第2話 世界平和は宿代より高い
ベルンの火は、日が暮れても消えなかった。
瓦礫の間を縫って避難した町の者たちは、川沿いの空き倉庫や荷馬車の陰に身を寄せていた。
泣く子ども、怪我人を運ぶ兵士、焼け残った荷を数える商人。
生き延びたという事実だけが、かろうじて人々を立たせているような夜だった。
アリアは、さっきまで《灰鹿亭》だった場所の前に立っていた。
屋根は落ち、二階は半ば焼け崩れている。
けれど地下倉庫は無事だったらしく、父も客たちもどうにか助かっていた。
それだけで十分ありがたい――と、言いたいところだが。
「で?」
腕を組んだ父が、目の前の二人を見た。
ひとりは銀髪に黒角の魔物。
もうひとりは煤だらけの人型機械兵。しかも、片目が割れている。
「説明してもらおうか、アリア」
「はい」
「なんで宿の裏に魔物と機械がいる」
「成り行きで」
「その成り行きが一番聞きたいんだが!?」
アリアはぴしっと背筋を伸ばした。
怒られると分かっている時ほど、なぜか堂々としてしまうのは悪い癖だった。
「まずルシェは私たちを助けてくれました」
「助けてない」
銀髪の魔物――ルシェが即答する。
「セブンは私を庇いました」
『事実である』
「あと、今からこの二人と一緒に旅に出ます」
父の顔が止まった。
「最後だけ情報量がおかしいな」
「えへへ」
「笑ってごまかせる話か!」
父の怒鳴り声に、近くで傷の手当てをしていた町医者までびくっとした。
アリアは肩をすくめる。
「でも、お父さん。見たでしょ」
「……何をだ」
「魔物が人を助けて、機械が人を庇ったのを」
父は黙った。
見ていた。間違いなく、見ていた。
それが一番厄介なのだ。
昔から信じてきた“敵”の形が、その一瞬で崩れてしまったから。
ルシェは壁にもたれたまま、面倒そうに口を開く。
「誤解しないで。私は人間が好きになったわけじゃない。森のために機械を止めた。それだけ」
『私も同様。人間保護は任務外だが、優先すべきと判断した』
「でも、やった」
アリアが言う。
「……やった」
父が渋々認める。
「だから、私はこの二人と行く」
「どこへ」
「世界平和をしに」
「雑!」
父は額を押さえた。
隣でルシェが小さく吹き出し、セブンは真面目な声で言う。
『補足。目的地は未定』
「補足で不安が増したんだけど!?」
アリアは真顔になった。
「古代遺跡か白塔。白旗が反応したから、たぶんあそこに何かある。人間と魔物と機械が、昔は一緒だったって手がかりが」
父は娘の手元を見た。
白い旗は、火の中から拾ったとは思えないほどきれいだった。
焼け焦げひとつない。煤もつかない。ただ白い。
「あれは……お前の母さんの」
「うん」
一瞬だけ、父の目が揺れた。
怒りではなく、昔の記憶に触れた時の顔だった。
「……あいつも、ときどき変なことを言ってたな」
「お母さん?」
「『いつかこの旗を持つ子が、人の敵を人で決めない世界を作る』とか何とか」
「何それ。すごい予言っぽい」
「当時は寝言だと思ってた」
「失礼だなあ」
父は盛大にため息をついた。
「だが、現実問題としてだ」
その声音が変わる。
宿屋の親父ではなく、この町でずっと生き延びてきた大人の声だった。
「お前たち三人で道を歩けば、町によっては門前で射られる。宿は断られる。飯屋からは追い出される。人間は魔物を怖がるし、機械はもっと怖がる。今のベルンが多少混ざってるのは国境だからだ。どこでも同じと思うな」
「分かってる」
アリアは即答した。
「分かってない顔だな」
「ちょっとだけしか分かってない」
「正直なのは取り柄だが、親としては不安しかない」
ルシェが淡々と言う。
「その点は私も同意」
『私もである』
「え、二対一?」
「三対一だ」
父が切り捨てた。
それでもアリアは引かなかった。
拳を握って、父を見上げる。
「でも行くよ。お父さん」
静かな言い方だった。
叫んでいないのに、妙に強かった。
「今日、ベルンは燃えた。明日また別の町が燃えるかもしれない。私、嫌だよ。もう“しょうがない”って言うの。誰かがやらなきゃならないなら、やる」
父は長く黙った。
燃えた宿。
死にかけた客。
避難した子どもたち。
そして、目の前の娘。
昔なら、ここで無理やりでも止めただろう。
だが今、彼女の目に宿っているものは、ただの無鉄砲ではなかった。
焼け跡の中でも消えなかった火だ。
「……一泊だけだ」
「え?」
「今夜だけ、その二人を裏の物置に入れる」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「ただし条件がある」
