
その指先は、かすかに震えていた。
「……オリビア様」
声は誰にも届かないほど小さかった。
けれどその響きには、深い後悔と、祈りのような痛みがあった。




