第27話 ひとりで来いと言われたので、ひとりで行くふりをした
翌朝のグラヌは、曇り空だった。
街全体が灰色の布をかぶったみたいに光が鈍い。
そのせいか、《灰鷲橋》という名前も妙にしっくりくる。
西区と中央区を結ぶ大きな石橋。
橋の下には濁った運河が流れ、両脇には商家と倉庫が並んでいる。
朝早い時間なら人通りも少なく、密会にはたしかに向いていた。
向いていてほしくなかったけど。
アリアは深く息を吐く。
「……ほんとに、ひとりで来ちゃったように見えるかな」
『外見上は、ほぼ単独行動に見える』
セブンの声が耳飾り型の小型共鳴器から響いた。
「それ“ほぼ”ってつくの不安なんだけど」
『完全は存在しない』
「今そういう哲学っぽいやついらない!」
もちろん、本当にひとりで来たわけではない。
来るわけがない。
橋の北側倉庫屋根にはルシェ。
市場側の荷車列に紛れてモグ。
運河沿いの石段下にリオ。
少し離れた裏路地にグレン。
セブンは橋下構造の内部。
四号はさらに後方で退路確保。
ネムとミナは宿に残した。
「改めて思うけど、ひとりで来いって言われてこの布陣はひどいね」
『合理的である』
セブンが即答する。
「うん、それはそう」
アリアは白旗を包み布のまま背負い、橋の中央へ歩いた。
灰鷲橋は長い。
風も強い。
石畳の上に響く自分の足音がやけに大きく感じる。
そして、橋の中央にはもう人影があった。
黒い外套。
細身。
手すりに肘をつき、いかにも待っていましたという顔でこちらを見る男。
レインだった。
「時間どおりだね」
彼は穏やかに言う。
「……そっちも」
「私は時間にルーズな部下が嫌いでね」
「部下に嫌われてそう」
「割と」
レインは肩をすくめた。
その余裕が、やっぱり気に入らない。
でも昨日の殺意むき出しの戦場よりは、少しだけ人間に見えた。
アリアは橋の中央で止まる。
「話って何」
「単刀直入だな」
「あなたと世間話したくないし」
「手厳しい」
レインは笑ったが、その目は笑っていなかった。
「なら単刀直入に言おう。
君たちは今、王国の中で最も厄介な存在のひとつになった」
「褒めてる?」
「全く」
「だよね」
レインは橋の下を一度見た。
その仕草が妙にさりげない。
でもアリアには分かった。
こちらが完全に単独ではないことに、気づいている。
「周囲の連れは、今日は見逃してあげるよ」
レインが言う。
アリアの背筋が冷える。
「……見えてるの」
「全部じゃない。
でも、君が本当にひとりで来るほど馬鹿じゃないことくらいは知ってる」
「ちょっと安心した。
馬鹿だと思われてなくて」
「勇敢と無鉄砲の境目にいるとは思ってる」
「その評価微妙!」
レインは少しだけ口元を緩めた。
それから、急に温度を下げる。
「本題に入ろう。
白塔で君たちがやったこと――正確には、《白心》の状態変化は王国上層に伝わっている」
アリアの表情が引き締まる。
「上層って、どのくらい」
「軍務院、内政府、王都貴族の一部。
そして黒鴉の直接監督権を持つ連中」
「黒鴉って、軍じゃないの?」
「半分は軍。半分は貴族の私兵みたいなものだ。
だから厄介なんだよ」
橋の上を風が抜ける。
レインは続けた。
「白塔停止――いや、“改変”と呼ぶべきかな。
そのせいで、今まで各地で利用できていた古代機構の一部が止まった。
兵站補助、自動防壁、暴走誘導、感情圧迫型の拡声装置……そういう類いがね」
アリアは顔をしかめる。
「感情圧迫型って何」
レインは少しだけ黙った。
その沈黙は、“言いたくないが知っている”沈黙だった。
「戦意を煽る装置だよ」
彼は淡々と答える。
「怒りや恐怖を増幅し、敵への嫌悪を固定しやすくする。
白心由来の副次波を使った、極めて古い応用だ」
アリアの指先が冷たくなる。
「……そんなもの、使ってたの」
「“使っていた者がいる”が正しい」
レインが訂正する。
「王国全体が共有していたわけじゃない。
だが、一部は知っていて、便利に使った」
橋の下から吹き上がる風が急に冷たく感じた。
ルシェの言っていたことが頭をよぎる。
人は剣より先に言葉で刺してくる。
でも、その言葉すら装置で押し曲げていた者がいる。
アリアは低く言う。
「それを止めたから、困ってる人がいるんだね」
「そういうことだ」
レインは頷く。
「じゃあ、その困ってる人って誰」
「今日はその話をしに来た」
レインは橋の手すりに寄りかかったまま、アリアを見た。
「王国は今、表向きには二つに割れている。
一つは白塔の異変を“安全保障上の損失”と見る軍務院。
もう一つは“外交上の機会”と見る穏健派だ」
「外交上の機会?」
アリアが聞く。
「白心の圧が弱まった今なら、魔物領との停戦交渉をやり直せるかもしれないと考える連中がいる。
少数だがね」