父は人差し指を立てた。
「まず魔物。角は隠せ。客の前に出るな」
「客、もうほとんどいないでしょ」
「今はな!」
「分かった」
ルシェが不機嫌そうに頷く。
「次に機械。歩く時は音を抑えろ」
『努力する』
「それと喋るな。夜中に“任務を開始する”とか言ったら子どもが泣く」
『……善処する』
「最後にアリア」
「うん!」
「皿洗い」
「なぜ!?」
「こういう時に一番働くのがお前だからだ!」
「理不尽!」
「旅費、いるんだろ!」
「それはそう!」
父の言うことは、だいたい正しい。
悔しいが。
その夜、アリアは避難した町の者たちにスープを配り、焦げた皿を洗い、焼け残った乾パンを数え、眠る前には足が棒になっていた。
裏の物置では、ルシェが干し草の上に座り、セブンは壁際に立ったまま停止モードに入っていた。
アリアは木箱をひっくり返して腰掛ける。
「はあ……世界平和って、たぶんめちゃくちゃお金かかるね」
「最初の感想がそこ?」
ルシェが呆れる。
「大事だよ。平和も旅もご飯がないと続かないし」
『合理的見解である』
「でしょ」
ルシェは布を巻いて角を隠していた。
町にいる間はそのほうがいい、と父に言われたのだ。
見慣れた者なら誤魔化せないが、遠目には旅の傭兵にも見えなくはない。
「人間の親にしては、まともね」
ルシェがぼそりと言った。
「褒めてる?」
「半分は」
「じゃあ受け取っとく」
アリアはセブンのほうを見た。
「セブン、その胸、大丈夫?」
胸部装甲には大きな傷が残っている。
応急的に布で巻いてあるが、どう見ても“大丈夫”ではない。
『稼働率は六十七パーセント。戦闘継続は可能』
「それを大丈夫とは言わないんだよ普通」
『参考にする』
「いちいち真面目だなあ……」
ルシェがアリアを見る。
「本当に、行く気?」
「うん」
「人間にも魔物にも機械にも嫌われるわよ」
「今さらだよ」
アリアは肩をすくめた。
「私、パン泥棒の魔物と友達だし」
「友達じゃない!」
外からミャルの抗議が飛んできた。
どうやら窓の隙間から盗み聞きしていたらしい。
アリアは笑う。
「ほら、こういうのも縁だし」
「縁の定義が軽い……」
しばらくの沈黙のあと、ルシェは低く言った。
「私には目的がある」
「うん」
「機械が森を焼くなら止める。人間がまた同じことをするなら斬る。私はそのために一緒にいるだけ」
「いいよ」
「……否定しないの」
「しない。今のルシェにとって大事なの、それでしょ?」
ルシェは言葉に詰まった。
こんなふうに、そのまま受け取られるのは慣れていない。
アリアは続ける。
「私も最初から『みんな仲良し!』なんて思ってないよ。そんな簡単なら百年も戦ってない。でも、敵って決めつける前に話を聞くくらいはしたい」
『確認』
セブンのレンズが淡く光る。
『それが、君の“世界平和”の定義か』
「今のところは」
『曖昧である』
「そうだね」
『だが、柔軟とも言える』
アリアはにやっと笑った。
「でしょ?」
ルシェはため息をついた。
この娘は、眩しすぎる。
戦場では厄介な光だ。目を逸らしたくなるのに、なぜか見てしまう。
その時だった。
物置の外で、微かな足音がした。
ルシェの目が鋭く細まる。
セブンのレンズが即座に明るくなる。
『敵性反応、二』
「お父さんじゃない?」
アリアが立ち上がる。
「違う。父親ならもっと遠慮なく足音を立てる」
ルシェが剣に手をかけた。
「ひどい言われよう!」
窓の外で影が動いた。
次の瞬間、壁を突き破って槍が飛び込んでくる。
「うわっ!?」
アリアが身をかがめ、セブンが前へ出る。
槍は彼の肩に突き刺さり、火花が散った。
外から怒声。
「いたぞ! 魔物と機械だ! ベルンを襲った連中の仲間だ!」
自警団だった。
焼け跡の混乱の中で、恐怖と怒りのやり場を探している者たち。
ルシェが舌打ちする。
「言ったでしょ。こうなるって」
物置の扉が蹴破られ、松明を持った男たちが雪崩れ込んでくる。
怯えと怒りで顔を真っ赤にし、誰も彼も理性が薄い。
「待って!」
アリアが叫んだ。
「この二人は敵じゃない!」
「騙されるな、アリア!」
見知った顔の男が怒鳴る。
「魔物も機械も同じだ! 今日の火事を見ただろ!」
「見たよ! だからこそ言ってるの!」
だが通じない。
人は怖い時、単純な答えを欲しがる。
誰かを“敵”にしてしまえば、少しだけ楽になるから。
男のひとりがルシェへ突進する。
ルシェは避けるだけに留めたが、次の男はセブンの炉心を狙って剣を振り上げた。
『防御行動』
セブンが腕を上げる。
鈍い音とともに、相手の剣が弾かれた。
「待ってってば!!」
