77.あの日
洗面所の棚から吸入を取り出すも、こんな時に限って咳が出るし、そんでもって止まらない。
「しんどいですよね」
「あ、ありがとう、ゴボッ」
「大丈夫ですから、そのまましゃがんでください」
お礼をちゃんと言いたいのに、うまく話せず、とりあえずそっぽを向く。私の汚い唾を、1ミリも綿貫さんにかけたくない。
拾われた吸入と、さすられた背中。申し訳なさと、咳のしすぎで視界が滲む。少し落ち着いて薬を吸った後、うがいをしてそっとリビングに忍び込む。
「な、な、な、ど、どうしました!?」
「佐藤さん、ソファーに座ってください」
「ん?」
「おでこ失礼しますね」
突然手を握られ、ソファーに座らされたかと思うと、今度は綿貫さんの冷たい手が私のおでこと接触した。
え、え、もう2度と顔洗えないよ。しかしそんな私は置いてけぼりで、綿貫さんの顔はどんどん曇る。
「熱ありません?」
え、元気だよ!なんでなんで?朝から元気だし、今も台風の気圧の変化で喘息は出ても、熱は関係ないじゃん!
「体温計はどこにありますか?一応ですけど、熱測ってください」
「そ、そんな大袈裟な」
「僕はあの日のこと、忘れてないですからね!」
あれだけ迷惑をかけた綿貫さんには言えない。
ゴールデンウィークの事件が嫌すぎて、元気になってから折っちゃったなんて……言えないよ!
「もしかしてないんですか?」
「あー、壊れて捨てて……そのまま」
「わかりました。僕、コンビニで買ってきます」
「あ、じゃあ私も「待っててください」
えー、どうしよう。え、たまたまさっき咳出ただけだし?熱なんてないと思うんだけどな。
驚く速度で家を出て行った綿貫さん。え、ちゃんと帰ってきてくれるよね?
自分のおでこに手をあててみても、よくわからないし。
「か、帰ってきてくれたんですか……?」
「当たり前じゃないですか。じゃあこれ、測ってください」
「え、あ、その……や、かも?」
「はい、熱ありますよ。測ってください」
「ないないないない」
なんでこんなことになった?せっかくのお家デート、いや、勉強会のはずだったのに……。
「寒いんじゃないんですか?」
「へ?寒くないですよ」
「さっきまでカーディガン羽織ってなかったじゃないですか」
……む、無意識だった。なんとなく冷房が冷たいかもって思ったのかも?なんて心の中で一生懸命言い訳を並べる。
しかし抵抗も虚しく、再びソファーに座らされた私。そして流れるように渡された体温計。これで熱があったら、熱があったことになっちゃうじゃん……。
「佐藤さん」
「……はい」
渋々脇に挟めば、綿貫さんはコンビニの袋を持って「冷蔵庫開けますね」と言い、キッチンへ行ってしまった。
あーあ、楽しい勉強会のはずだったのにな。さっきまで家庭教師するの、楽しかったのにな。
ピピピッ
……37.9。やばい、熱あるじゃん。でも神様聞いてください!本当に知らなかったんです、わざとじゃないんです。
「鳴りました?見せてください」
いつもの間にか戻ってきた綿貫さんは、さらっと隣に座り、早く渡せとジェスチャーしている。
「……は、測り直したらダメですか?」
「ダメです!ってやっぱり熱あるじゃないですか」
こういう時に限って、咳が止まらない。
「すみません、失礼します。寒いですか?」
「ちょ、ちょっと?風が出てきましたし?」
背中をさすられると、ちょっと乱れた呼吸から咳が漏れてしまう。窓の外の電線が、揺れているのが見えた。気圧の変化なのか、最近調子の良かった喘息もぶり返し。
「家の中に風は吹いてないですよ。やっぱり大丈夫じゃないですね。喉の方が辛そうですけど、とりあえず吸入はしたから……」
なぜバレたのか。咳をしてるとはいえ、喘息経験者とはいえ、咳払いとかしてないのに。
「佐藤さん、首元さすりすぎです」
やばい!そう慌てて手を隠すももう遅い。
「日曜日だから病院はやってないし。誰か来れる人います?」
「……はい。あの、すみません。お手数おかけしました。さようなら」
「さようならじゃないですよ。佐藤さんは具合悪くなると、本当にわかりやすですね」
え……嫌われた?わかりやすいって何?ばかってこと?一緒に入れないのを受け入れるから、どうかこのまま友達を続けさせてください。
そう思うのに、さすられたのもあってか途端に咳が止まらない。喉の奥も締まり始め、ヒューヒューとした音が頭に響き始めたけど、そんなことよりも嫌われたくないよー!




