狐火の御神渡り 4
ページをめくる。
クレヨンの跡。
強く描いた場所は紙が少しへこんでいた。
『おさかな、いっぱいいた』
青い線が何本も描かれている。
魚なのか。
波なのか。
よくわからない。
けれど、描いた本人が楽しそうだったことだけは伝わってきた。
少女は静かに次のページを開く。
『ぱぱ、およげないのに、うみに はいってた』
横には、棒みたいな人間が溺れている絵。
その隣で丸い顔が笑っている。
少女は少しだけ首を傾げた。
溺れる。
危険。
なのに。
この絵は、なぜか明るい。
さらにめくる。
『きょう、ままとけんかした』
黒いぐしゃぐしゃの線。
ページいっぱいに描かれている。
次のページ。
『でもぷりんくれた』
黄色い丸。
その横で笑っている三人。
少女はそのページを長く見ていた。
怒る。
笑う。
仲直りする。
人間は、一日の中で何度も感情が変わるらしい。
不安定で。
面倒で。
でも。
その変化が、日記の中では妙に自然だった。
少女はさらに読む。
『ぱぱ、おしごとない』
次のページ。
『でも、いっしょにいる』
また次。
『まま、ないてた』
次。
『だから、みーがわらった』
少女の視線が止まる。
小さな文字。
歪な形。
たぶん幼い子供が、一生懸命書いた字。
“だから、みーがわらった”
少女はその文章を何度も見返した。
泣いているから。
笑った。
意味がうまく理解できない。
悲しいなら、一緒に悲しむのではないのか。
でも。
この子は笑った。
誰かのために。
少女はゆっくり顔を上げる。
海は赤く染まり始めていた。
夕陽。
水面が光っている。
風が吹き、ページが揺れた。
少女は慌てて押さえる。
その時だった。
一枚の紙が、絵本の間から落ちた。
少女は拾う。
写真だった。
少し色褪せている。
海辺。
男。
女。
そして、小さな女の子。
三人とも笑っていた。
少女はじっと見る。
これが。
みーちゃん。
写真の中の少女は、前歯が少し抜けていた。
服は汚れていて。
髪もぼさぼさで。
でも、すごく嬉しそうだった。
少女はその笑顔を見つめる。
長く。
静かに。
やがて絵本へ視線を戻す。
最後の方のページは、急に文字が減っていた。
絵も少ない。
『きょう、ままがびょういん』
次。
『ぱぱ、ずっといない』
次。
『ひとりでねた』
少女はページをめくる手を少し止めた。
クレヨンの色も減っている。
最初の頃みたいな明るさがない。
そして。
最後のページ。
そこには、小さな太陽が描かれていた。
歪な黄色。
その下に、一行だけ。
『また、うみいきたい』
それで終わっていた。
白紙。
次のページも。
その次も。
少女はしばらく動かなかった。
波の音だけが続く。
赤い夕陽。
誰もいない海。
この子はもういない。
骨だけになって。
小さな箱の中で眠っている。
なのに。
少女の中では。
みーちゃんは今、笑っていた。
防波堤を走って。
転びそうになって。
プリンを食べて。
父親と海へ行きたがっていた。
「……また、海」




