季節 1
図書館へ向かう道は、今日もよく晴れていた。
雲は薄く、風は柔らかい。
街路樹の葉は光を透かし、白い歩道には木漏れ日が揺れている。
自転車が横を通り過ぎる。
子供の笑い声。
遠くで鳴る踏切。
春、だな。
と、藤崎悠真は思う。
実際には、この世界に春という季節はない。
ただ、自分がそう感じているだけだ。
この世界では、人はそれぞれ違う季節を生きている。
夏の人もいれば、冬の人もいる。
雨の人もいる。
晴れの人もいる。
互いにそれは理解しているし、当たり前のことだった。
だから誰かが厚いコートを着ていても、汗をかいていても、不思議ではない。
世界は同じなのに、感じ方だけが違う。
悠真は昔から晴れだった。
ずっと変わらない。
空は青く、風は暖かい。
雨を感じたことは、一度もない。
図書館の自動ドアが開く。
少し冷えた空気と、本の匂い。
受付の横を通り、いつもの奥の席へ向かう。
二階の窓際。
午後になると光が斜めに差し込む場所。
悠真はそこで読むのが好きだった。
階段を上がる途中、すれ違った女子高生が濡れた傘を持っていた。
床に、小さく水滴が落ちている。
雨の人だ。
別に珍しくはない。
だが、その日はなぜか少し気になった。
二階へ上がる。
静かな空間。
ページをめくる音。
遠くの椅子が引かれる音。
窓から差し込む柔らかな光。
そして、その席に。
彼女がいた。
窓際の、一番端。
白いカーディガン。
黒髪。
机の横には、透明な傘。
先端から、水滴がぽつぽつ落ちていた。
彼女は文庫本を読んでいた。
静かな顔だった。
無表情というより、感情を外に出していない感じ。
悠真は少し離れた席に座る。
鞄を置く。
本を開く。
けれど、少しだけ視線が向いてしまう。
彼女の髪。
肩。
袖口。
少し湿って見えた。
今の外は、よく晴れている。
少なくとも悠真の世界では。
でも彼女には、雨が降っている。
それを考えると、少し不思議だった。
同じ場所にいるのに。
見ている空が違う。
ページをめくる。
けれど集中できない。
彼女は時々、窓の外を見る。
その横顔は、何かを待っているようにも見えた。
何を見てるんだろう。
自分には青空しか見えない。
でも彼女には、たぶん灰色の空が広がっている。
窓には雨粒が流れているのかもしれない。
遠くの街は霞んでいるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、彼女が立ち上がった。
本を抱え、棚の方へ歩いていく。
悠真も、なんとなく立った。
特に理由はない。
本当に、なんとなくだった。
文学コーナー。
狭い通路。
彼女は背表紙を指でなぞっている。
その指先を見て、悠真は思った。
雨の人の手だ。
変な感想だった。
自分でも意味が分からない。
でも、そう思った。
彼女が一冊抜き取ろうとして、少し背伸びする。
届かない。
「あ」
思わず声が出た。
彼女が振り向く。
「取る?」
「あ、はい……」
悠真は本を取って渡す。
近くで見ると、彼女の睫毛は少し長かった。
髪も、やっぱり少し濡れて見える。
「ありがとうございます」
「いや」
短い会話。
それだけなのに。
なぜか、空気が残った。
彼女は本を胸に抱えたまま、少しだけ悠真を見る。
「……晴れの人、ですよね」
悠真は少し驚いた。
「分かる?」
「なんとなく」
彼女は小さく言う。
「光、眩しそうなので」
悠真は笑ってしまった。
「それ、初めて言われた」
「そうですか」
彼女は少し困ったように目を伏せた。
「変でしたか」
「いや。なんか……面白い」
彼女は少しだけ黙る。
そして。
本当に少しだけ。
微かに笑った。
その瞬間。
悠真は、思った。
ああ。
この人の雨は、静かなんだな、と。
激しい嵐じゃない。
誰かを拒絶する雨でもない。
ずっと降り続ける。
音の小さい雨。




