第39話 悪役令嬢は、人ではなく物を旅させますわ(4)
夕刻。
仮設本部に駆け戻ってきた行政官の顔は、
昼間の熱気とは打って変わり、蒼白に凍りついていた。
「クラウディア様……! 試算が出ました!」
「報告なさい」
行政官は震える手で、何枚もの計算用紙をリリアーナの前に叩きつけるように置いた。
「中継方式を、王都へ至る幹線街道の全宿場町へ適用した場合の物流試算です。
……全行程における総輸送能力は、平時の『六割以下』まで激減します!」
リリアーナの美しい切れ長の瞳が、すっと細められた。
「……六割」
「はい! 境界ごとの荷下ろしと積み替えの待機時間、
そして何より、町ごとに御者と荷馬車を個別に手配せねばならず、
致命的なまでの人手不足に陥ります!」
「生きるために必要な最低物資の総量は?」
「現在の各町の消費ペースを維持することを前提とすれば
……圧倒的に、足りません!」
部屋の中に、再び冷たい絶望の風が吹き抜けた。
リリアーナは唇を真一文字に結び、無言を貫く。
まだだ、まだ選ばなければならないのだ。
すべてを救うことなどできない。
すべてを平時と同じように運ぶことなど、土台不可能なのだ。
「街道を流れる物資の一覧を」
「……はい」
行政官が差し出した紙には、
平穏な王国を潤していた無数の品目が並んでいた。
穀物。生鮮食品。塩。
粉末薬草。包帯。蒸留酒。
防寒着。布地。
石材。木材。鍛冶用の鉄鉱石。
茶葉。砂糖。香油。
工房用の精密魔導具。貴族向けの絹織物や宝飾品。
リリアーナは、灯火に照らされたその文字の群れを、
氷のように冷徹な瞳で見つめ続けた。
そして、躊躇なく羽ペンを執る。
「優先順位をつけますわ」
「やはり……選別するのですか」
「一、食料」
黒いインクが、容赦なく穀物と塩を囲む。
「二、医薬品、および消毒用の蒸留酒」
二つ目の印。
「三、浄水設備、衛生環境、および次期の収穫を維持するための農具資材」
三つ目の印。
「四、井戸ポンプや最低限の生活インフラを維持するための鉄製修繕部品」
四つ目の印。
そこで、リリアーナのペン先が止まった。
行政官が唾を呑み込み、恐る恐る尋ねる。
「……それ以外の物資は?」
「すべて後回しですわ」
「しかし! 貴族家や大商会があらかじめ買い付けている
高価な調度品や嗜好品も山ほどあります!
予定通りに届かなければ、王都の有力者たちから猛烈な突き上げを食らいますぞ!」
「喚きたい者には、いくらでも喚かせておきなさい」
リリアーナは冷ややかに顔を上げた。
その双眸には、一分の揺らぎもない。
「今、物理的に運べる限界が六割なのでしょう?
