第37話 悪役令嬢は、人ではなく物を旅させますわ(2)
夜更けの仮設本部に再び集められた男たちは、
地図上に無数に引かれた朱色の線を、困惑の面持ちで見つめていた。
町長が恐る恐る口を開く。
「これは……なんですかい?」
「人を止めます」
治療師が身を乗り出し、色めき立った。
「では、やはり街道を封鎖して往来を断つのですね!」
「いいえ」
リリアーナは冷然と首を横に振った。
「道は、一寸たりとも閉じませんわ」
「は……? 道を閉じずに人を止めるとは、一体どういうことです?」
「人は、町境を越えさせません」
リリアーナは朱色の線をトン、と指先で叩いた。
「ですが、物資だけは町境を越えさせます」
行政官が眉根を寄せる。
「物だけを、越えさせる……?」
「ええ。町と町の境界線上に、無人の物資受け渡し所を設けますわ」
リリアーナの指が、一つ目の町から朱色の境界線まで滑る。
「こちらの町の御者は、境界の手前まで荷を運ぶ。
そこで荷を下ろし、人は荷馬車と共に町の中へ引き返します」
今度は、境界線の向こう側から隣町へ指を滑らせる。
「隣町の人間が、決められた刻限に境界へ赴き、
そこに置かれた荷を受け取って自らの町へ持ち帰るのです」
町長が息を呑み、目を丸くした。
「な……荷物だけを、境界の敷居に置いて引き渡すってのか!」
「ええ」
「馬車はどうするのです?」
行政官の問いに、リリアーナは即座に返した。
「馬車も馬も、原則として町ごとに固定しますわ」
「正気ですか!?」
行政官が声を上ずらせる。
「町境ごとに全荷物を積み替えるなど、
平時の何倍の手間と時間がかかると思っているのです!
一日に運べる総量は激減します!」
「激減するでしょうね」
リリアーナは冷ややかな声で切り捨てた。
「一日に運べる量は、目に見えて減りますわ」
「ならば――」
「ですが!」
リリアーナの声が凛と通り、行政官の言葉を両断した。
「一人の御者が、五つの町を跨いで病を運ぶ悪夢は、完全に根絶できますわ」
室内が静まり返る。
「今までは、王都を出た一台の荷馬車と一人の御者が、
何日もかけて幾重もの宿場町を素通りしていました」
リリアーナは街道の線をなぞる。
「もし、その御者が自覚症状のない感染者であったなら?
……たった一人の人間が、通過したすべての町の井戸端や宿屋に、
病の種を落として歩くことになりますわ」
治療師が息を呑み、地図の朱線へ吸い寄せられるように歩み寄った。
「町ごとに人間の移動範囲を囲い込めば……
万が一その御者が病を抱えていたとしても、
被害はその町の中だけに封じ込められる……」
「感染の爆発的な連鎖を、物理的に分断できるわけか」
行政官が唸るように続けた。
リリアーナは静かに頷く。
「完全に防げるとは申しませんわ」
治療師を見据える。
「運ばれる荷物そのものや、麻袋の表面を介して感染する可能性も、
現時点では完全に否定できないのでしょう?」
「……はい」
治療師は苦渋を滲ませて答えた。
「病の正体が掴めぬ以上、荷物が完全に無害であるとは、断言できません」
「それで結構ですわ」
「結構、とおっしゃるのですか?」
「安全だと証明されていないものを、
安全だと過信して油断するより、遥かに合理的ですわ」
リリアーナは淡々と言い放った。
「ですが、少なくとも人と人が対面し、
飛沫を浴びせ合う接触の絶対数は劇的に減らせます」
町長が太い腕を組み、顎を撫でた。
「……問題は、その境界での受け渡しのやり方だな」
「ええ」
行政官も思考を切り替え、羊皮紙を繰る。
「荷を下ろす側と受け取る側が、境界で鉢合わせして密集しては元も子もありません」
「時間をずらせばいい」
町長が言った。リリアーナが視線を向ける。
「うちが荷を置いて、鐘を一発鳴らしてサッサと引き揚げる。
向こうの連中は、鐘の音が消えてから取りに来りゃいいんだ」
「接触ゼロの時差受け渡しですね」
治療師も深く頷く。
「荷を下ろす搬入区画と、積み込む搬出区画も縄で明確に分けるべきです。
土足の動線すら重ねてはならない」
行政官が羽根ペンを猛烈な勢いで走らせ始めた。
「受け渡し拠点には、双方の町の管理役が必要です」
「一人に固定してはなりませんわ」
リリアーナが即座に釘を刺す。
「その者が倒れた瞬間に止まります。必ず複数名で交代できる体制を」
「記録係も必須ですな」
別の文官が顔を上げる。
「何を、どこの村から、いつ運び込んだか」
「それだけでは不十分ですわ」
リリアーナは冷厳に告げた。
「誰が運んできたのか――
御者の個人名まで漏らさず記録なさい」
文官のペン先が紙の上で止まった。
「……御者の、名前までですか?」
「もし、その荷を運んだ御者が、後に発症した場合を考えなさい」
リリアーナは地図上の黒い印を見つめる。
「その者が、いつ、どの中継所まで荷を運んでいたのかが分からなければ、
その荷に触れた受け取り側の人間を特定し、
先回りで隔離することができませんわ」
治療師の背筋に、戦慄が走った。
「……発症した患者の過去を追うのではなく、発症する前から、
すべての接触の網の目を先回りで記録しておくというのですか……?」
「ええ」
「町境を越えるすべての物資と、すべての人間に対して……?」
「当然ですわ」
行政官が頭を抱えて唸り声を上げた。
「途方もない作業量になりますぞ!
記録のための人員も、膨大な量の羊皮紙とインクも必要になります!」
「今すぐ集めて用意なさい」
リリアーナの返答には、一滴の躊躇もなかった。
「物資の種類と数量」
「運搬した者の名」
「受け渡しの刻限」
「最終的な配送先」
リリアーナはペンを机に置いた。
「平時であれば、官僚主義の無駄骨と嘲笑される記録でしょうね。
ですが――この見えない病との戦いにおいては、
この紙切れ一枚の記録こそが、後に拡散を防ぐ唯一の命綱になりますわ」
行政官は、机上に書き殴られた四つの項目を食い入るように見つめた。
やがて、深く息を吐き出し、力強く頭を下げた。
「……承知いたしました。直ちに手配します」




