狐火の御神渡り 6
『四月十五日
今日は変な客が来た』
少女は読む。
『高校生くらいの女の子。
腕時計を持ってきた。
ガラス割れてるし、針も曲がってる』
次の行。
『でも本人は、絶対直してほしいって言う』
少女はページをめくる。
『新しいの買った方が安いぞって言った。
そしたら怒られた』
さらに次。
『“これはお父さんのだから”だと』
店の奥で時計が鳴る。
カチ。
……カチ。
少女は静かに顔を上げた。
机の上。
分解された古い腕時計が置かれている。
ガラスが割れたまま。
止まった針。
まるで、日記の中の時計がそのまま残っているみたいだった。
少女はまたページを見る。
『親の形見らしい。
だったら最初からそう言えばいいのに』
次。
『結局、徹夜して直した』
『眠い』
さらに次。
『時計渡した時、あの子、泣きそうな顔で笑ってた』
少女はその文章をゆっくり読む。
泣きそうなのに笑う。
最近、そういう感情をよく見る。
嬉しいだけじゃない。
悲しいだけでもない。
人間の感情は、混ざっている。
雨みたいに。
境界が曖昧だった。
少女はページをめくる。
『五月二十日
最近、店に来る客が減った』
『みんな時間を見るのをやめたのかもしれない』
次。
『街も静かだ』
『前より、人が減った気がする』
少女は少しだけ手を止めた。
その文章だけ、空気が違った。
けれど日記は、すぐ元に戻る。
『でも常連のばあさんは相変わらず元気』
『今日は三時間も世間話された』
『仕事にならん』
少女はそのページを長く見ていた。
たぶん。
この時計屋は、本当に普通の人だった。
世界を変えた人ではない。
特別な力もない。
毎日、同じ店を開けて。
同じ時計を直して。
同じ街で歳を取っていった。
だけど。
日記を読んでいると。
その“普通”が妙に温かかった。
少女はさらにページをめくる。
『七月一日
久しぶりに息子から電話』
『三年ぶり』
『声変わってた』
次。
『元気そうで安心した』
その次。
『でも、少しだけ寂しかった』
少女は静かに瞬きをする。
安心。
寂しい。
同時に存在している。
人間は、矛盾した感情をそのまま抱えて生きている。
少女は、自分の胸へ手を当てた。
機械の音だけがある。
規則的で。
正確で。
止まらない。
でも。
日記の中の人間達は違った。
不安定で。
壊れやすくて。
なのに。
その不完全さが、なぜか綺麗だった。
店の奥で、また時計が鳴る。
カチ。
……カチ。
少女は最後の方のページを開く。
文字は以前より少し乱れていた。
『十一月十日
最近、手が震える』
『細かい部品を落とすことが増えた』
『歳だな』
次。
『でも、まだ直せる』
『直せるうちは続けたい』
ページをめくる。
その次のページには、小さな写真が貼られていた。
若い頃の時計屋。
隣には女性。
二人とも笑っている。
店の前らしい。
看板がまだ新しい。
その下に文字。
『開店の日』
少女は写真を見る。
長い時間。
この人にも。
若い頃があった。
夢があった。
誰かと笑っていた時間があった。
そして。
今は骨だけが残っている。
少女は最後のページを開く。
『十二月二十四日
今日も時計を直した』
『雪』
『寒い』
次の行。
『でも、まだ音は鳴ってる』
そこで日記は終わっていた。
少女は静かに閉じる。
店の中は暗い。
止まった時計達。
積もった埃。
崩れかけた天井。
なのに。
奥で動いている時計だけは、まだ時を刻んでいる。
カチ。
……カチ。




