34話 地下は静かで、静かな場所ほど誰かがいる
王都の夜半。
鐘が二つ鳴った頃、一行は南区外れの石橋下に集まっていた。
昼間は荷船が行き交う水路も、今は静かだ。
水面に灯りが細く揺れているだけで、街のざわめきも遠い。
そして石橋の影、苔むした壁の下に、問題の旧点検口はあった。
「……思ってたより汚い」
アリアが率直に言う。
「排水路に何を期待してたんだ」
グレンが返す。
「もう少し“秘密の通路”感を……」
「秘密だけはあるな」
モグがしゃがみ込み、鉄格子を叩く。
「うわ、古っ。しかも重っ」
セブンが光量を絞った補助灯で周囲を照らす。
『旧式。
腐食進行三二%。
蝶番部に脆弱箇所』
「いいねえ」
モグが嬉しそうに工具を出す。
「嬉しそうなのやめて、こっちは不安になるから」
アリアが言う。
エリオットは外套の裾を持ち上げながら、心底嫌そうな顔をしていた。
「私は紙の人間であって、泥の人間ではないんですが」
「今夜だけ両方になってください」
アリアが言う。
「優しくない励ましですね」
ルシェとリオ、四号は一歩離れた位置で外周警戒。
ルシェが最後に低く言う。
「合図は三回。
まずい時は待たない」
「分かった」
アリアが頷く。
グレンも短く言った。
「戻れなくなりそうなら、書類よりお前らを優先する」
「それ、覚えとく」
アリアが答える。
「忘れろ。
いざって時に迷う」
「急に難しいこと言わないで」
モグが工具を差し込み、ぎりぎりと鉄格子をずらし始めた。
金属の擦れる嫌な音。
だがセブンが継ぎ目を押さえ、最小限に抑えている。
『開口まで二十秒』
「早っ」
『脆弱ゆえ』
「この時だけ脆弱に感謝」
最後に鈍い音がして、格子が外れた。
湿った空気がぶわっと流れてくる。
冷たい。
そして臭う。
「……うわあ」
アリアが顔をしかめた。
「まだ入口だぞ」
グレンが先に入る。
「今のうちに帰りたくなってきた」
「却下だ」
モグが言う。
「だと思った!」
一行は順に中へ入る。
先頭がグレン、次にセブン、アリア、エリオット、最後尾がモグ。
石壁の内側は低く、場所によっては少しかがまないと進めない。
水は靴が濡れる程度だが、滑りやすい。
「静かに」
グレンが囁く。
「この状況で喋る人いる?」
アリアも小声で返す。
「お前」
「たしかに!」
排水路は思った以上に複雑だった。
枝道、補修跡、古い格子、崩れた石。
普通の人間なら迷う。
でも今日はセブンがいる。
『右折。
次の分岐を左。
上方に保守路接続あり』
「助かる……」
アリアが思わず言う。
『褒め言葉として受理』
エリオットが前を見たまま言う。
「白塔の機械と違って、あなたは実務向きですね」
『現在、やや機嫌が良い』
「機嫌の概念あるんだ……」
その時、前方でグレンが手を上げた。
全員停止。
上から、かすかな足音。
「巡回?」
モグが囁く。
エリオットが耳を澄ませる。
「……違う。
地上じゃない。保守路側です」
つまり近い。
セブンが補助灯を消す。
闇が一気に濃くなる。
水音だけが耳に残る。
上の格子越しに影が通る。
一人。
足取りはゆっくり。
巡回というより、点検員か書庫番の移動だ。
影が去るまで、全員が息を殺す。
ようやく静かになってから、モグが小さく息を吐く。
「心臓に悪い」
「まだ始まったばっかりだからね」
アリアが言う。
「そういうこと言うな」
排水路から石段を上がると、狭い保守路に出た。
天井は低いが乾いている。
両脇に古い導管が走り、ところどころ壁へ点検札が打ち込まれていた。
ここから先はもう軍務院南棟の地下に近い。
エリオットが低く言う。
「南書庫の裏はこの先です。
ただし途中に、旧保守扉があるはず」
モグが嬉しそうにする。
「扉! 好き!」
「扉好きすぎない?」
アリアが聞く。
「鍵と扉は技術者の友達だ」
「友達の方向性が偏ってるなあ」
十数歩進んだ先に、その扉はあった。
厚い鉄板戸。
