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32話 帰るまでが潜入です

議会別館は、王都中区の北寄りにあった。


本館ほど豪奢ではない。

だが石造りの建物は大きく、古く、威圧感がある。

整然と並ぶ柱。

磨かれた階段。

窓越しに見える書架の影。


ここは戦場ではない。

その代わり、ここで決まった紙切れ一枚が、遠くの戦場で人を死なせる。


アリアはそれを思って、少しだけ背筋が寒くなった。


門衛は二人。

武装しているが、兵士というより役所付きの守衛だ。


エリオットが自然な足取りで進み、身分証を見せる。


「議会書記局、エリオット・セイン。

補助員同行です」


守衛の一人がアリアを見る。


「新顔だな」


「臨時です」

エリオットが答える。

「南区帳簿の写し作業が立て込んでいまして」


守衛はアリアへ手を出した。


「証」


アリアは慌てずに、でも急ぎすぎず、補助員証を差し出す。

手が汗ばんでいるのが分かる。

見抜かれそうで嫌だ。


守衛は札を眺め、次にアリア本人の顔を見る。


「……アリス・ノル?」


「はい」


それだけ。

余計なことは言わない。

言わない。

言わないぞ。


守衛は少しだけ怪訝そうだったが、横の守衛がぼそっと言った。


「どうせ臨時だろ。

人足りてねえし」


その一言で通った。


別館の中へ入る。


アリアは思わず目を見張った。


静かだ。


床は磨かれた石。

壁沿いに本棚と戸棚。

行き交う役人たちは低い声で必要なことだけ話し、足音すら控えめだ。

紙と蝋とインクの匂い。

遠くで羽ペンの擦れる音。


「……なんか、図書館が怖くなった感じ」

アリアが小声で言う。


エリオットが前を向いたまま返す。


「言い得て妙ですが、今は黙ってください」


「はい」


二人は階段を上がり、二階の書記局区域へ入る。

そこには机が並び、書記官や補助員たちが忙しく文書を捌いていた。


誰もが忙しそうで、誰もが周囲を見ている。


アリアはすぐに分かった。

ここでは「目立たない」が最重要だ。


エリオットは自席へ着くと、さりげなく小声で指示した。


「あなたはそこで写し取りのふりをしてください。

本当に書かなくて構いません。

私が合図したら、文書室へ同行します」


アリアは頷く。


机の端へ座り、空紙を前に羽ペンを持つ。

ふり、ふり、と自分に言い聞かせながら線を書く。

だが内心は落ち着かない。


周囲には色んな人がいる。

眠そうな中年書記官。

いかにも有能そうな若い女官。

神経質そうな補助員。

そして、ときどきこちらへ向く視線。


その中の一つが、妙に鋭かった。


向かい列の奥に座る、黒髪を後ろで束ねた女。

年は三十前後だろうか。

姿勢が良く、書類を捌く手が速い。

そして今、ちらりとアリアを見ている。


その視線は「誰だ、この子」という純粋な確認ではない。

もっと、記憶に引っかける見方だ。


アリアはすぐ視線を落とす。


怖い。

でも動くな。

動いたら終わる。


しばらくして、エリオットが自然に立ち上がった。


「アリス。

保管室の第三棚から、昨季南区徴税帳簿を」


「はい」


ついに来た。


アリアは席を立ち、エリオットの後を追う。

廊下を曲がり、奥の文書保管室へ。


そこはさらに静かだった。

高い棚が並び、帳簿や封書が整然と保管されている。

窓は小さく、光は少ない。


エリオットは扉を閉めるなり、声を落とした。


「ここから早いです。

本来の徴税帳簿は口実。

本命はその奥、灰色革表紙の保管函」


「見つけたら?」


「中を確認します。

白塔関連予算の転記記録があるはずです」


「予算から分かるの?」


「ええ」

エリオットは即答した。

「王都では、人が嘘をついても金はかなり正直です」


「うわ、名言っぽい」


「後で感心してください」


アリアは棚へ向かう。

帳簿の背表紙を目で追う。

徴税、補修、倉庫、転送……そして、その奥。


灰色革表紙の函。


「あった」


エリオットが素早く取り出し、机へ置いて紐を解く。

中には数冊の薄い簿冊と、封緘を切られた写し文書。


彼は一枚ずつ素早く見ていく。

アリアも横から覗いた。


難しい数字と略号ばかり。

でも、見覚えのある単語が混じっている。


白塔外縁補修費

感応波導管整備

調停補助網・特別再配分

西方運用実証費


「これ……」

アリアが息を呑む。


エリオットの声が低くなる。


「ありました。

表向きは補修と整備。

でも配分額が異常です。

しかも予算の出所が軍務院経由になっている」


彼はさらに別紙をめくる。


そして止まった。