アリアは男たちの前に飛び込んだ。
その瞬間、誰かの肘が彼女の頬をかすめる。痛みが走った。
空気が止まる。
ルシェの金の瞳が、すっと冷えた。
「今、こいつに触った?」
「ルシェ、だめ!」
遅かった。
彼女は一歩踏み込み、男の首元に剣を突きつけていた。
「次に動いたら、本当に斬る」
ぞっとするほど低い声。
物置の温度が一気に下がったようだった。
男たちは足を止めたが、それは説得されたからではない。
ただ、死を感じたからだ。
アリアは頬を押さえながら、ルシェの腕を掴む。
「下げて」
「こいつらは――」
「下げて」
まっすぐな声だった。
怒っているのに、叫んでいない。
ルシェは数秒黙り、ゆっくり剣を引いた。
その代わり、男たちを射抜くように睨む。
アリアは前に出る。
頬の赤い傷が、松明に照らされていた。
「……怖いのは分かる」
誰も動かない。
誰もが、次の言葉を待っている。
「今日、町が燃えた。家も荷物も、たぶん家族を失った人もいる。誰かを殴りたい気持ちも、誰かのせいにしたい気持ちも分かる」
彼女は息を吸った。
「でも、この二人は違う。私が見た。ルシェは機械と戦った。セブンは私を庇った。嘘じゃない」
「証拠があるのか」
誰かが吐き捨てる。
アリアは少しだけ笑った。
泣きそうなのをごまかす時の笑い方だった。
「私」
「は?」
「私が証拠。命を助けられた本人だから」
沈黙。
自警団の男たちは互いの顔を見る。
納得していない。信じ切ってもいない。
けれど“完全な敵”として斬りかかる勢いも、さすがに鈍る。
ちょうどその時、物置の入口に父が現れた。
「そこまでだ」
低い一言だった。
だが、町の連中はその声をよく知っている。
《灰鹿亭》の親父は、普段はうるさいが、肝心な時に嘘をつかない男だ。
「その二人は今夜、うちの預かりだ。手を出すなら、まず俺に話を通せ」
「だが、フェルンさん……!」
「俺も全部信用したわけじゃねえ」
父は正直に言った。
「けど、うちの娘が命を賭けて庇った相手だ。今ここで勝手に殺させるほど、俺も安くねえよ」
それは、全面的な擁護ではなかった。
でも十分だった。
男たちは不満げに舌打ちしながら、少しずつ下がっていく。
最後まで睨んでいたが、誰ももう踏み込まなかった。
やがて物置に残ったのは、アリアたちと父だけになる。
父は娘の頬を見るなり眉をひそめた。
「殴られたのか」
「かすっただけ」
「明日、腫れるな」
「美少女度が落ちる……」
「元気そうで何よりだ」
父は少し黙り、ルシェとセブンを見る。
「見ただろ。これが外だ」
「うん」
アリアが頷く。
「それでも行くのか」
今度は、本当に最後の確認だった。
アリアは頬の痛みを押さえたまま、白旗を握る。
指先は震えている。怖い。さっきのことで、よく分かった。
世界は、思っていたよりずっと簡単に味方にはならない。
それでも。
「行くよ」
父は深く息を吐いた。
怒るでもなく、止めるでもなく、ただ負けた顔で。
「……じゃあ、明日の朝に出ろ」
「え」
「夜明け前なら、人の目も少ない。干し肉と水袋は持たせる。金は……ほぼ無い」
「そこは現実的なんだよなあ」
「現実だからな」
父は振り返りかけて、そこで足を止めた。
「アリア」
「なに?」
「帰る場所くらいは残しておいてやる」
その言葉に、アリアの喉がつまった。
軽口を返そうと思ったのに、うまくできない。
「……うん」
父はそれ以上何も言わず、外へ出ていった。
物置に、静かな夜が戻る。
ルシェがぽつりと言った。
「いい父親ね」
「でしょ」
アリアは鼻をすすった。
「口は悪いけど」
『確認』
セブンが言う。
『明朝、出発と理解してよいか』
「うん」
アリアは白旗を抱えて頷く。
「明日から本当に旅が始まる」
ルシェは干し草の上に寝転がった。
「最初の目的地は?」
アリアは少し考えてから言う。
「白塔」
ルシェが片目を開ける。
「本気?」
「うん」
『推奨ルートを検索中』
セブンのレンズが回る。
『問題発生。最短経路の大半が戦場である』
「だと思った!」
「最高に嫌な旅の始まりね」
ルシェが言う。
アリアは、にもかかわらず笑った。
「でも、面白くなりそう」
「正気?」
「たぶん半分くらい」
ルシェは呆れ、セブンは真面目に言う。
『半分で足りるのかは要検証』
「それを確かめる旅なんだよ」
ベルンの夜はまだ赤かった。
けれど物置の小さな窓から見える空には、ちゃんと星があった。
たくさんの敵意と、少しの理解。
たくさんの不安と、ほんの少しの希望。
その全部を抱えたまま、
白旗の少女の旅は、ようやく始まろうとしていた。