鍵穴は古いが、最近も使われているらしい。
蝶番に油が差してある。
モグがしゃがみ、鍵穴を覗く。
「……二重だな」
「え」
アリアが聞く。
「古い機構の上に、新しい補助錠がついてる。
嫌がらせみたいな構造してる」
『開錠支援を実施』
セブンが細い補助針を差し出す。
モグはそれを受け取り、手早く動かす。
かち、かち、と小さな音。
最初の錠はすぐ外れた。
だが二つ目が長い。
時間が伸びる。
アリアの呼吸も浅くなる。
その時、また足音。
今度は近い。
扉の向こう側だ。
全員が固まる。
モグは手を止めない。
セブンが後方を警戒。
グレンが剣の柄へ触れる。
エリオットは青ざめているが、目だけは動いている。
扉の向こうで、誰かが咳をした。
年配の男の声。
独り言のように呟く。
「……また湿気か。
だから地下は嫌いなんだ」
書庫番だ。
足音が近づく。
こちらの扉へ向かっている。
「まずい」
エリオットが囁く。
「分かってる!」
モグも汗を浮かべる。
かちり。
二つ目の錠が外れたのと、向こうの手が取っ手にかかったのはほぼ同時だった。
グレンが即座に扉を内側へ引く。
向こうにいた書庫番らしき男が目を見開く。
「な――」
その“な”の時点で、セブンが一歩前へ出て男の口を押さえ、グレンが体を支える。
モグが足を払う。
エリオットが反射的に扉を閉める。
ものすごく連携がいい。
「……すごい」
アリアが思わず言う。
「感心してる場合か」
グレンが低く返す。
男は五十代くらい、痩せた書庫番だ。
完全武装ではない。
鍵束と小灯だけ持っていた。
目を白黒させている。
「殺さないでよ!」
アリアがすぐ言う。
「分かってる」
グレンが答える。
「縛るしかないですね」
エリオットが冷静に言う。
「この人、慣れてきてない?」
アリアが聞く。
「慣れたくて慣れたわけではありません」
書庫番の男は必死に何か言おうとする。
セブンが少しだけ口元を緩める。
『騒がなければ傷つけない』
男は勢いよく頷いた。
グレンが口から手を離す。
「……あんたら誰だ」
男が震え声で聞く。
「湿気点検です」
モグが答える。
「嘘つけ!」
「そうだな!」
アリアは思わず頭を抱えそうになる。
エリオットが前へ出て、男を見た。
「あなたはヴィグ書庫番ですね」
男の目が見開く。
「な、なぜ知ってる」
「議会別館から、時々文書照会を出していました。
筆跡で覚えています」
こんな場面で筆跡から個人特定する人、ちょっと怖い。
ヴィグ書庫番は青ざめた。
「議会の人間が、なんでこんな……」
エリオットは少しだけためらい、それから言った。
「白塔関連文書を探しています」
ヴィグの顔から血の気がさらに引く。
この反応。
知っている。
グレンが低く問う。
「どこだ」
「知らん、私はただの番人だ」
「嘘だな」
グレンの声が冷たくなる。
「ひ……っ」
アリアはすぐ割って入った。
「待って。
脅すより、ちゃんと聞こう」
「時間がねえんだよ」
グレンが言う。
「でも、この人、ただの悪人って感じじゃない」
ヴィグ書庫番は目を瞬く。
たぶんこんな状況で庇われると思っていなかったのだろう。
アリアは膝をつき、視線を合わせた。
「お願い。
白塔のこと、隠されたままだとまた誰かが傷つく。
あなたが全部じゃなくていい。
でも、どこを見ればいいかだけ教えて」
ヴィグは怯えたまま、何度か目を泳がせた。
扉の向こう、天井、床。
逃げ場を探すような視線。
やがて彼は、諦めたように小さく言う。
「……第三列の最下段だ」
全員が息を呑む。
「灰色函の奥に、黒革背の綴りがある。
白塔関連の再配分原記録はそこだ。
だが見るな。
見たらお前らも終わる」
エリオットが静かに返す。
「もう見始めています」
ヴィグは苦い顔をした。
「若いな……」
「若くないと、こんなことはしません」
アリアが言う。
「君はそうだろうな……」
その言い方が妙に優しかった。