「……これだ」


そこには小さな署名欄があった。


予算再配分承認:軍務次官補佐官室

閲覧追認:A.アルヴェイン


アリアの喉が鳴る。


「いた」


「ええ」

エリオットの眼鏡の奥が鋭く光る。

「直接命令ではない。

でも“知らなかった”では済まない位置です」


その時、廊下の向こうで足音がした。


二人とも動きを止める。


近い。

しかも一人じゃない。


エリオットは素早く文書を戻しながら囁く。


「写しだけでも取れれば……」


「私、書くの遅いよ!」


「だから困ってるんです!」


「困ってるんだ!?」


足音が止まる。

保管室の前。


ノックが二回。


「セイン書記官?」

女の声だった。

さっきこちらを見ていた、あの黒髪の女だ。


エリオットの顔色が、ほんの少しだけ変わる。


「……まずいですね」


「知り合い?」


「書記局次席補佐、マルグリット・ヴェイン」

彼は小声で答える。

「勘が鋭く、私を信用していない人です」


「嫌な情報しかない!」


もう一度ノック。


「セイン書記官。

中ですか?」


エリオットは一瞬だけ考え、それから平静を作った。


「はい。

徴税帳簿の確認中です」


扉の向こうの声は穏やかだ。

だが、穏やかだからこそ怖い。


「随分長い確認ですね。

補助員まで連れて」


アリアの心臓が跳ねる。


見られていた。


エリオットは答える。


「帳簿の量が多いので」


「そうですか。

では、私も手伝いましょうか?」


最悪だ。


アリアは反射的にエリオットを見る。

エリオットもこちらを見る。

ほんの一瞬、二人のあいだで“どうする”が交差した。


そしてエリオットは、恐ろしく自然な声でこう言った。


「助かります。

ですが、その前に――」


彼はアリアへ目配せし、わざと少し強い口調で言う。


「アリス、さっき言った帳簿、まだ持ってきていなかったのですか?」


「え」


「第三棚の徴税帳簿です。

急いで」


やっと意図が分かった。


アリアだけ先に出す。


「は、はい!」


アリアは本来の帳簿を抱え、扉へ向かう。

心臓がうるさい。

でも顔は下げろ。

補助員らしく。

急いでるだけの子に見えろ。


扉を開ける。


そこにいたのは、黒髪をきっちり結い上げた女。

すらりと背が高く、冷たい目をしている。

書類を抱えたまま、少しだけ首を傾げた。


「あなた、新人?」


「……はい。

臨時、です」


「名前は?」


「アリス・ノル、です」


マルグリットは一秒、二秒、三秒――少し長くアリアを見た。


その視線に、見透かされるような寒気が走る。


だが彼女はそれ以上何も言わず、横へずれた。


「通っていいわ」


「失礼します」


アリアは頭を下げ、帳簿を抱えたまま廊下を歩き出す。


曲がり角まで行っても、背中に視線が刺さっていた。


絶対、怪しまれてる。


アリアは指定された文書机へ帳簿を置き、そのまま“どこまで戻るべきか分からない補助員”のふりをした。

うろうろすると怪しい。

だから、困ってる顔で少しだけ立ち尽くす。


すると近くの年配補助員が苛立ったように言った。


「何してるの。

運んだなら座りなさい」


「はい!」


助かった。

怒られるの助かる。


アリアは自席へ戻り、羽ペンを持つふりを再開する。

でも頭の中はぐるぐるだ。


アルヴェインの追認。

白塔関連の異常予算。

軍務院経由の再配分。


確定じゃない。

でも十分に怪しい。

少なくとも“偶然ではない”ことの証拠にはなる。


しばらくして、エリオットも保管室から戻ってきた。

後ろにはマルグリット。

彼女はエリオットへ何か淡々と話しかけながらも、ときどきアリアの方を見る。


嫌すぎる。


昼前。

書記局に小さな休憩時間が入った。

周囲の人々が少しだけ席を立ち、茶や軽食を取りに行く。


エリオットが机の上の紙片を一枚、自然な手つきでアリアの肘元へ滑らせた。


アリアは顔を動かさず、紙片だけ見る。


“写し一枚確保。午後、退去優先。怪しまれている”


短い。

でも十分だった。


写しが取れた。

それだけで今日は勝ちに近い。

欲を出すな。

戻れ。


アリアは心の中で深く頷いた。


その時、横から声がした。


「ねえ、あなた」


ぎくりとする。


マルグリットだった。


「は、はい」


「アリス、だったかしら」


「はい」


彼女はアリアの机へ軽く手をついた。

距離が近い。

笑っていないのに丁寧な顔をしているのが余計に怖い。


「どこの帳場から来たの?」


これはまずい質問だ。

知らない。


ほんの一瞬詰まったアリアより先に、近くの別の補助員が口を挟んだ。


「南区じゃない?

