第1話 パン泥棒と機械の足音
国境町ベルンは、正確には“町”というより“いったん生き延びた人たちの寄せ集め”だった。
石壁は何度も継ぎ足され、道は曲がり、建物は低い。
街道を行く商人、傭兵、脱走兵、孤児、旅芸人、巡礼者、怪しい薬売り、もっと怪しい占い師。
誰が来ても別におかしくないし、誰が明日いなくなっても不思議ではない。
そんな場所の中心に、《灰鹿亭》という小さな宿がある。
朝一番、その宿から飛び出してきた少女が叫んだ。
「こらーーーーっ! 今日こそ逃がさないんだから!」
屋根の上には黒い影。
猫みたいな耳、灰色の毛並み、やけに器用な手。
ベルン周辺に住む小型魔物の一体である。
そいつは口いっぱいにパンをくわえたまま、得意げにしっぽを揺らした。
「アリアのパン、うまい!」
「褒めても返却にはならないの!」
宿の娘アリア・フェルン、十七歳。
髪を後ろでひとつに結び、動きやすい服にエプロン姿。
朝から元気で、怒鳴っていても妙に明るい。
「返して!」
「もう食べた!」
「じゃあ代金!」
「持ってない!」
「じゃあ皿洗い!」
「魔物に労働契約を持ち込むな!」
「パン泥棒に所有権の話をされたくない!」
近くの露店で野菜を並べていた老婆が、大きくため息をついた。
「またやってんのかい、アリア」
「またです!」
「今日は三日ぶりだろ。記録更新だな」
「嬉しくない!」
ミャルは屋根から屋根へ飛び移ろうとして、足を滑らせた。
「あっ」
「うわっ」
落ちる、とアリアが思った瞬間、彼女の体は勝手に動いていた。
木箱を蹴り、樽に飛び乗り、両腕を伸ばす。
どさっ、と軽い衝撃。
アリアは無事にミャルを受け止め、そのまま尻もちをついた。
「いっっった……!」
「た、助かった……」
「パンは盗るくせに、着地は下手なのね……」
ミャルはぱちぱちと瞬きして、それから気まずそうにパンくずを差し出した。
「半分、やる?」
「もうほぼ無いじゃん!」
笑い声が起きた。
通りを行く人々が肩をすくめる。
この町では、魔物を完全に歓迎はしないまでも、見かけること自体は珍しくない。
国境だからだ。人間だけで暮らしている町より、現実を知っている。
もっとも、それは安全と同義ではない。
「アリア!」
宿の中から太い声が飛ぶ。
「また表で騒いでんのか! 皿が乾いたなら次は薪を割れ!」
父だった。
がっしりした腕に、いかにも商売人らしい目つき。優しいが口は悪い。
「今行く!」
アリアは返事をし、ミャルを地面に下ろす。
「次からは払える時に来なさい」
「払えたら盗まない!」
「妙に筋が通ってるのやめて!」
ミャルは一声鳴いて走り去った。
アリアはエプロンの埃を払い、空を見上げる。
青かった。
雲が薄く流れ、風はあたたかい。
国境の町にしては、ひどく平和な朝だった。
だから、嫌な予感がした。
「……やだな」
「何がだ?」
薪束を抱えた父が聞く。
「分かんないけど、静かすぎる」
父は少しだけ周囲を見回し、低く言った。
「鐘が鳴るまで仕事だ。予感で飯は食えん」
「うん」
そう。
予感で腹は満たせない。
だから人は、見ないふりをする。今日くらいは大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
けれど、その日の昼前。
町を囲う壁の向こうから、地鳴りが来た。
最初は遠い雷みたいだった。
次に、揃った足音だと分かった。
見張り台から悲鳴が落ちてくる。
「北門! 北門に機械軍!!」
通りの空気が一瞬で凍る。
荷車を引いていた男が手を離し、子どもが泣き、露店の果物が転がる。
次の瞬間、鐘が鳴った。狂ったように、何度も何度も。
父がアリアの腕を掴む。
「地下へ行け!」
「でも、みんなが――」
「行け!」
その声に逆らえなかった。
アリアは頷き、近所の子どもたちを押し集めるようにして宿の地下倉庫へ向かわせる。
だが、地下へ降りる手前で、彼女は見てしまった。
北門が、吹き飛ぶところを。
石壁が内側へ弾け、煙の向こうから銀色の軍勢が現れる。
人型の兵器、四足歩行の装甲獣、上空を滑る偵察機。
どれも同じ青い光を目に宿し、感情のない足取りで町へ入ってくる。
先頭の大型機兵が、拡声装置のような声を響かせた。
『国境町ベルンを接収する。抵抗は非推奨。資源、労働力、魔力炉、すべて徴発対象』
誰かが叫んだ。
誰かが石を投げた。
次の瞬間、その誰かは壁に叩きつけられていた。
「……っ」
アリアの喉がひきつる。
足がすくむ。
怖い。怖い。逃げたい。
けれど地下倉庫の入口で、年下の子が服を掴んでいた。
「アリア姉ちゃん……」
震えている。泣いている。
その顔を見た瞬間、恐怖の向きが変わった。
自分が怖いんじゃない。
この子たちが傷つくのが怖い。
「大丈夫」
アリアは、できるだけ明るく言った。
「大丈夫だから、下に行って。鍵をかけて、誰かが呼ぶまで出ちゃだめ」
「でも……!」
「いいから!」
子どもたちは泣きながら地下へ消えた。
アリアは入口を閉め、振り向く。
その直後、通りの向こうで火柱が上がった。
宿だ。
