第35話 逃げ切っただけでは勝ちじゃない、でも逃げ切れなきゃもっと負けだ
南書庫の空気が、一瞬で変わった。
監査官イザベル・クロムウェル。
その名を聞いた瞬間、エリオットだけでなくヴィグ書庫番まで顔色を失ったのが、何よりまずかった。
つまりこの女は、現場で恐れられている。
イザベルは部屋を見渡し、拘束されたヴィグ、机上の黒革背、写しを抱えたアリアへ順に視線を置いた。
そして護衛へ短く命じる。
「扉を押さえて。
書庫番は生かしたままで」
声が静かすぎて余計に怖い。
護衛二人が左右へ散る。
一人は扉側、もう一人は棚間の通路を塞ぐ位置。
どちらも抜刀済み。
しかも慌てていない。
「まずいな」
グレンが低く言う。
「うん、すごくまずい」
アリアも小声で返す。
モグが裏棚へ目を走らせる。
「セブン、整備口!」
『開放に四十秒』
「長い!」
『棚固定具の干渉あり』
「今すぐ固定具が嫌いになった!」
イザベルは一歩前へ出た。
手に剣はない。
代わりに細い金属杖のようなものを持っている。
アリアは眉をひそめる。
「……あれ何」
エリオットの声がわずかに緊張を帯びる。
「封鎖杖です。
文書室や保管区画の一時封鎖に使う」
「武器じゃないの?」
「武器にもなります」
「じゃあもう武器じゃん!」
イザベルは淡々と言った。
「最後に言います。
文書を置いて投降なさい。
そうすれば、命までは奪いません」
グレンが鼻で笑う。
「親切ぶってんな」
「事実を述べているだけです」
イザベルは表情を変えない。
「私は殺傷を好みません。
ただし、保全対象の破壊と流出は防ぎます」
「保全対象って、その紙?」
アリアが言う。
「ええ」
「その紙のせいで、人は何人も苦しんだのに?」
その問いに、イザベルはほんの少しだけ首を傾げた。
「文書は苦しめません。
運用が苦しめるのです」
アリアは歯を食いしばる。
その理屈は間違っていない。
でも、そうやって切り分けてきたから今の王都があるんじゃないのか。
「だから私は、その“運用された記録”を持って帰る」
アリアが言う。
イザベルの目が初めて、わずかに細くなった。
「……あなたが中心ですか」
「いや違う、私はたまたま今持ってるだけで」
「今そこ謙遜いらねえ!」
モグが叫ぶ。
次の瞬間、イザベルが杖を床へ打ちつけた。
乾いた高い音。
それと同時に、書庫入口の鉄格子が上から落ちる。
さらに棚間通路の片側にも補助柵が展開した。
「うわっ!?」
アリアが思わず跳ぶ。
「封鎖した!」
エリオットが叫ぶ。
「だから言ったでしょう」
イザベルが静かに言う。
「私は逃げ道を先に消します」
「怖すぎるだろ!」
グレンが動いた。
護衛の一人へ一気に踏み込み、剣を叩きつける。
相手も応じる。
金属音が狭い書庫に響く。
ルシェほど速くはないが、グレンは重い。
一撃ごとに相手の構えを崩す。
だが護衛もただ者ではなく、簡単には下がらない。
同時にもう一人の護衛がアリアたちの側へ詰めてくる。
「下がれ!」
モグが工具箱から小型発光杭を投げた。
足元で白く弾ける。
護衛が一瞬だけ目を細めた。その隙にセブンが肩から体当たりし、棚へ叩きつける。
『非致死制圧、実施』
「助かる!」
アリアが言う。
『受理』
だがイザベル本人は動かない。
いや、動いている。
杖で床と棚を次々打ち、補助柵の展開位置を変えているのだ。
「あっちも塞がる!」
エリオットが叫ぶ。
「書庫を迷路にしてるの!」
アリアが悲鳴を上げる。
「文書保全監査官は、侵入者と戦うより閉じ込める方が得意なんです!」
エリオットが返す。
「先に言って!」
「今言いました!」
アリアは写しを胸元へ押し込み、机上の原本へ目をやる。
持ち帰りたい。
でも無理だ。
写しだけでも守らなければ。
ヴィグ書庫番が縛られたまま叫ぶ。
「左の棚!