朝からセイン書記官が人手足りないって言ってたし」


マルグリットはそちらを見もせず、アリアから目を離さない。


「南区のどこ?」


詰めてくる。


アリアは喉が渇くのを感じた。

でもここで黙りすぎるのも不自然だ。


「えっと……水運、側の……」


「水運側のどこ?」


完全に試されてる。


もうだめか、と思ったその時。


エリオットが少し離れたところから書類を持って割り込んできた。


「ヴェイン補佐」

彼は穏やかに言う。

「もし南区人員の出所確認でしたら、後ほど私の机へ照会票をください。

今は別館北系統の仕分け締切が先です」


マルグリットがやっとアリアから視線を外す。


「……随分庇うのね」


「業務中の手を止めたくないだけです」


「ふうん」


彼女は一歩引いた。

だがその時、アリアの机端に置かれた紙片が風で少しだけ揺れた。


やばい。


マルグリットの視線が、その動きに落ちる。


「それ、何?」


空気が止まる。


アリアは反射的に紙片を押さえた。

その動作自体が“何かあります”と言っているようなものだった。


エリオットの眼鏡の奥が、ほんのわずかに険しくなる。


マルグリットの声は静かだ。


「見せて」


「これは――」

アリアが言いかけた、その時。


遠くの窓際で、突然書類棚が崩れた。


どさどさどさっ、と大量の帳面が床へ落ちる。

書記局全体がざわつく。


「何!?」

「誰だ!」

「棚留めが外れたぞ!」


モグだ。


いや、ここにいるはずないけど、たぶん何かやったのはあいつだ。

そう思えるくらいタイミングが良すぎた。


マルグリットの注意が一瞬だけそちらへ向く。


エリオットがその隙に紙片を素早く回収し、別の書類束へ紛れ込ませた。


「ヴェイン補佐、北窓側です!」

彼が言う。


マルグリットは舌打ちこそしなかったが、明らかに不満げな顔でそちらへ向かった。


アリアは今度こそ本気で息を吐いた。


「……死ぬかと思った」


「まだです」

エリオットが小声で言う。


「今それ言う?」


「午後まで持たせれば帰れます」


「帰りたい……」


「同意します」


午後の書記局は、午前よりずっと長く感じた。


誰かが歩くたびにびくっとする。

視線が向くだけで心臓が跳ねる。

自分が今どんな顔をしているか分からない。


だが、そんな中でも少しずつ分かったことがある。


この別館では、みんながみんな灰冠派というわけじゃない。

むしろ多くは、自分の仕事を回すので精一杯だ。

ただ、その上にいる何人かが流れを決め、記録を削り、予算を流し、手順を歪める。


王都の怖さはそこだ。

巨大な悪意が一人いるんじゃない。

小さな無関心や保身が積み重なって、巨大な形になる。


アリアは羽ペンを持つふりをしながら、それをぼんやり考えた。


そしてようやく退庁の時刻が近づいた頃、エリオットが立ち上がった。


「本日の補助は以上です。

アリス、戻って構いません」


それは正式な言い方だった。

周囲に聞かせる言い方でもある。


アリアはすぐ立ち上がる。


「はい」


ゆっくり歩く。

急ぎすぎるな。

焦るな。

出口まであと少し。


だが、階段を下りる途中で、また声がした。


「アリス・ノル」


振り返ると、マルグリットが階段上からこちらを見下ろしていた。


冷たい目。

けれど今度は、少しだけ確信を帯びているように見える。


「はい」


「明日も来るの?」


質問の形だ。

でも、試している。