《灰鹿亭》の屋根に、機械兵の射出した炎弾が突き刺さっていた。
「お父さん!!」
叫んで走る。
途中、瓦礫で足を取られ、転ぶ。痛い。でも立つ。
煙の中、父が倒れた梁を押さえ、逃げ遅れた客を外へ出していた。
「アリア、来るな!」
「手伝う!」
「来るなって――」
その時、空の南側から低い咆哮が響いた。
黒い影が、森から飛び出してくる。
翼ある獣、角ある戦士、蔦を纏う大男。
魔物の群れだった。
ベルンの誰もが、終わったと思った。
機械と魔物に挟まれたのだと。
だが魔物たちは、町へ向かわなかった。
機械兵へ襲いかかった。
「な……」
アリアが目を見開く。
機械兵の首が飛ぶ。
四足装甲獣が、樹木の根のような鞭に絡め取られて転がる。
炎の向こうに、銀髪の女が立っていた。
長い髪。黒い角。金の瞳。
夜そのものみたいな黒衣を纏い、細身の剣を握っている。
彼女は鮮やかに一体の機械兵を断ち切ると、こちらも見ずに言った。
「人間。立ってる暇があるなら逃げなさい」
アリアは呆然とした。
「……助けて、くれてるの?」
「助けてない」
女は冷たい声で返した。
「機械が増えすぎると森が焼ける。それだけ」
それでも十分、驚くには足りた。
次の瞬間、父の背後へ大型機兵が迫る。
赤い炉心を持った指揮官機だ。
人の反応では間に合わない。
「危ない!!」
アリアは考えるより先に走っていた。
転がる板を踏み、炎の横を抜け、父を突き飛ばす。
衝撃が来る――はずだった。
金属音。
目の前に、別の機械兵が立っていた。
細身の機体。片目のレンズは割れ、胸の装甲も欠けている。
だが彼は、今まさに大型機兵の刃を受け止めていた。
『第七戦術機、なぜ人間個体を庇う』
片目の機械兵は、数瞬だけ沈黙してから答える。
『不明。だが、この行動を選択する』
選択。
機械が、そう言った。
大型機兵が二撃目を振り下ろす。
片目の機械兵はそれを受け流し、アリアへ振り向いた。
『退避を推奨』
「え、あ、あなた……」
『説明は後回し』
次の瞬間、爆発。
大型機兵の残骸が弾け、破片が散る。
片目の機械兵はアリアを庇い、背中から地面へ崩れた。
銀髪の魔物剣士が舌打ちして駆け寄る。
「最悪。人間ひとり守るためにこんなところで壊れる気?」
『損耗率、上昇。だが任務継続可能』
「どっちの味方よ、あんた」
『現在、再計算中』
ルシェ――まだ名も知らないその魔物は、初めてアリアをまっすぐ見た。
「人間。そいつを捨てて逃げなさい。そんなガラクタ抱えていたら死ぬ」
アリアは答えなかった。
答える前に、答えは体が出していた。
彼女は片目の機械兵の腕を肩に回し、立ち上がろうとした。
重い。とんでもなく重い。
びくともしない。
「う、っそ……重……!」
「当たり前でしょ鋼よ!?」
「軽量化って概念ないの!?」
『ある。だが私は重装型である』
「今それ言う!?」
ルシェが一瞬だけ、ぽかんとした顔をした。
町は燃えている。人は叫んでいる。機械軍はまだいる。
なのにこの娘は、敵か味方かも分からない機械に文句を言いながら助けようとしている。
本物の馬鹿だ、と彼女は思った。
その馬鹿が、歯を食いしばって言う。
「私は、見捨てない」
「は?」
「人間も、魔物も、機械も。分かんないけど、でも今、私の前で死にそうなら見捨てない」
炎が風にあおられ、白い灰が舞った。
アリアの頬は煤で汚れ、目には涙が滲んでいる。
怖くないはずがない。
それでも、逃げない。
「戦争なんて、もうたくさんだ」
その手には、いつの間にか白い旗が握られていた。
宿の焼け跡から落ちてきたのか、母の遺品の白旗が、灰の中で不自然なくらい汚れていない。
片目の機械兵のレンズが、その旗を見て微かに明滅する。
『……認証反応、確認』
ルシェの顔色も変わった。
「なんでそれを、人間のお前が……」
アリアは二人を見て、息を吸った。
たぶん、人生でいちばん無謀で、いちばん本気の言葉を。
「私が終わらせる」
町の喧騒の中で、その声だけが妙にまっすぐ響いた。
「人と、魔物と、機械の戦争を。私が終わらせる」
数秒の沈黙のあと。
銀髪の魔物は額を押さえた。
「……最悪。とんでもないのを拾った」
片目の機械兵は静かに告げる。
『提案を受理。同行し、検証する』
「検証ってなによ」
『彼女の理想が、現実に対してどの程度有効か』
「要するに?」
『見届ける』
アリアは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま笑った。
「じゃあ、決まりだね」
「決まってない」
ルシェが即座に言う。
「今決まった!」
「誰が」
「私が!」
「強引すぎる……!」
大型機兵の残骸の向こうで、まだ戦いは続いている。
町は半分燃え、未来は何も見えない。
それでも、白い旗はアリアの手の中で確かに揺れていた。
ここから始まる。
理想論だと笑われる旅が。
人間と魔物と機械が同じ宿に泊まるだけで騒ぎになる旅が。
何度も失敗して、何度も泣いて、それでも前に進む旅が。
そしていつか世界を変える、
白旗の少女の物語が。




