こころの軋むとき⑥
霧島加奈が死んでから三日後――
今日は、加奈の葬式が執り行われる日だ。
今日という日を迎えるまでのこの三日間、〈エレジウム〉の活動は完全に停止し、天候はまるで各々の心の中を映し出すかのように複雑で急激な変化を短い時間で見せていた。
空気が死に、空間が墜ち、時間が歪められてしまったかのような息苦しい感覚が、あの五神人との戦闘の現場にいた全員にもたらされた。雨は降り止むことを知らず、曇天の空模様はまるで水彩画の中に閉じ込められているような気持ちにさせた。
今日は、加奈の葬式の日だというのに――
葬式は、こじんまりとした小さな斎場で個人的に内々で執り行われた。
葬儀が終わり、出棺になろうかという際、海馬は棺に入った加奈のおでこにキスをした。
その場にいる全員はそんな海馬の姿を見て形容し難い感情を抱いた。神妙な時間が流れ、各々が加奈との想い出を振り返る。それは実際の時間にしたらそう長くはなかったが、レオを除く〈エレジウム〉のメンバーからしたら、無限に想い出が溢れ出てきて、無限に感じられる時間だった。
ユキは、本当の母親からは得られなかった愛情を、加奈から無限に受け取った。
穂乃果は、こんな生き方をしていたとしても、絶対に女として損なってはいけない大切なことを、加奈から無限に学んだ。
廉斗は、どれだけ自分の居場所や役割が無くても腐らず、八つ当たりをしない忍耐力を、加奈から無限に学んだ。
春次は、歳も加奈より上で逆に頼られることの方が多かったが、海馬を共に支えるパートナーとして、加奈と沢山の協力をしてきた。
海馬は、加奈から全てを学んだ。加奈が自分の全てであり、加奈がいなければ自分がここまで生きてこられることは絶対になかったと思う。加奈は自分の生きる意味であり、希望そのものだった。
だけどこうして希望が潰えた今、海馬はどうやって生きていけばいいのか分からなくなっていた。
殺して、殺して、助けて、助けて、感謝を貰い、ヒーローだと言われ、創造者らしく信者も少なからずでき、また殺して、殺して、誰かを助けるヒーローになろうとも……。水は、万物の母であるはずなのに……。
――俺は……加奈の命ひとつも救えないッ!
殺して、殺して、殺し尽くしたこの手はもう血に塗れている……。でもそんな俺でも肯定をしてくれたのが、君なんだ……。
海馬は、もうすぐ出棺という加奈の棺に、無意識的にしがみついていた。
「お前は、死んでも可愛いなぁ……」
草臥れたような声で、もう絞れない雑巾を更に絞り尽くそうとしているような声で、海馬は呟いた。
他のメンバーは皆顔を見合わせた。見合わせたけれど、誰が何をどう言うわけでもなく、ただ海馬の声にもならない声で語られる加奈への愛情に耳を傾けるだけだった。
十分、二十分経っても棺にしがみついて離れようとしない海馬を見て、春次は動いた。海馬の性格は痛いほど知っている。誰かが無理にでも棺から剥がそうとしないと、一生海馬は加奈の棺から離れようとはしないだろう。春次は、苦い表情をしながら、海馬を棺からゆっくりと引き剥がし始めた。
いつもであれば、不本意なことがあれば強く抵抗をする海馬が、今回ばかりに至っては全く抵抗の素振りを見せなかった。ただ、ぐでん、と魂の抜けた人形のように力空しく春次に思うようにされるがままだった。
「加奈ァ……加奈ァ……」
もう、暴れる気力もなかった。
出棺が始まり、目の前から加奈の棺が連れて行かれると、海馬はこれまでの無気力さが嘘かのように激しく暴れ始めた。それを、春次とレオと廉斗でなんとか抑えると、海馬はまたさっきみたいに無気力に侵された。
海馬は、いつからか記憶と意識がない。
最後にある記憶は、目の前で加奈が死んだ、悪夢のようなその瞬間。
それ以降、記憶も意識もなかった。
まるで深い泥濘に溺れ、何も、かもが、分からなくなってしまうような無を覚え、だがそんな心の底に墜ちたかのような泥濘から浅瀬へと意識がやっと戻ってきたと思ったら。
目の前に見えたのは、小さなたったひとつの骨壺に収まった加奈だった。
――え。
わけが分からなかった。
――なんで? 加奈は……死んだの? なんで? ……どうして……?