南書庫の中は、想像以上に広かった。
高い棚。
整然と並ぶ文書函。
分類札。
湿気取りの石。
灯りは最低限で、静けさが逆に耳に痛い。
第三列最下段。
灰色函の奥。
黒革背の綴り。
エリオットが膝をつき、奥の文書束を引き出す。
一冊、二冊、三冊――そして、奥に薄い黒革背。
「これです」
彼の声が少し震えていた。
机へ移し、紐をほどく。
中には数枚の命令写し、再配分帳、伝達確認票。
アリアも覗き込む。
最初のページで、もうおかしかった。
西方特別運用計画・補助感応網再接続
目的:辺境域戦意維持、並びに非協力集団への圧迫補助
「……圧迫補助」
アリアが低く読む。
エリオットの顔が強張る。
「婉曲表現ですね。
でも意味は同じです」
次の頁。
対象施設:白塔系中継基点、及び派生導管網
承認経路:軍務次官補佐官室、内政庁調停補助局一部連絡済
そして最後の頁に、はっきりあった。
最終追認 A.アルヴェイン
アリアの呼吸が止まりそうになる。
「……いた」
「ええ」
エリオットも掠れた声で言う。
「今度は完全にいた」
モグが横から覗き込み、目を剥く。
「うわ、これはでかい」
グレンは素早く周囲を見ながら言う。
「必要箇所だけ抜け。全部は持てねえ」
「いや、これは原本ごと――」
エリオットが言いかける。
グレンが鋭く返す。
「原本ごと消えたら相手が即座に気づく。
明朝まで気づかせねえ方がいい」
それは正しい。
悔しいけど正しい。
エリオットは歯を食いしばり、必要箇所へ印をつける。
「署名頁。
計画名。
目的記述。
対象施設。
承認経路。
この五点を写します」
「私も手伝う!」
アリアが言う。
「字、急げますか」
「きれいじゃないけど!」
「今はそれでいいです!」
二人で机へ向かい、急いで写す。
羽ペンの音が小さく響く。
手が震える。
でも止まるな。
その時、セブンが低く告げた。
『接近反応。
複数』
全員の手が止まる。
「何人」
グレンが問う。
『三。
うち一名、足音重。武装可能性高』
ヴィグ書庫番が青ざめる。
「……来た。
夜番だけじゃない、監査付きだ」
「監査?」
アリアが聞く。
エリオットが顔を上げる。
「文書保全監査官です。
書庫番より厄介だ」
「文書を守る人間ってそれか……!」
アリアが思い出す。
マルグリットの忠告。
あれは本当だった。
グレンが即断する。
「写しをまとめろ。
撤収準備」
「あと一頁!」
アリアが叫ぶ。
「急げ!」
廊下の向こうで、鍵の鳴る音がした。
近い。
モグが周囲を見て、低く言う。
「正面退路は塞がれる。
裏棚の整備口、開けられるかも」
セブンがもう移動している。
『確認中』
鍵が回る。
扉が開くまで、あと数秒。
アリアは最後の行を書き写す。
非協力集団への圧迫補助
その文字が滲みそうになるのを、無理やり押さえる。
「できた!」
その瞬間、南書庫の扉が開いた。
入ってきたのは、青灰色の外套を着た女と、護衛二人。
女は背が高く、痩せていて、片眼鏡をつけていた。
顔立ちは整っているのに、まるで温度がない。
視線だけで空気を凍らせるような人間だ。
彼女は部屋の異様な空気と、拘束されたヴィグ、開かれた黒革背の綴り、そしてアリアたちをひと目で見た。
「……なるほど」
声は静かだった。
「鼠ではなく、客人でしたか」
護衛二人が即座に剣へ手をかける。
エリオットの顔が強張る。
「まずいですね」
「知ってる人?」
アリアが聞く。
彼は唇を引き結んで答えた。
「文書保全監査官――
イザベル・クロムウェルです」
その名に、ヴィグ書庫番が震えた。
そして監査官イザベルは、感情のない顔で一歩踏み出す。
「その文書から手を離しなさい。
そうすれば、“どこまで知ったか”だけで済ませてあげます」
アリアは写しを胸元へ押さえる。
グレンが剣を抜く。
セブンが裏棚側へ動く。
モグが工具を構える。
王都の地下、南書庫。
ついに“書類を守る側の本命”が姿を現した。