三段目の留め具を外せば、裏通路に抜ける!」
全員が彼を見る。
「今言うの!?」
アリアが叫ぶ。
「さっきから言う隙がなかった!」
それもそうだ。
モグがすぐ左棚へ飛びつき、留め具を探る。
イザベルの目が初めてはっきり変わった。
「ヴィグ」
その一言だけで、書庫番がびくっと震える。
この女、部下を名前だけで黙らせるタイプだ。
「反逆ではありません!」
ヴィグが半泣きで言う。
「これは、その……文書の湿気対策です!」
「苦し紛れにも程があります」
イザベルが冷たく返す。
その間に、モグが留め具を外した。
棚の一部がぎぎ、と動く。
「開くぞ!」
だが同時にイザベルが杖を振るう。
細い金属線のようなものが伸び、棚の取っ手へ巻きつく。
無理やり固定された。
「うそでしょ!」
アリアが叫ぶ。
「ほんとです」
イザベルが答える。
「私は固定が得意ですから」
「聞いてない!」
グレンが護衛を一人蹴り飛ばし、そのままイザベルへ踏み込む。
だが彼女は真正面から受けない。
杖の先で剣の軌道をずらし、距離を取る。
戦うというより、止める。
崩す。
遅らせる。
グレンが舌打ちする。
「ちっ、面倒な型だな」
「面倒であることが仕事です」
イザベルが返す。
書庫はもう完全に混戦だった。
セブンが護衛一人を押さえ込む。
モグが棚留め具と格闘する。
グレンがイザベルと護衛をまとめて捌く。
エリオットは必要文書の頁をさらに確認し、追加で写し取れる箇所を必死に記憶している。
そしてアリアは――机上の原本と、胸元の写しの間で一瞬迷った。
ほんの一瞬。
だがその迷いを、イザベルは見逃さなかった。
「原本に未練があるのですね」
彼女の杖先が机を打つ。
衝撃で黒革背の綴りが宙へ浮き、別の棚下へ滑り込む。
「うわっ!」
「原本は渡しません」
イザベルの声は静かだ。
「あなた方が持ち帰るのは、せいぜい断片でしょう」
アリアは歯を食いしばる。
断片。
でも、その断片が今は命より重い。
グレンが一瞬だけ振り返る。
「アリア!」
呼ばれた意味は分かる。
原本を諦めろ。
写しを持って逃げろ。
分かる。
でも悔しい。
エリオットが低く言った。
「十分です」
「え……」
「署名も目的文も取った。
今夜は十分です。
それ以上を欲張れば、全部失います」
その言葉で、ようやく踏ん切りがついた。
アリアは頷く。
「分かった!」
モグが叫ぶ。
「留め具外れた! セブン、押せ!」
『了解』
セブンが固定された棚へ体重をかける。
鉄線が軋み、棚が半ばまで動く。
人一人がやっと通れる隙間。
「行け!」
グレンが叫ぶ。
「グレンは!?」
アリアが返す。
「最後だ!」
「それ、やだ!」
「やだでも行け!」
護衛が再び立ち上がり、通路を塞ごうとする。
イザベルも杖を振るい、補助柵をさらに狭める。
その瞬間、ヴィグ書庫番がごろんと転がって、イザベルの足元へ体当たりした。
全員が固まる。
「ヴィグ!?」
エリオットが叫ぶ。
「私はもう定年が近いんだ!」
ヴィグが泣きそうな声で叫ぶ。
「今さら全部見なかったことになどできるか!」
イザベルの体勢がわずかに崩れる。
その一瞬をグレンが逃さない。
剣の腹で杖を弾き、モグが棚の隙間をさらに広げる。
「今だ!」
アリアはエリオットの手を掴んだ。
「行こう!」
二人で棚の隙間へ滑り込む。
セブンが続き、モグも工具箱を抱えて飛び込む。
最後にグレンが振り返り、ヴィグ書庫番を見る。
ヴィグは床に転がったまま、苦く笑った。
「早く行け、馬鹿ども」
グレンは一瞬だけ目を細め、それから低く言った。
「借りにしとく」
「返さなくていい!」
その直後、イザベルが立て直す。
「逃がすと思わないで」
杖が振り上げられる。
だがグレンは棚の向こうへ飛び込み、モグが仕掛けていた最後の発光杭を投げた。
閃光。
イザベルと護衛が一瞬止まる。
その間に棚を押し戻す。
元の位置までは戻らないが、追撃には十分な障害になる。
「走れ!」
グレンが吠える。
裏通路は狭く、暗く、埃っぽかった。
アリアは息を切らしながら走る。
後ろでモグが「右!」「段差!」と叫び、セブンが後方警戒。
エリオットは文官とは思えない必死さでついてくる。
「エリオットさん大丈夫!?」
アリアが聞く。
「大丈夫じゃないですが走ります!」
彼が返す。
「それは偉い!」
「褒められても苦しいです!」
背後から金属の軋む音。
イザベルが棚を突破しようとしている。
時間はわずかしかない。
裏通路はやがて保守路へ繋がった。
だがそこには問題があった。
「……え?」
アリアが立ち止まりかける。
出口側の保守扉が、外から閉じられている。
「なんで!?」
