季節 2
図書館は、雨の匂いがする。
少なくとも、朝倉澪にはそう感じられる。
古い紙の匂い。
湿った木の匂い。
静かな空気。
窓を流れる雨粒。
世界は今日も雨だった。
強くはない。
傘を叩く音も静かで、空は白く霞んでいる。
遠くの建物はぼやけて見え、歩く人々は皆、曇った景色の中を進んでいく。
澪は昔から雨だった。
子供の頃、一度だけ聞いたことがある。
「雨の人って、寂しそうだよね」
悪意のない声だった。
だからこそ、よく覚えている。
晴れの人は明るい。
春の人は優しい。
夏の人は元気。
冬の人は静か。
人は勝手にそんなイメージを作る。
雨の人は、その中で少しだけ距離を置かれる。
別に嫌われているわけではない。
ただ、“濡れている”。
それだけで、少し遠い。
図書館の入口で傘を閉じる。
水滴が床へ落ちる。
受付の人が軽く会釈する。
この場所は好きだった。
雨の音が消えないから。
静かな場所ほど、雨は綺麗に聞こえる。
二階の窓際。
いつもの席。
椅子を引き、本を開く。
窓の外では雨が降っている。
ガラスを細い線が流れていく。
澪は、その景色を眺めるのが好きだった。
世界が少し遠く見える。
まるで、自分だけ別の場所にいるみたいに。
ページをめくる。
すると階段を上がる足音が聞こえた。
軽い音。
急いでいない。
なんとなく視線を向ける。
男の人だった。
背は少し高い。
黒髪。
ラフな服装。
そして。
明るい。
そう思った。
別に笑っているわけじゃない。
目立つわけでもない。
でも、その人の周囲だけ、空気が暖かく見えた。
晴れの人だ。
すぐに分かった。
晴れの人には独特の感じがある。
光の中を歩くことに慣れている人の空気。
彼は窓際の席へ座る。
同じ窓際でも、きっと見えている景色は違う。
彼には、青空が見えている。
この雨も。
灰色の空も。
濡れた街も。
存在していない。
そう思うと、少し不思議だった。
同じ場所なのに。
同じ時間なのに。
見ている世界だけが違う。
澪は本へ視線を戻す。
けれど少しだけ気になった。
晴れの人は、雨の人をどう見ているんだろう。
やっぱり変なのかな。
晴れているのに傘を差している人。
濡れている人。
寒そうな人。
昔、笑われたことがある。
「そこまでして傘差す?」
悪気のない声だった。
でも、その時少しだけ、自分の雨が嫌になった。
だから澪は、晴れの人が少し苦手だった。
悪意がないから。
悪意なく、分からないから。
しばらくして、澪は本棚へ向かった。
読みたかった本が上の段にある。
少し手を伸ばす。
届かない。
もう少し。
「あ」
後ろから声。
振り向くと、さっきの晴れの人がいた。
「取る?」
「あ、はい……」
彼は自然に本を取る。
その動作が妙に軽かった。
晴れの人の動きだ。
そう思った。
光の中を歩く人の動き。
「ありがとうございます」
「いや」
短い返事。
でも、どこか柔らかい。
彼は少し笑っていた。
眩しいな、と澪は思う。
晴れの人を見るたびに思う。
自分とは違う空気の中で生きている人。
彼は少しこちらを見る。
視線が合う。
澪はなんとなく言った。
「……晴れの人、ですよね」
彼は少し驚いた顔をした。
「分かる?」
「なんとなく」
本当は、かなり分かりやすかった。
でも、そう言うのも変な気がした。
「光、眩しそうなので」
彼が笑う。
その瞬間。
図書館の空気が、少しだけ暖かくなった気がした。
もちろん雨は降っている。
窓の外は灰色のまま。
雨音も消えない。
でも。
不思議と、その音が少し柔らかく聞こえた。