「それ、悪くないじゃん」
「悪くない。
だからこそ、消されやすい」
アリアは息を呑む。
レインの声は静かだった。
だがその静けさが、王国内部の汚さを逆に際立たせる。
「問題はもう一方だ。
軍務院の中でも、特に白塔の旧機構を欲しがっていた一派――《灰冠派》」
「灰冠派……」
「現軍務次官アルヴェインを中心にした派閥だ。
彼らは戦争を“早く終わらせるための必要悪”として、古代機構の再起動と白心の掌握を進めていた」
アリアの目が険しくなる。
「掌握って……世界平和のため、とか言って?」
レインは皮肉っぽく笑う。
「だいたいそういう連中は、そう言う」
グレンの話しぶりに少し似ていた。
それが逆に嫌だった。
きっとレインも、そういう人間を間近で見続けてきたのだ。
「アルヴェインってどんな人?」
アリアが聞く。
「表向きは名門貴族出身、冷静沈着、戦争終結を急ぐ愛国者。
裏では、戦争継続で権限を拡大してきた男」
「最悪だね」
「部下としても勧めない」
「部下だったことあるの?」
「直接ではない。
だが命令系統の上にいた」
アリアは少しだけ眉をひそめる。
「……レイン、なんでそんなこと私に話すの」
ようやく核心だった。
敵が、ここまで情報を渡す理由が分からない。
罠なら罠でいい。
でも、罠にしては情報が具体的すぎる。
レインはしばらく黙った。
橋の上を吹く風に外套が揺れる。
やがて彼は、珍しく少しだけ疲れた顔で言った。
「私は君たちの味方じゃない」
「うん、それは知ってる」
「だが、アルヴェインの完全勝利も望んでいない」
「……それはどういう意味」
レインはまっすぐアリアを見る。
「私は秩序が必要だと思っている。
混乱よりは統制がいい。
死人が減るなら、多少の強制もやむを得ないと考えた時期もある」
「時期もある、ってことは今は違うの」
「白塔を見るまでは、な」
その一言は、思ったより重かった。
レインは続ける。
「君たちがやったことは、正直に言えば愚かしい。
非効率で、危うくて、再現性も低い」
「すごい悪口」
「だが――」
レインはそこで区切った。
「白心を壊さず、しかもあの形で止めた結果だけは、私の想定外だった」
アリアは少しだけ息を止める。
敵に“想定外だった”と言わせた。
それは怖いことでもあるし、少し誇らしくもある。
「だから確認したい。
君が本当に偶然の馬鹿なのか、それとも意志を持って動いているのか」
「ちょっと待って、まだ馬鹿候補残ってるの!?」
「そこは重要だ」
「重要なの!?」
レインは初めて、少しだけはっきり笑った。
「重要だよ。
偶然で世界を揺らした者は、次に自分まで飲まれる。
だが意志で揺らした者は、次を選べる」
アリアは一瞬だけ黙った。
そして答える。
「……意志だよ」
それは強がりじゃなかった。
第1巻の最初なら言えなかった。
でも今は言える。
「私は、違うまま一緒にいられる道を探したい。
それを壊す人がいるなら止めたい。
だから、王都へ行く」
レインの目が細くなる。
「本当に行くのか」
「行く」
「死ぬかもしれないぞ」
「知ってる」
「君だけじゃない。
連れもだ」
アリアは頷いた。
「それも知ってる。
だから一人で決めないようにしてる」
その返答を聞いて、レインは一瞬だけ視線を伏せた。
何を思ったのかは分からない。
でも少なくとも、軽くは見ていない顔だった。
「ひとつ、君に忠告しよう」
レインが言う。
「王都へ入るなら、正門から行くな。
《蒼壁門》は灰冠派の息がかかっている」
「じゃあ、どこから」
「南の水運区。
荷役の登録証があれば通れる」
「そんなの持ってないよ」
「作れるだろう?」
レインが、どこかを見ながら言う。
橋の下か、橋の袂か。
たぶんモグのいる方向だ。
アリアは小さく苦笑する。
「まあ、たぶん」
「次に」
レインは続ける。
「王都で最初に会うべきは軍の人間じゃない。
議会書記官エリオット・セイン。穏健派に近い若手だ。
彼は表向き弱いが、文書と記録の扱いに長けている。
白塔の改変記録を表へ出すなら、ああいう人間が必要だ」
「そんな人まで教えていいの?」
「よくない」
レインは即答した。
「だから恩に着る必要はない。
借りにもしなくていい」
「じゃあ、なんで」
レインはそこで初めて、ほんの少しだけ感情を見せた。
「……グレンが昔、同じことをした」
アリアが目を見開く。
「え」
「戦場で拾った情報を、自分に都合のいい相手じゃなく、“一番被害を減らせそうな相手”に流した。
そのせいで上からは嫌われ、下からは半端者と呼ばれた」
アリアは思わず笑いそうになる。
「すごい、想像できる」
「できるだろう」
レインも少しだけ笑った。
でもすぐにその笑みは消える。
「私はそれを、青臭いと思っていた。
今でも半分はそう思ってる」
