狐火の御神渡り 2
少女は、その日記帳を見つめていた。
雨が降っている。
木箱の中で、骨は静かに眠っていた。
白く。
細く。
もう誰だったのかもわからない。
けれど、その隣の日記だけは妙にはっきり存在していた。
まるで。
この人の人生は、まだ終わっていないみたいに。
少女は日記を持ち上げる。
濡れている。
だが、完全には腐っていなかった。
丁寧に閉じられていたからかもしれない。
少女は少しだけ迷う。
読む。
それはたぶん。
勝手なことだった。
知らない誰かの人生を、勝手に開くこと。
けれど。
この街には、もう誰もいない。
叱る人も。
止める人も。
誰も。
少女は高架下へ戻った。
崩れたベンチに座る。
雨風は少しだけ弱い。
日記を開く。
最初のページには、小さな文字。
『七月三日
今日、父さんが仕事を辞めた』
少女は読む。
『別に珍しいことじゃない。
父さんは昔から仕事が長続きしない。
家に帰ってきて、
疲れた顔で笑って、
でも大丈夫って言う』
ページをめくる。
『母さんは怒ってた。
私は慣れてた。
弟はたぶん、まだよくわかってない』
少女の視線が止まる。
家族。
その言葉だけは、なぜか知っていた。
意味も。
響きも。
だけど実感はない。
『夜、父さんがアイス買ってきた。
お金ないくせに。
でも弟は喜んでた』
少しだけ、ページが歪んでいる。
水滴の跡みたいだった。
『父さん、嘘つくの下手なんだよな。
大丈夫じゃない顔してるのに、
いつも大丈夫って言う』
少女は静かに顔を上げた。
雨。
灰色の高架。
遠くの信号機。
動かない世界。
その中で。
もういない誰かの父親だけが、妙に鮮明だった。
少女はまた読む。
『八月十一日
今日は停電した。
暑すぎて最悪。
弟が泣いてた。
父さんが変な踊りして笑わせてた』
その次のページ。
『正直、恥ずかしかった』
さらに次。
『でも少しだけ笑った』
少女は、その文章を何度も見た。
笑う。
それは知識として知っている。
口角が上がる表情。
喜び。
安心。
そういうもの。
けれど。
“少しだけ笑った”
という感覚は、よくわからなかった。
大笑いでもなく。
嬉しいわけでもなく。
たぶん。
人間は、そういう曖昧な感情で生きていた。
少女はページをめくる。
読み続ける。
夏。
秋。
冬。
父親はまた仕事を辞め。
母親は疲れていて。
弟は少しずつ成長して。
書いた本人は、進路に悩み。
友達と喧嘩し。
仲直りし。
恋人ができて。
別れて。
また普通の日々へ戻っていく。
特別な人生ではなかった。
世界を救った人でもない。
歴史に残る人でもない。
ただ。
どこにでもいた一人だった。
だけど。
少女は気づく。
ページを読むたび。
その“どこにでもいた一人”が。
少しずつ、自分の中に存在し始めていることに。
もう死んでいるのに。
骨しか残っていないのに。
この人はまだ、ここにいた。
日記の中で。
少女は最後のページを開く。
『三月二日
弟が高校受かった。
父さん、泣いてた。
あの人ほんとすぐ泣く』
次の行。
『でも、ちょっとだけ嬉しかった』
そこで文章は終わっていた。
次のページは白紙だった。
少女はしばらく動かなかった。
雨音だけが続く。
高架の外では、水たまりが揺れている。
「……嬉しい」
少女は小さく呟く。
その言葉を、確かめるみたいに。
けれど意味はまだ遠い。
わからない。
でも。
知りたいとは思った。
少女は静かに日記を閉じる。
そして、木箱へ戻した。
骨の隣に。
元あった場所へ。
土を戻す。
一人で。
静かに。
雨の中。
墓を埋め直しながら、少女は思っていた。
この街には。
あとどれくらいの人生が埋まっているのだろう、と。




