季節 3 完結
閉館十分前。
図書館の時計は、静かに針を進めていた。
「まもなく閉館時間です」
館内放送が流れる。
柔らかな女の声。
雪村透子は、返却カウンターで本を整理しながら小さく息を吐いた。
今日も雪だった。
窓の外には白い雪が降っている。
静かで、音を吸い込む雪。
透子は昔から雪の人だった。
吐く息は白く見え、冬の匂いがする。
手は冷たい。
夏の人に触れられると、驚かれることもある。
でも、もう慣れていた。
世界は皆違う。
誰かの空は晴れていて、
誰かの世界では蝉が鳴き、
誰かの町では桜が舞っている。
自分だけが特別ではない。
ただ、人は時々、
自分の季節だけが世界だと思ってしまう。
透子はそれを、この図書館で何度も見てきた。
そして。
あの二人も、最初はそうだった。
二階の窓際。
晴れの青年と。
雨の女の子。
初めて見た時から覚えている。
なぜなら、あまりにも違う景色を纏っていたから。
青年の周囲は暖かい春。
光。
柔らかな風。
青空。
対して彼女の周囲には静かな雨。
濡れた匂い。
灰色の空。
窓を流れる雨粒。
普通なら、あまり交わらない。
人は、自分と近い季節の人といる方が楽だから。
冬の人は冬の人と。
夏の人は夏の人と。
その方が、同じ景色を見られる。
でも、あの二人は違った。
最初は、ただ視線を交わしていただけ。
次は、本を貸し合うようになった。
それから。
閉館まで話す日が増えた。
彼は彼女の雨の話を聞き。
彼女は彼の青空の話を聞いていた。
理解はできない。
完全には。
それでも。
「今日は雨、強い?」
彼がそう聞く。
「うん。でも静かな雨」
彼女がそう答える。
たったそれだけの会話を、透子は何度も聞いた。
不思議だった。
人は本来、
理解できないものを恐れる。
違う景色を拒絶する。
でもあの二人は、
理解できないまま近づいていた。
まるで。
違う空を見ていること自体を、大切にしているみたいに。
透子は本を棚へ戻す。
二階を見る。
窓際の席。
今日も二人がいる。
青年は笑っている。
彼女も、小さく笑っている。
彼女は相変わらず濡れて見えるし、
彼は相変わらず光の中にいる。
きっと。
これから先も、
二人が同じ景色を見ることはない。
晴れの日に彼女は雨を見て。
雨の日に彼は青空を見る。
完全に分かり合うことは、たぶんない。
でも。
透子は思う。
それでいいのだと。
人は、自分と同じ世界を探しているわけじゃない。
違う世界を持つ誰かに、
「その景色を知りたい」と思えること。
その瞬間だけで、
孤独は少しだけ軽くなる。
窓の外では雪が降っている。
透子にはそう見える。
白く。
静かで。
世界の音を遠ざける雪。
閉館の時間を過ぎ、館内の明かりが少しずつ落ちていく。
二階から、階段を降りる足音が聞こえた。
「あ、お疲れさまです」
青年が会釈する。
その隣で、彼女も小さく頭を下げた。
「お疲れさまです」
透子も微笑む。
「外、寒いので気をつけてくださいね」
そう言うと、青年が少し困ったように笑った。
「俺には、たぶん暖かいんですけどね」
「あ……そうでしたね」
透子も少し笑う。
そのやり取りを聞いて、隣の彼女が静かに口を開いた。
「私は寒いです」
「だろうね」
青年が笑う。
彼女も少しだけ笑う。
その瞬間。
透子は思った。
雪は、積もる季節だ。
春みたいに派手ではない。
夏みたいに眩しくもない。
ただ静かに降って。
少しずつ世界を覆っていく。
昔、透子は自分の雪が好きではなかった。
人との距離を感じるから。
冬の人は冷たい、と言われることもあった。
感情が薄そう、と笑われたこともある。
でも、本当は違う。
雪は、消えてしまうものを残そうとする季節だ。
足跡。
吐息。
温もり。
一瞬のものを、静かに覚えている。
だから透子は、この図書館が好きだった。
誰かの時間が積もっていくから。
読み終えた本。
置き忘れた栞。
窓際の席。
閉館前の静けさ。
そして。
あの二人の会話も。
きっといつか終わる。
関係は変わる。
季節も変わるかもしれない。
それでも。
今日ここに、
二人が並んで笑っていたことだけは残る。
透子はカウンターの明かりを落とす。
図書館の中が少し暗くなる。
外へ出ると、雪が降っていた。
白い息が夜へ溶ける。
街灯の光の中で、雪は静かに揺れている。
遠くを歩いていく二人の背中が見えた。
一人は光の中を歩き。
一人は雨の中を歩いている。
それでも歩幅だけは、同じだった。
透子は小さく目を細める。
夜は静かだった。
雪は音もなく降り続ける。
まるで世界そのものが、
誰にも気づかれないまま、
優しく積もっていくみたいに。




