31話 アリア・フェルン、今日だけアリスになる
話し合いはその夜の行動方針まで及んだ。
宿は今すぐ移る。
機械組は倉庫区の知人経由で一時的に分散。
ミナとネムは最も安全な場所へ。
エリオットは議会別館に戻るふりをしつつ、明日昼前に南区裏路地でアリアと接触する。
つまり、明日。
アリアが、議会別館へ潜る。
「無理じゃない?」
本人が最初にそう言った。
「無理ではありません」
エリオットが答える。
「難しいだけです」
「その言い方、あんまり慰めにならないよ」
「私、慰めは苦手で」
「この人ちょいちょい正直なんだよなあ」
ルシェが椅子にもたれて言う。
「作法だけ叩き込めば、あとはなるようになるんじゃない?」
「雑!」
アリアが言う。
「でも正しい」
グレンが言う。
「筆写員なんざ、目立たず、口を閉じて、指示に従えばいい」
「その“口を閉じて”がみんなに心配されてるの、ちょっと傷つく」
「実績だろ」
モグが言う。
「実績って!」
エリオットは懐から小さな木札を出した。
「仮の補助員証です。
明日はこれを見せれば、私の同行者として入れます。
ただし別館内では喋らないこと。
質問されたら、名前と所属だけ」
「所属は?」
「“臨時筆写補助”」
エリオットが言う。
「そして名前は――」
「アリアじゃだめ?」
全員が微妙な顔をする。
「だめではないけど、避けた方がいい」
リオが言う。
エリオットは少し考えたあと言った。
「“アリス”でいきましょう」
「急に普通!」
「覚えやすさは重要です」
「うん、それはそう」
ルシェが口元を少しだけ緩める。
「似合ってるじゃない、“アリス”」
「なんか他人みたい」
「明日は他人でいてもらうのよ」
その言い方に、アリアは少しだけ背筋を伸ばした。
他人になる。
旅人のアリア・フェルンではなく、目立たない補助員として歩く。
それは剣を振るうのとは違う怖さがある。
でも、やるしかない。
《葦羽亭》を出る頃には、王都の夜はすっかり深くなっていた。
石畳は冷え、遠くの塔で夜鐘が鳴る。
水路に揺れる灯りが、黒い空の下で細く反射していた。
グレンが帰り道でぼそりと言う。
「……無茶はするなよ」
アリアは隣を歩きながら答える。
「するかもしれない」
「するなって言ってんだ」
「でも、明日たぶん色々あるでしょ」
「あるに決まってる。
だから余計な英雄ぶるな」
アリアは少しだけ黙った。
それから、小さく言う。
「グレン」
「何だ」
「前より、私のこと信じてる?」
グレンはすぐに答えなかった。
夜の路地をしばらく歩いて、それから鼻を鳴らす。
「……信用してなきゃ王都になんか連れてこねえよ」
その言葉に、アリアは少しだけ笑った。
「そっか」
「ただし心配はしてる」
「それ、すごい保護者っぽい」
「気のせいだ」
「最近ずっとそれ言うね」
グレンはそれ以上何も言わなかった。
でも歩幅だけ、少しだけアリアに合わせていた。
その夜、アリアは寝つけなかった。
王都の天井は静かだ。
でも静かな場所ほど、考えごとが増える。
明日、議会別館へ入る。
王国の記録に触れる。
そこには白塔の真相を隠す紙があり、誰かの死を数字にした帳簿があり、アルヴェインへ繋がる糸もあるかもしれない。
怖い。
失敗したら終わるかもしれない。
でも、足を止める理由にはならない。
白旗は、部屋の隅で布に包まれたまま立てかけられている。
静かだった。
でも、そこにあるだけで少しだけ勇気が出た。
アリアは布団の中で小さく呟く。
「……余計なこと、言いませんように」
隣の寝台から、ルシェの声が返る。
「それは神に祈るより、明日の自分に祈りなさい」
「起きてたの!?」
「眠れてないだけ」
「そっちもじゃん」
「当たり前でしょ」
少しだけ笑いがこぼれる。
それで、ほんの少しだけ緊張がほどけた。
明日は、王都の中へさらに一歩踏み込む。
剣ではなく、書類の森へ。
戦場ではなく、権力の廊下へ。
そしてそこもまた、十分に命取りな場所だった。
翌朝の王都は、よく晴れていた。
こういう日に限って空が綺麗なのは、なんだか腹が立つ。
緊張で胃が痛い側の事情を、天気はまるで考えてくれない。
南区の裏路地。
古い石壁の影で、アリアは深呼吸を繰り返していた。
服装は昨日の商会風よりさらに地味だ。
白に近い灰色の簡素な上衣、濃紺のスカート、動きやすい短靴。
髪は低い位置でまとめ、顔立ちが目立たないよう前髪も少し下ろしている。
白旗は持っていない。
今日は完全に別行動だからだ。
「似合ってる」
ルシェが壁にもたれて言う。
「ほんと?」
「目立たない、って意味で」
「褒めてるけど褒めてない!」
モグは腕を組んで頷く。
「いいな。
“地味な真面目そうな子”に見える」
「真面目そうって何」
「頑張ればいけるってことだ」
「頑張らないといけないんだ……」
グレンは短く言った。
「今日は喋るな」
「一言目それ?」
「一番大事だ」
「大事だけど!」
リオが手帳を見ながら確認する。
「エリオットとの接触は定刻。
別館に入ったら、基本は彼の後ろにいる。
見てもいいが立ち止まるな。
聞いてもいいが先に話すな。
まずい時は咳払い二回で合図」
「なんか一気に本格的だなあ……」
「本格的にまずい場所へ行くからだ」
グレンが言う。
アリアは頬を軽く叩いた。
怖い。
でも行く。
怖いからって行かないと、たぶんここでは何も変わらない。
その時、角の向こうからエリオットが現れた。
今日の彼は昨日よりずっと“議会の人”だった。
濃色の整った上着、銀縁眼鏡、腕には文書筒。
頼りなさそうな雰囲気はそのままなのに、服装ひとつでちゃんと所属の空気が出ているのが不思議だ。
「おはようございます」
彼が小声で言う。
「おはよう……ございます」
アリアもつられてやや丁寧になる。
エリオットはアリアを一目見て頷いた。
「大丈夫そうですね」
「本当に?」
「ええ。
少なくとも“白塔を登ってきました”には見えません」
「それ基準なんだ」
「私には重要です」
彼は仮補助員証を手渡した。
そこには雑ではあるが議会別館の仮印が押されている。
アリス・ノル
臨時筆写補助
「アリス・ノル……」
アリアが読む。
「今日のあなたです」
エリオットが言う。
「覚えてください。
呼ばれたら、“はい”とだけ返事を。
余計な説明は不要です」
「余計な説明は不要……」
アリアは自分に言い聞かせる。
ルシェが最後に近づき、アリアの肩に軽く触れた。
「やばかったら逃げなさい」
「うん」
「成功させようとしすぎなくていい。
無事に戻ることの方が大事よ」
アリアは一瞬だけ驚いた。
ルシェがそういう順序で言うのは、ちょっと珍しい。
「……ありがと」
「礼は戻ってきてから」
グレンはそれだけ聞くと背を向ける。
「行け」
アリアは頷き、エリオットの隣へ立った。
王都の朝の人波の中に混じり、二人は議会別館へ向かう。
今日は剣じゃない。
今日は名前すら借り物だ。
でも、それでも進むしかない。