アリアは一瞬だけ迷って、それから補助員らしく答えた。


「……セイン書記官の指示があれば」


マルグリットは数秒沈黙し、そして言った。


「そう」


それだけ。


だが彼女は最後に、はっきりと付け加えた。


「気をつけて帰りなさい。

王都は、道に迷うと戻れないことがあるから」


ぞくりとした。


ただの忠告じゃない。

もっと含みがある。


アリアは頭を下げ、階段を下りる。

後ろは見ない。

見たら飲まれる気がした。


別館の外へ出た瞬間、肺に空気が一気に入った。


外の風がこんなに気持ちよく感じたのは初めてかもしれない。


角を曲がったところで、リオが待っていた。

今日は書類商の見習い姿だ。


彼はアリアの顔を見て、すぐ分かったらしい。


「……相当きつかったな」


「うん……」


「取れたか?」


アリアは小さく頷く。


「アルヴェインの名前、あった。

追認だけど、ちゃんとあった」


リオの表情が引き締まる。


「それは大きい」


「でも、完全に怪しまれた人もいる」


「誰に」


「マルグリット・ヴェイン。

たぶん、また会う」


リオは少しだけ嫌そうな顔をした。


「そういう勘のいい人が、一番厄介だ」


「うん……。

あと、王都ってほんと怖い」


「今さらだな」


「今だから言ってるの!」


二人は早足で裏路地へ向かう。

合流場所には、もうグレンたちがいた。


ルシェはアリアを見るなり短く問う。


「無事?」


「無事……たぶん」


「たぶんがつく程度には危なかったのね」


「うん」


グレンはそれ以上問い詰めず、ただ一言だけ言った。


「戻ったなら上出来だ」


その一言で、張っていたものが少し切れた。


アリアは深く息を吐く。


「……写しも取れたよ」


エリオットも少し遅れて裏路地へ現れた。

周囲を確認してから、懐から小さく折られた紙を取り出す。


「これです。

原本の一部ですが、署名欄と再配分番号が見えるように写しました」


モグがそれを受け取り、慎重に開く。


「……本物だ」


全員がその紙を見る。


そこには確かに、

A.アルヴェイン の文字。

そして白塔関連の異常予算を示す再配分番号が記されていた。


小さい。

紙一枚。

でも、その小ささで王都の大きな嘘を刺せるかもしれない。


アリアはその文字を見つめながら、ゆっくり言う。


「一歩目だね」


エリオットが頷く。


「ええ。

でも次からは、もっと危険です」


「今ので“もっと”があるの……」

アリアが引く。


「軍務院南書庫は別館よりはるかに厳重ですから」


モグが紙を畳みながら言う。


「よし。

なら次は“静かに潜る”じゃなく、“仕掛けて盗る”準備がいるな」


グレンが短く頷いた。


「軍務院に入るなら、陽動が必要だ」


ルシェは腕を組む。


「それと、マルグリット・ヴェイン。

あの女、放っておくと後で刺してきそうね」


エリオットは少し考えてから答える。


「敵か味方か、まだ断言はできません。

ただし、侮らない方がいい」


アリアは王都の夕空を見上げた。


一枚の写しを手に入れた。

それだけなのに、世界が少しだけ動いた気がする。


でも同時に、王都の方もこちらを見始めている。


潜るたび、知られる。

進むたび、狙われる。

それでも行かなきゃいけない。


白旗の旅は、今日も静かに危険を増やしていた。

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