ならば、十割の荷を運べるような顔をして見栄を張ってはなりませんわ」
静かな、けれど有無を言わせぬ覇気が宿る。
「六割の血流しか流せないのであれば――
六割の血流で生き残れるものだけを、確実に心臓へ送り届けるのです」
リリアーナは躊躇なく、残された贅沢品や嗜好品の品目に、
太い横線を引いて抹消した。
◇
翌朝。
夜明けの薄暗い霧の中、街道の第一中継所には、
昨日とは比較にならないほどの荷の山が築かれていた。
小麦袋、薬草箱、薪の束、固形石鹸の木箱、そして鉄製の車輪部品
送り出した側の町は、リリアーナの命じた優先順位に従い、
正しい物資を懸命に運んできている。
受け取る側の町も、
決められた刻限通りに荷車を引き連れてやってきていた。
それなのに――。
「おい! この薬草箱はどこの村行きだ!」
「南の第二治療院だ!」
「南行きの一時保管所はあっちの区画だろうが!」
「あっちには小麦袋が山積みで足の踏み場もねえんだよ!」
「なら小麦を先に荷車へ積み込め!」
「向こうの町の荷車が、まだ定刻になっても到着してねえんだよ! 動かせるか!」
怒号と罵声が、朝霧を切り裂いて飛び交っていた。
リリアーナは馬車から降り立ち、
中継所の惨状をその目に焼き付けた。
街道の封鎖はしていない。
馬車も動いている。
御者たちも恐怖に耐えて荷を運んでいる。
物資そのものが消滅したわけでもない。
それなのに――。
町境という『結び目』に荷が殺到し、仕分けの限界を超え、
巨大な澱みとなって完全に詰まり始めていた。
駆け寄ってきた行政官が、青ざめた唇を震わせる。
「……中継所が、完全に麻痺しています。
荷を下ろす場所がなく、街道に馬車の列が滞留し始めています……!」
リリアーナは答えなかった。
積み上げられた荷の山と、右往左往する人間たちの狂騒を、
ただ冷たく、鋭く見据えていた。
(……人の移動を止めても、物の結び目を捌く『手足』が足りなければ、
構造そのものが窒息する……!)
◇
その夜。
宿場町の仮設本部から、王都のアレクシス、アルフレッド学園長、
そしてエミリアの三者へ向け、
リリアーナの直筆による新たな緊急書簡が放たれた。
『症状発現前における無自覚な感染拡大の蓋然性、極めて高し。
街道の完全封鎖は、食料および医薬品等の生活維持物資の途絶を招くため、
断じて推奨せず。
これより、人員の地域間往来を厳格に禁じ、
物資のみを境界上で時差受け渡しする「中継輸送方式」へ移行せよ。
輸送担当者は各地域内に完全に固定すること。
物資の品目、数量、出発地、到着地、運搬者の氏名、
および受け渡し時刻を完全に台帳へ記録すること。
万が一発症者が生じた場合、当該記録を遡り、
過去の接触者を瞬時に特定・隔離できる追跡網を構築されたし。
ただし――感染経路の全容がいまだ不明なる以上、
本方式が感染を完全に防壁することを保証するものではない。』
最後の一文を叩きつけるように書き殴り、リリアーナはペンを置いた。
激しい筆圧で、指先が痺れるように痛む。
マルティナが手紙を預かろうと手を伸ばした。
「……すぐに王都への早馬を手配いたします」
だが、リリアーナはその書簡を押さえたまま、離さなかった。
「お嬢様……?」
「……もう一枚、書きますわ」
「はい?」
リリアーナは新しい羊皮紙を引き寄せた。
今度は公式の命令書ではない、小さな便箋だった。
「クラウディア領の、あの農村へ送ります」
ペン先が、迷いなく走る。
『ゴード様、ハナ様。
あなた方の村で実践されていた、
「病人の家には入らず、戸口に食料を置く」という知恵を、
このたび町と町との境界線における国家的な物流構造として
採用いたしました。
あなた方が村の命を守るために紡いだその小さな決まりごとが、
いまや王国の数多くの町と民を救う防壁になろうとしています。
心より、感謝申し上げます。
リリアーナ・クラウディア』
インクが乾くのを見つめながら、マルティナがぽつりと呟いた。
「……お嬢様ご自身がお考えになった奇策ではなかったのですわね」
「ええ」
リリアーナは、当然のように涼やかな顔で言った。
「わたくし一人でゼロから考えつくほど、優れてはおりませんわ」
「ですが、公爵令嬢たるお嬢様が、
名もなき平民の若者の知恵を借りたと認めるなど……」
「悪役令嬢に必要なのは、下らぬ見栄やプライドではありませんわ」
リリアーナは手紙を端正に折り畳んだ。
「必要なのは、誰が思いついたかなどという瑣末な序列ではなく
――目の前に転がっている使える正解を、
傲慢さで踏み潰さずに拾い上げることだけですわ」




