30話 弱そうな書記官は、弱いとは限らない
《葦羽亭》の扉が開いたまま、冷たい夕方の空気が店内へ流れ込む。
治安局の制服を着た男たちは五人。
中央の先頭だけが一歩前へ出て、礼儀正しそうに一礼した。
「失礼。
議会書記官エリオット・セイン殿に、至急ご同行を願いたい」
声色は穏やか。
だが、その穏やかさがいかにも嘘くさい。
エリオットは席を立たない。
茶杯の取っ手に指を添えたまま、静かに問い返す。
「どの部署の、どなたの命令で?」
先頭の男の笑みが少しだけ薄くなる。
「王都治安局第三巡察課です。
命令系統の詳細は路上では――」
「詳細が出せないなら、私は動けません」
エリオットが遮る。
言い方は静かだが、きっぱりしていた。
アリアは心の中で少し驚く。
さっきまで頼りなさそうに見えたのに、声の芯がぶれない。
男は笑顔を保ったまま続ける。
「緊急性の高い案件です。
白塔周辺異変に関する報告整理のため、あなたの協力が必要でして」
グレンがぼそりと呟く。
「嘘だな」
「うん、私でも分かる」
アリアも小声で返す。
ルシェはもう完全に戦闘前の目をしている。
ただし剣は抜かない。
店主は顔を青くして奥へ引っ込んでいた。
エリオットはようやく茶杯を置いた。
「でしたら書面を」
彼は言う。
「正式な召喚状、あるいは局印付きの照会文書を提示してください。
私は議会所属の書記官です。
手順を飛ばされる理由がありません」
先頭の男の後ろで、一人が小さく舌打ちした。
それだけで十分だった。
こいつらは“正式”ではない。
先頭の男はまだ笑顔を崩さない。
「セイン殿。
手順にこだわるあまり、街の安全保障に穴が開いては困ります」
「私もそう思います」
エリオットが返す。
「だからこそ、偽の手順に従うつもりはありません」
アリアは思わず目を丸くした。
「強っ」
小声で言う。
「見た目で侮ってたでしょ」
ルシェが言う。
「ちょっとだけ」
「正直ね」
先頭の男の笑みが消えた。
「……では、こちらの方々は?」
視線がアリアたちへ向く。
まずい。
ここで素性を詰められたら、いくらでも穴が出る。
だが答えたのは、またしてもエリオットだった。
「議会関連の私的面談です」
「議会関連?」
男が眉をひそめる。
「ええ。
南区における水運徴税と荷役帳簿の不一致について」
エリオットはさらりと言った。
「あなた方の部署とは無関係です」
モグが一瞬だけ感心した顔をする。
「なるほど、つまらなそうな案件をわざと出したな」
「賢い」
リオも低く言う。
だが先頭の男は引かない。
「そこにいる機械体も?」
『帳簿運搬補助機である』
セブンが即答した。
「機械が喋るのか」
男が怪訝な顔をする。
『高機能ゆえ』
アリアは危うく吹き出しそうになる。
こういう時にだけ妙に堂々としている。
男は視線を細めた。
「……確認のため、全員の所属証を」
「ありません」
アリアが言ってしまった。
全員が一瞬固まる。
「アリア」
グレンが低く言う。
「違う、正直さが出た」
「今出すな!」
先頭の男の視線が鋭くなる。
周囲の部下たちも、一歩前へ。
空気が変わった。
それを断ち切ったのは、エリオットだった。
彼は突然立ち上がり、机の上の書類束を持ち上げると、男の前へすっと差し出した。
「所属証の確認の前に、あなたの局印を拝見しましょう」
彼は言う。
「この書類束の一番上にあるのが、先月の治安局巡察権限改定文です。
第三巡察課が議会職員を市中で拘束するには、局長補佐以上の追認印が必要になっています。
お持ちですか?」
男の顔色が、わずかに変わった。
「……」
「なければ越権です」
エリオットは続ける。
「私は議会へ報告しますし、あなた方の上司も困るでしょう」
静かだ。
でも、ものすごく刺さっている。
アリアは心の中で叫ぶ。
この人、書類で殴るタイプだ!
