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第38話 悪役令嬢は、人ではなく物を旅させますわ(3)

その日の午後。


宿場町から半里ほど離れた、冬枯れの木々が連なる街道の境界上に、

王国初となる「臨時中継所」が設営された。


石造りの頑丈な建物など何もない。

冷たい風が吹き抜ける街道の脇に、太い木の杭を何本も打ち込み、

麻縄をピンと張り巡らせ、

雨露を凌ぐだけの簡素な天幕を張っただけの場所だ。


縄のこちら側が宿場町領、

縄の向こう側が隣の領地。


泥にまみれた一本の縄が、

二つの世界を無機質に隔てていた。


最初に埃を巻き上げてやってきたのは、

近隣の農村から小麦を山積みにした一台の幌馬車。

若い御者は、街道を塞ぐ縄と物々しい天幕の前に、

当惑しきった顔で手綱を引いた。


「おい、旦那方! なんで街道の真ん中に縄なんか張ってんだ?

 ここで荷を下ろせってのは本当かい?」

天幕の下から、布で口元を覆った行政官が一歩前に出る。


「そうだ。指示の通り、荷物をすべて縄の手前にある木の台座板へ下ろしてくれ。

 下ろし終えたら、お前さんはそのまま馬車ごと村へ引き返すんだ」

「はあ!? 隣町の倉庫まで運ばねえと、駄賃が貰えねえんだが!」

「駄賃の支払いは村役場が保証する。

 とにかく、その縄の向こうへ一歩たりとも足を踏み入れてはならん」


御者は納得のいかない様子で頭を掻いたが、

行政官のただならぬ気迫に押され、

荷台から重い小麦袋を一つずつ担ぎ下ろし始めた。

どさっ、と乾いた音を立てて袋が台座へ並べられていく。


縄の手前に設置された机で、記録係の文官が鋭く声をかける。

「小麦、二十袋だな」

「ああ、そうだ」

「御者の氏名は」

「……ダリオだ」

「出発地はどこだ」

「ベルン村だよ」

「今朝、村を出る前に、

 熱を出したり咳き込んでいた者と会話や接触はあったか?」

「知るわけねえだろ、朝飯食ってすぐに出てきたんだからよ!」

「思い出せる範囲で構わない。家族や隣人で、

 体調を崩している者はいないか」


矢継ぎ早の不躾な問いに、御者は露骨に嫌な顔をして腕を組んだ。

「……妹が、今朝から少し頭が痛えって言ってたが、ただの寝冷えだろ」

文官のペンが、羊皮紙の上で激しく走る。

『ダリオ。ベルン村発。接触者一名、頭痛の訴えあり』


「おいおい、大袈裟だなあ……」

「国の大事に関わることだ。

 ……荷下ろしは完了したな。では、速やかに馬車を回して戻りなさい」

「へいへい、戻りゃいいんだろ。……本当にこれだけで終わりなのかよ」


御者は首を傾げながら手綱を握り直し、

荷を失って軽くなった馬車を走らせ、来た道をガラガラと引き返していった。


中継所から、人の気配が完全に消える。

風が吹き抜け、台座の上に積まれた小麦袋だけが取り残されていた。


約束の刻限を示す砂時計が落ちきった頃。

縄の向こう側である隣町の方角から、

土煙と共に二台の手押し荷車を引いた男たちが現れた。


彼らは縄の手前でピタリと足を止め、

無言のまま、縄越しに置かれた小麦袋を、

自らの荷車へと無駄のない動きで移し替えていく。


リリアーナは少し離れた小高い丘の上から、

冷たい風にドレスを揺らしながら、その光景をじっと見つめていた。


あまりにも遅く、鈍重だった。


これまでの滑らかな物流であれば、

一台の馬車が風のように駆け抜け、

半日もあれば目的地へ届いていたはずだ。


それがいまや、境界ごとに立ち止まり、

人の手で下ろし、泥臭く帳面に記録をつけ、

時差を置いて別の人間が積み直している。


人手も、時間も、平時の倍以上を浪費していた。


効率という神話を信奉する者が見れば、

唾を吐きかけて嘲笑するような、ひどく不細工な仕組みだった。


それでも、生きた人間は、誰一人として町境を越えていなかった。


隣に控えるマルティナが、感嘆とも吐息ともつかない声を漏らす。

「……本当に、動きましたわね」

「ええ」

「ですが……随分と、遅くなってしまいました」


「構いませんわ」

リリアーナは、乾いた小麦袋が次々と荷車へ移されていく様から、

目を離さなかった。


「今は、速く走ることなど、何の価値もありませんわ。

 ……どんなに泥臭く不格好であろうと、

 細い血流を完全に止めずに回し続けること。

 その血管に、病が紛れ込むことを可能な限り防ぐ

 それだけが、この国が生き残るための唯一の道ですもの」


向こう側の荷車が、軋んだ車輪の音を立てて去っていく。

互いに視線を交わすことすらなく、言葉の一片も交わされない、

完全なる非接触の受け渡し。


しかし、その冷え切った作業の輪郭に、

リリアーナは確かな手応えを感じていた。


だが――。


「……待ってください!」


不意に、中継所の記録係が鋭い声を張り上げた。

荷車を押して立ち去ろうとしていた隣町の男たちが、驚いて足を止める。


「どうした!」

行政官が駆け寄る。

記録係は、先ほどダリオという御者から受け取った送り状の控えと、

台座に積まれた小麦袋のタグを、血相を変えて見比べていた。


「数が……数が合いません!」

「何だと? 二十袋あっただろう!」

「ここにあるのは確かに二十袋です! ですが――」


記録係は震える指先で、送り状の最下段に殴り書きされた数字を叩いた。

「ベルン村の集積所からこの中継所へ届くはずだった正規の数量は、

 三十袋と記載されています!」


その場にいた全員の呼吸が止まった。


「残り十袋はどこへ行ったんだ……!?」

誰も答えられなかった。


荷を運んできたダリオは、

すでに馬車を走らせて遥か遠くへ去ってしまっている。

確認しようにも、町境の縄を越えて追いかけることは、

リリアーナ自身が定めた掟によって絶対に許されない。


「……途中で荷崩れして落としたのか? それとも、次の便に回されたのか……」

行政官が額に脂汗を浮かべながら呟く。

「おそらく、積みきれずに次の便に回したのでしょう。

 ……そうに決まっています。次の定期便を待ちましょう」


その場は、無理やりそう結論づけられ、作業は再開された。

誰も、この混乱の極限状態において、

たった十袋の小麦の行方を深く追及しようとはしなかった。


ただ――

小麦を積んだ荷車が遠ざかったあとも、記録係の青年は、

羊皮紙の上に刻まれた『三十袋』という消せない数字のインクを、

胸の奥の得体の知れない悪寒と共に、いつまでも見つめ続けていた。

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― 新着の感想 ―
「悪役令嬢とは、誰よりも責任を引き受ける者」という発想が新鮮でした。 個人を責めず、失敗が起こる仕組みそのものを改善しようとする姿勢が一貫している点が魅力的です。 リリアーナ自身も守られることを学び…
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