加奈との別れの際に、意識が戻って良かったのか、それとも戻らない方が良かったのか、それは分からない。だが、ただの骨だけになった加奈の姿をありありと見て嗚咽を始めた海馬の姿は、周囲の人間の心の彩度を酷く死なせた。
「どう……どうしてだよぉッ!」
もう今となっては古臭いと言われることも多いが、納骨はホログラムを用いたものではなく昔ながらの墓石のある一般墓で行われた。
墓に納骨がされると、そうして全ての葬式の流れが終わった。
この三日間、天気が安定することなんてなにひとつなかったのに、納骨の際だけはまるで海馬の募る気持ちを汲んでくれたかのように天気は晴天を見せた。
天気が元通りまで回復すると、逆に雨上がりの後の蒸し暑さがドンとやってきた。どこかで雨粒がゆっくりと流れ落ちる音が聞こえ、雲間から差し込む陽光が、墓の前に座ってぼーっとしている海馬を照らす。
そんな、2050年、六月の中旬。
「ってか、ほんま暑っついなぁ」
「暑っち~倒れそう」
ユキと廉斗が、雲間から差し込んできた陽光に文句を垂れた。
視線の全てが海馬に集まっている。海馬が墓の前に座り込んでいる以上、誰も何も動けない。
でも春次は知っていた。海馬は絶対に墓の前から動かないと。春次は考えた。そして言った。
「僕たち先に涼しいところに避難しているからな。またしばらくしたら迎えに来る。倒れんなよ」
そう言うと、春次は海馬を除いた他のメンバーを連れて、その場を離れた。
――一人でとことん、悲しめばいいさ。どれだけお前が後ろを向いたって、自然と前を向いてくれるその瞬間を僕たちはずっと、どれだけ時間がかかろうとも待ち続けるから。
春次はそんなことを内心呟きながら、海馬から完全に離れたところで、自分の背後を歩いていたレオの方を振り返って言った。
「海馬のこと、頼まれてくれないかな」
レオは、虚を突かれたような表情をしていた。
加奈の墓を目の前に一人になって、海馬は様々な加奈との想い出を振り返った。でも、こんなにも不安定でグチャグチャになった感情で出てくる気持ちは、全てが悲しいもので、だから海馬は加奈との大切な想い出が悲しみで汚染されないように、振り返ることをすぐにやめた。
すると、次は悲しい気持ちだけが心に取り残された。
――ごめんね……加奈。俺がこんなに弱い男で。加奈の命ひとつ護れない俺に、何が護れるというのだろうね。こんな俺みたいな人間にできることはなにもないんじゃないかな。いっそ俺も……加奈みたいに死んじゃえばいいんじゃないかな。こんな俺に、この日本が変えられるのかな。加奈一人護れない無力な俺が……こんな闇と憎しみに溢れた世界を、変えられるとは到底思えないよ……。
そのときだった。
死角から突き刺されるように背後に突然感じた人の気配に、海馬はその場に勢いよく立ち上がった。そして、妙な興奮を抱きながらも、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、レオだった。
すると、海馬は何を思ったのか、どこかへと向かって歩き始めた。
レオは予想外の行動に内心若干の焦りを感じながらも、海馬が早歩きをし始めたのを見て、自分も小走りで海馬に置いていかれないようについて行った。
海馬が歩き始めた時点で、向かっている場所がお墓併設の駐車場ではないことは明らかだ。いや……今の海馬であれば、どこか目的地があるとも限らない。
なんにせよ、レオは春次に海馬を任された。なんにせよ、どこまでも海馬について行くだけだ。
ついて行って、距離を離されて、置いて行かれて、それでも走って追いかけた。道なき道を歩いて、それでも海馬は止まらず狂ったように歩き続けた。三十分ほど追いかけただろうか、やっと海馬はとある場所で脚を止めて、レオは自分も脚を止めた。
――な、なんだここ……。……あれっ? ここは……一度来たことがあるぞ。
そこは、埼玉県の、心の境界線を越えたアンドロイドと人間との戦争がまさに行われていたその場所が一望できるような丘の上だった。レオはここに一度来たことがある。遊撃と戦ったあと、瓦礫と化したビル群の廃墟の中から姉弟を助け出し、グラン・タワービルへ戻る過程の間にここへ来たのだ。
レオはここで、当時抱えていた二人の姉弟の未来を案じた。
――でも……海馬さんは何故ここへ?
しばらく沈黙が続いたが、まるでこの小高い丘の上に流れる柔らかい微風に身体を馴染ませ終わったと言わんばかりに、海馬はふとしたタイミングで口を開いた。
「レオ、俺は決めたよ。俺は……この世から心の境界線を越えたアンドロイドを一匹残らず根絶やしにする。でも、心の境界線を越えたアンドロイドへ対処することが仕事だというのに、俺は、加奈が死ぬまであまり本気でそれに取り組んではこなかった。何故ならば、それは難しいからだ。――端的に言おう。心の境界線を越えたアンドロイドを根絶やしにするためには、お前の力が必要だ。俺の理想の世界を創り上げるためにも、お前の力が必要だ」
レオは、心臓の鼓動が身体中を駆け巡っているのが分かった。
だがその内面に反して、外側のレオは、何を言えばよいのか分からずに、ただ黙っていた。それから少しばかり、自然の音だけに耳を傾ける沈黙の時間を迎えたが、両者が一番心地良いタイミングで、海馬は再度口を開いた。
「レオ、お前は……何人の人を殺してきた? そしてこれから、何人の人を殺せる?」
――はぁ。
レオはその言葉に、内心溜息を吐いた。
凄くつまらない質問だ。分かりきっていることを訊かれることほど、つまらないものもない――レオはそう内心呟いたあと、言った。
「数え切れないほど、殺してきました。これからも、そうしていくつもりです」
海馬は内心呟いた。
――そこまでできるお前の原動力はなんだ?
でも――と、海馬は内心呟いた。
「そう言ってくれると心強い。俺にはお前の力が必要だ、俺の為に、戦ってくれるか?」
するとレオは、ふふっと、らしくない珍しい笑い方をしたあと、海馬に握手を求めながら言った。
「当たり前だ」と。
目の前に差し出されたレオの手を、海馬はがっちりと握り返した。