「半分は?」
「……もう半分は、少し羨ましかった」
その言葉は、風に紛れそうなくらい小さかった。
アリアはすぐには返せなかった。
レインという人間が、少しだけ分からなくなる。
いや、分かり始めるからこそ、簡単に敵と言い切れなくなる。
それは嫌なことだった。
敵は敵のままの方が楽なのに。
レインは話を切り替えるように懐から小さな札を取り出し、石橋の欄干に置いた。
真鍮の薄い通行札。
水運区の荷役印が刻まれている。
「偽造品ではない。
一度しか使えないが、南水門を通るには足りる」
アリアは目を丸くした。
「いや、それ完全に協力じゃん」
「勘違いするな」
レインは冷たく言う。
「君たちが王都に入れば、灰冠派は動く。
動けば尻尾が見える。
私も見たいだけだ」
「やっぱり嫌な言い方するね」
「性分でね」
その時、橋の南側から鐘の音が三つ鳴った。
市中警戒の合図だ。
レインの表情が変わる。
「もう時間だ」
「待って」
アリアが言う。
「最後に一個だけ聞いていい?」
「内容次第だ」
「白塔の時、なんでグレンを殺さなかったの」
レインは一瞬だけ黙る。
その沈黙は、今までで一番長かった。
やがて彼はアリアを見ず、運河の水を見ながら答えた。
「……殺せるなら、とっくに終わってる」
「え?」
「それだけだ」
アリアはそれ以上聞けなかった。
その言い方には、怒りも、呆れも、たぶん未練も混じっていたからだ。
レインは背を向ける。
「次に会う時、私は敵として会うかもしれない。
そのつもりでいろ」
「うん」
「君もだ。
話ができる相手だからといって、躊躇うな」
「それは難しいなあ……」
「難しいから忠告してる」
レインは橋を去っていく。
黒い外套が灰色の街並みに溶けるように遠ざかる。
そして角を曲がる直前、振り返りもせずに言った。
「あと、グレンに伝えてくれ。
“次は借りを返す番だ”」
それだけ残して、彼は消えた。
レインの姿が完全に見えなくなってから、ようやく仲間たちが姿を現した。
最初に屋根から降りてきたルシェが、開口一番こう言った。
「生きててよかった」
「それ、優しいね」
アリアが言う。
「次は許さない、までで一文よ」
「後半が怖い!」
モグは橋の欄干の札を拾い上げ、目を輝かせた。
「本物だ。
しかも正式発行番号つき。
あいつ、なんでこんなの持ってんだ?」
グレンが遅れて路地から現れる。
顔はいつも以上に嫌そうだった。
「レインが渡した?」
「うん」
「最悪だ」
「でも、王都に入る手段にはなるよ」
「それが最悪なんだよ」
リオが腕を組む。
「情報は?」
アリアは、レインから聞いたことを順番に話した。
灰冠派。
軍務次官アルヴェイン。
王都南水門。
議会書記官エリオット・セイン。
そして、王国の中で白塔の旧機構を利用していた一派の存在。
話し終えると、しばらく誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのはグレンだ。
「……アルヴェインか」
その声音が、普段よりずっと低い。
ルシェが気づく。
「知ってるのね」
「知ってるも何も、白塔座標を俺に吐かせた側の一人だ」
アリアの目が見開く。
「え」
「正確には、直接じゃねえ。
だが、家族を人質に取った命令系統の上にいた」
橋の上の空気が一気に重くなる。
モグが舌打ちする。
「じゃあ大当たりじゃねえか……」
リオも顔をしかめた。
「王都に行けば、完全に因縁のど真ん中だな」
アリアはゆっくり手を握る。
怖い。
でも、方向は見えた。
白塔の次に向かうべき敵は、
“戦争そのもの”という大きなものじゃなく、
その戦争を利用してきた人間たちだ。
グレンが苛立ったように髪をかき上げる。
「レインの情報は本物だろう。
あいつはああいう嘘はつかねえ」
「言い切るんだ」
ルシェが冷たく言う。
「嫌な方向にはな」
「信頼の形が歪んでるわね」
「うるせえ」
アリアは橋の向こうを見た。
曇り空。
灰色の街。
その先にある王都。
そこには剣だけじゃなく、書類と命令と立場で人を追い詰める敵がいる。
たぶん、白塔よりずっと“普通の悪意”に近い。
だからこそ厄介だ。
「行こう」
アリアが言う。
みんなが彼女を見る。
「王都に行く。
灰冠派を調べる。
白塔で何が利用されてたかも、ちゃんと表に出す。
それで……」
彼女は少しだけ息を吸った。
「グレンの昔のことも、終わらせる」
グレンが嫌そうに顔をしかめる。
「勝手に終わらせるな」
「勝手にじゃない。
一緒に」
その言葉に、グレンは少しだけ黙った。
それから、いつもの調子で吐き捨てる。
「……馬鹿が」
でも、完全な否定ではなかった。
風がまた橋を吹き抜ける。
灰色の空の下、一行は新しい敵の輪郭を掴み始めていた。