モグが叫ぶ。
エリオットが青ざめる。
「監査系統が先回りした……!」
「王都ってほんとそういうとこ!」
アリアが叫ぶ。
セブンが扉へ手をかける。
『強制突破を試行』
「時間は!?」
グレンが問う。
『二十秒』
「長い!」
背後で追手の音が近づく。
イザベルの声が通路に響く。
「止まりなさい。
次は手加減しません」
「さっきまで手加減だったの!?」
アリアが本気で引く。
「監査官ですから」
エリオットがぜえぜえ言いながら答える。
「まず拘束が優先なんです!」
「それ今聞きたくなかった!」
グレンが通路の中央へ立つ。
「アリア、写しを持て」
「持ってる!」
「なら絶対落とすな」
「うん!」
モグが工具箱を漁る。
「扉、もうちょいでいけるか!?」
『蝶番応力上昇。
十秒』
イザベルが姿を現した。
通路の奥から静かに歩いてくる。
護衛は一人脱落したらしいが、もう一人はまだいる。
しかも監査官本人が全然息を乱していない。
「ほんとに嫌な人だ……」
アリアが呟く。
「褒め言葉として受け取りません」
イザベルが返す。
「聞こえてる!」
彼女が杖を構える。
通路が狭いぶん、今度は完全にこちらを逃がさないつもりだ。
その時――
外側から、三回。
短い金属音。
ルシェの合図だ。
グレンの目が変わる。
「外にいる!」
次の瞬間、保守扉が外側から爆ぜた。
リオとルシェだ。
リオが細剣で閂を切り、ルシェが蹴り破ったのだろう。
冷たい夜気が一気に流れ込む。
「遅い!」
アリアが叫ぶ。
「早い方よ!」
ルシェが返す。
「異論はあるが今は言わねえ!」
リオも叫ぶ。
「走れ!」
グレンが再び吠える。
一行は一気に扉を抜ける。
ルシェが最後尾へ滑り込み、イザベルの進路へ一瞬だけ剣を突きつける。
監査官はそこで初めて足を止めた。
魔物の角。
冷たい金の目。
狭い通路いっぱいに広がる殺気。
「……なるほど」
イザベルが言う。
「白塔の旅商隊」
「覚えるのが遅いわね」
ルシェが冷ややかに返す。
ほんの一瞬の睨み合い。
だがルシェは戦わない。
今は勝つ場面じゃない。
彼女はすぐ身を翻し、扉の外へ飛び出す。
同時に四号が外側から扉を押し込み、即席の楔で固定した。
『閉鎖完了』
「よし!」
全員で夜の路地へ駆ける。
排水路ではなく、北側へ抜ける裏道。
王都の石畳を蹴り、細い路地を折れ、橋を渡り、また曲がる。
背後に追手の声はない。
でも、追われていない保証もない。
ようやく工房跡へ戻った時には、全員息を切らしていた。
ミナが駆け寄る。
「……ぶじ!?」
アリアは膝に手をついて、息を整えながら答える。
「たぶん……!」
「また“たぶん”!」
ルシェが言う。
「だってほんとに毎回ぎりぎりなんだもん!」
モグが床へへたり込み、笑った。
「……でも、やったな」
エリオットが震える手で紙を広げる。
写しは無事だった。
少し濡れ、少し乱れている。
だが読める。
西方特別運用計画・補助感応網再接続
目的:辺境域戦意維持、並びに非協力集団への圧迫補助
対象施設:白塔系中継基点、及び派生導管網
承認経路:軍務次官補佐官室、内政庁調停補助局一部連絡済
最終追認 A.アルヴェイン
全員がその紙を見る。
今度はもう、言い逃れしにくい。
白塔はただの遺跡じゃない。
戦争を続けるために使われた。
そしてアルヴェインは、それを知らずにいたわけじゃない。
アリアはその写しを見つめながら言う。
「……持って帰れた」
「ええ」
エリオットが静かに答える。
「十分すぎるくらいに」
けれど、グレンは厳しい顔のままだった。
「いや、まだだ」
全員が彼を見る。
グレンは短く言った。
「監査官イザベルが俺たちの顔を見た。
しかもヴィグ書庫番も巻き込んだ。
明日には王都中枢が動く」
リオも頷く。
「潜入成功と引き換えに、もう隠密ではいられない」
ルシェが壁にもたれたまま言う。
「つまり、次はもっと派手になる」
アリアは写しを握りしめる。
怖い。
でも、進んだ。
一歩じゃない。
たしかに大きく進んだ。
その時、エリオットが低く言った。
「……これを表へ出す前に、もう一枚だけ必要です」
「何?」
アリアが聞く。
彼は答える。
「内政庁調停補助局との接続記録。
白塔の技術が軍務院だけでなく、“平和の名目”でも利用されていた証拠です」
モグが顔をしかめた。
「まだあるのかよ」
「あります」
エリオットは頷く。
「そしてそれが揃えば、灰冠派だけでなく王都全体を揺らせる」
アリアは息を吐く。
もう後戻りはできない。
たぶん、今夜で完全に越えた。
白塔の少女の旅は、王都の心臓に爪を立てたのだ。
そしてその心臓は、次にこちらを噛みに来る。




