狐火の御神渡り 1
雨だった。
空はずっと灰色で、どこまで見ても雲しかない。
街は静かだった。
静か、というより。
音を忘れてしまったみたいだった。
信号機は壊れたまま赤を灯し続け、風に揺れる看板は、もう店の名前も読めない。
道路の隙間から伸びた草が、歩道を覆っていた。
駅前のロータリーには錆びたバスが止まったまま残されていて、その窓には長い年月の汚れが積もっている。
誰もいない。
本当に、誰も。
その街の地下。
薄暗い施設の一室で、小さな駆動音が鳴った。
白い光が、ゆっくりと灯る。
『起動します』
機械音声。
その直後。
眠るように横たわっていた少女が、ゆっくりと目を開けた。
天井が見える。
知らない天井だった。
白い。
いや、昔は白かったのかもしれない。
今はもう、ひび割れと染みで汚れている。
少女は静かに瞬きをした。
呼吸はない。
だが、胸の内部では小さな駆動音が続いていた。
彼女は身体を起こす。
長い黒髪が肩から滑り落ちた。
裸足のまま床へ降りる。
冷たい。
その感覚だけが、不思議とはっきりしていた。
部屋の隅には、割れたモニター。
倒れた椅子。
散乱した紙。
そして扉。
彼女はしばらくそれを見つめていた。
まるで、どうすればいいのか考えているように。
けれど。
考えるための記憶は、どこにもなかった。
「……」
声を出してみる。
少し遅れて、自分の声が部屋に反響した。
その声すら、どこか他人のものみたいだった。
彼女は扉へ向かう。
自動ドアは壊れていた。
指をかけ、ゆっくり開ける。
重い音がした。
外には長い通路が続いていた。
非常灯だけが赤く点滅している。
静かな施設だった。
歩く。
ずっと歩く。
何階分も階段を上がり。
最後に地上への扉を押し開けた。
風が吹いた。
その瞬間だった。
彼女は初めて、世界を見た。
廃墟だった。
空は灰色。
ビルは崩れ。
車は朽ち。
遠くの観覧車は止まったまま動かない。
雨だけが降っていた。
少女はゆっくり街を見る。
知らない。
なにも知らない。
ここがどこなのか。
自分が誰なのか。
なぜ誰もいないのか。
わからない。
けれど。
視線が、ある場所で止まった。
墓だった。
道路脇。
花壇だった場所。
そこに小さな墓標が立っている。
無機質なコンクリートの街の中で、それだけが妙に人間らしかった。
少女は近づく。
墓標には文字。
だが掠れて読めない。
雨で削れたらしい。
墓の前には、枯れた花が置かれていた。
少女はしばらくそれを見つめていた。
風が吹く。
花びらが崩れ、灰のように飛んでいく。
「……」
少女は墓に触れなかった。
ただ、その場に立っていた。
なぜこんなものがあるのか。
誰が置いたのか。
なぜ誰もいないのに、墓だけが残っているのか。
答えはどこにもなかった。
やがて少女は離れる。
その日は、それだけだった。
街を歩く。
駅前を通る。
止まったエスカレーター。
ガラスの割れたコンビニ。
草に埋もれた自転車。
静かな街。
どこまで行っても、人の姿だけがない。
夜になる頃、少女は駅の待合室に座っていた。
電気はつかない。
雨音だけが響いている。
少女は窓の外を見る。
暗い街。
その向こう。
遠くにも墓が見えた。
一つ。
また一つ。
街灯の下。
歩道橋の脇。
屋上。
交差点。
まるで、この街そのものが墓地みたいだった。
少女は目を閉じる。
だが眠れない。
彼女には睡眠が必要なかった。
だから夜は、ただ長かった。
次の日。
少女はまた歩いた。
スーパーへ入る。
棚の商品は腐りきっていた。
乾いたパンを手に取る。
食べ方は、なんとなく知っていた。
だが必要ではない。
口へ運び。
少しだけ噛み。
そして静かに吐き出した。
味覚。
それもあるらしい。
けれど、美味しいという感覚がわからなかった。
さらに次の日。
少女は図書館へ入った。
本棚は倒れ。
床には大量の本が散らばっている。
そこにも墓があった。
本棚の間。
小さな墓標。
少女は立ち止まる。
また墓。
どうして。
誰が。
考えてもわからない。
だが。
数日歩くうちに、少女は気づき始めていた。
この街には、墓が多すぎる。
異常なほど。
人の姿は一つもないのに。
墓だけが残っている。
しかも、その多くには花が供えられていた跡がある。
誰かが弔っていた。
かつて。
たしかに。
ここには人がいた。
五日目。
少女は高架下で雨宿りしていた。
外では雨水が道路を流れている。
その時だった。
視界の端。
崩れた墓の一つから、なにかが少しだけ覗いていた。
黒い角。
箱のようにも見える。
少女は近づく。
土が雨で流れたらしい。
墓の中の一部が見えていた。
少女はしゃがむ。
指で土を払う。
硬い。
木箱だった。
「……なに」
小さく呟く。
自分の声が雨に消える。
少女はしばらく迷っていた。
掘っていいのか、わからなかった。
これは誰かのものだ。
その感覚だけは、なぜか理解できた。
けれど。
知りたかった。
この街を。
ここにいた人達を。
墓しか残っていない理由を。
少女は周囲を見る。
近くに、錆びたシャベルが落ちていた。
誰かが置いたまま忘れたみたいに。
少女はそれを拾う。
少しだけ躊躇して。
それから静かに、墓を掘り始めた。
ざく。
ざく。
雨音の中に、土を掘る音が混ざる。
やがて木箱が現れる。
少女は土を払い、ゆっくり開けた。
中には骨。
そして。
一冊のノート。
黒い日記帳だった。