ルシェが横で小さく言う。
「嫌いじゃないわ」
先頭の男は数秒沈黙したあと、ふっと口元だけ笑った。
「さすが議会の方は、よくご存じだ」
「仕事ですので」
エリオットが返す。
「……分かりました。
本日は失礼しましょう。
ただし、近いうち改めて正式にお願いすることになるかもしれません」
「その時は手順に則ってどうぞ」
男は軽く一礼し、踵を返す。
部下たちもそれに続く。
だが扉を出る直前、男はアリアの方を一瞬だけ見た。
たった一瞬。
でも、確実に“覚えた”目だった。
扉が閉まる。
店内の空気が、ようやく少し戻る。
モグが最初に言った。
「いや怖っ」
「ほんとに」
アリアが胸を押さえる。
グレンはエリオットを見る。
「……やるじゃねえか、書記官」
エリオットは椅子に座り直しながら、疲れた顔で言った。
「こういう相手に弱みを見せると、二度と人扱いされませんので」
「今の台詞、見た目よりずっと重い」
アリアが言う。
「軽い職場ではないんです」
エリオットは乾いた笑みを浮かべた。
治安局の男たちが去ったあと、《葦羽亭》の店主は無言で追加の茶を置いてくれた。
たぶん“長くなるなら勝手にしてくれ、その代わり店を壊すな”という意味だろう。
そのありがたい沈黙の中で、改めて話が始まる。
エリオットは先ほどまでとは違い、もう完全に仕事の顔になっていた。
「時間がないので、整理します」
彼は言う。
「まず、あなた方は既に軍務院側に“要注意の旅商隊”として把握されつつある。
正確な身元は割れていないが、南水門を抜けた記録が残れば、いずれ辿られる」
「じゃあ宿もすぐ変えた方がいい?」
アリアが聞く。
「ええ。
今夜のうちに」
エリオットは頷く。
「次に、白塔で起きたことについて。
あなたが今言った“壊さずに止めた”という話が本当なら、王都上層にとってそれは非常にまずい」
モグが身を乗り出す。
「なんでだ?」
「簡単です」
エリオットは指を一本立てる。
「白塔が“ただの危険遺跡”として処理されるなら、封鎖や破壊で話を終えられる。
でも、そこに意思を持った改変が行われたとなれば、“誰が、何のために、何を知っていたのか”が問われる」
リオが静かに言う。
「つまり、責任の線が掘り返される」
「その通りです」
エリオットが頷く。
「灰冠派はそこを最も恐れるでしょう。
彼らは白塔の旧機構を“正体不明だが役に立つ戦時資産”として扱ってきた。
ところが今、それが“戦意操作や強制同調に繋がる危険技術だったかもしれない”と露見し始めている」
アリアは眉を寄せる。
「……もし、それが広まったら」
「軍務次官アルヴェインだけで済まない」
エリオットが答える。
「議会の予算承認者、現場の運用責任者、関連貴族、商会、全部に火がつきます」
「うわあ……」
アリアが引く。
「王都の争いは、だいたいこの“うわあ”で合ってます」
エリオットは真顔で言った。
少しだけ笑いが起きる。
だが内容は笑えない。
グレンが腕を組んだまま聞く。
「なら、お前は何がしたい」
エリオットは少しだけ視線を落とした。
そしてゆっくり答える。
「私は、王都の中で“なかったことにされる記録”を残したいんです」
その言葉に、アリアははっとした。
記録。
母も白塔に記録を残した。
グレンが補助鍵を投げたのも記録のためだ。
そして今、この人も同じことを言っている。
エリオットは続ける。
「軍は戦場で人を消せます。
貴族は金で証言を消せます。
治安局は手順で不都合を消せる。
でも、記録があれば、完全には消せない」
「それを表に出したい?」
アリアが聞く。
「できれば」
彼は頷く。
「ただし、今すぐでは無理です。
公開前にこちらが潰される」
モグが唸る。
「じゃあ証拠集めか」
「ええ。
白塔関連の運用記録、灰冠派の命令文、軍務院内部の調達台帳、治安局への越権依頼書」
エリオットは指を折っていく。
「最低でもそのあたりが必要です」
「最低でも、の時点で多い!」
アリアが言う。
「王都ですから」
「便利な万能返答!」
ルシェが鋭く聞く。
「取れる場所は?」
エリオットは迷いなく答える。
「三つ。
軍務院南書庫。
議会別館の保管室。
そして――王都内政庁の伝達記録庫」
モグが口を開ける。
「おい待て。
三つ目、普通に一番やばくないか?」
「やばいです」
エリオットは落ち着いて言う。
「なので後回しです」
「後回しで済むやばさじゃない」
リオが問いかける。
「最初に行くなら?」
「議会別館」
エリオットは即答した。
「私が唯一、正面から出入りできる場所です。
ただし監視もある。
あなた方全員は入れません」
そこで自然と全員の視線がアリアへ向く。
「え、なんでこっち見るの」
アリアが言う。
グレンが答える。
「お前が一番“想定外”だからだ」
「褒めてる?」
「褒めてねえ」
ルシェも静かに言う。
「でも間違ってないわ。
王都の中枢ほど、“こんな少女が鍵を握ってるわけがない”って思い込む」
エリオットも頷いた。
「正直、私も最初はそう思いました」
「みんな最初それ言うなあ……」
エリオットは少しだけ表情をやわらげる。
「ですが、見た目の油断は使えます。
議会別館へは、私の補助筆写員として一人だけ同行させるのが自然でしょう」
「筆写員?」
アリアが首をかしげる。
「簡単な写し取り係です。
静かに座って、言われた書類を運んで、余計なことを言わない役目」
全員がまたアリアを見る。
「なんで今ちょっと微妙な顔した!?」
アリアが叫ぶ。
モグが正直に言う。
「余計なことを言わない、が難所だな」
「ひどい!」
「事実よ」
ルシェが追撃する。
「ルシェまで!」
だがグレンは腕を組んだまま、じっとエリオットを見ていた。
「……お前、本当に俺たちに協力する気か?」
エリオットも視線を逸らさない。
「はい」
「見返りは」
「二つ」
彼は静かに答えた。
「一つは、白塔の真相が闇に沈むのを防ぐこと。
もう一つは……アルヴェインを失脚させることです」
最後の一言で、空気が少し変わる。
個人的感情が入った。
しかもかなり強い。
アリアが小さく聞く。
「何かあったの」
エリオットは少し黙ったあと、答えた。
「兄がいました」
それだけで、十分だった。
誰もすぐには喋らない。
「三年前、外縁戦線で戦死扱いになりました。
記録上はそうです。
でも、補給記録と移送台帳を照合すると、彼の部隊は本来いるはずのない場所へ動かされていた」
リオが低く言う。
「捨て駒にされたのか」
「たぶん」
エリオットは頷く。
「そして、その時の作戦責任の一端にアルヴェインの名がありました。
もちろん、表には出ていませんが」
アリアは白旗の包みを握る。
王都にはこういう傷が山ほどあるのだろう。
表向きは整っていても、下では人が静かに切り捨てられている。
「だから私は、記録を残したい」
エリオットは言った。
「証明できない怒りは、ただの負け惜しみで終わる。
でも記録があれば、せめて嘘と同じ土俵には立てる」
その言葉は、静かに重かった。
アリアはゆっくり頷く。
「……分かった。
一緒にやろう」
グレンは少しだけ目を細める。
ルシェはアリアの横顔を見る。
モグは小さく息を吐き、リオは考え込むように顎へ手を当てた。
王都の中で、また一人、仲間とも協力者とも言い切れない立場の人間が増えた。
でもたぶん、それでいい。
白旗の旅は、最初からそういうものだ。




