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第36話 悪役令嬢は、人ではなく物を旅させますわ(1)

「すぐに街道を封鎖すべきです!」


仮設本部に、高位治療師の切迫した怒声が木霊した。


長机の上には、昨夜から今朝にかけて集約された患者たちの行動記録が、

無残な爪痕のように広げられている。


発症する四日前まで市場の雑踏で乾物を売っていた商人。

五日前まで、疲れを知らぬ笑顔で宿泊客の世話を焼いていた宿屋の給仕。

六日前まで、王都と四つの宿場町を行き来していた荷馬車の御者。


まだ確定診断の術はない。

だが、熱や咳といった自覚症状が現れる遥か手前で、

無邪気に病がばら撒かれている可能性は、

もはや無視できない。


「少なくとも正体が割れるまで、

 生きた人間を一人たりとも町の外へ出してはなりません!」

「それでは、この町だけの問題では済まなくなります!」


調査隊の行政官が即座に机を叩いて立ち上がった。

「街道沿いには、自前の農地を持たず

 物資を外郭に依存している小都市がいくつもあるのです!

 完全に物流を絶てば、病が届くより先に飢えで人が死にます!」

「ならば手持ちの備蓄で持ち堪えさせればよい!」

「その備蓄が底を突きかけている町があると言っているのです!」


二人の声が真正面から激突し、室内の空気をびりびりと震わせる。

その横で、町長が苦汁を絞り出すような顔で、

広げられた地図の街道を睨みつけていた。


「……うちだって同じだ」

重々しい呟きに、全員の視線が集まる。

「小麦ならまだしも、

 塩も、油も、熱冷ましの薬草も、

 全部をこの町の中で作れるわけじゃない」


町長は太い指で、町の関門から外へ伸びる一本の白銀の街道を指した。

「街道を閉じれば、外から病人は入ってこねえかもしれん。

 だがな……外からの薬も、塩も、二度と入ってこなくなる」

「だからといって人を行き来させ続ければ、

 次の町へ病を運ぶ火種になるのですよ!」

「分かってる!」

町長は、拳を卓に激しく打ち据えた。

「そんなこたぁ痛いほど分かってるから

 こうして頭を抱えてるんだろうが!」


沈黙が落ちた。

誰もが奥歯を噛み締め、視線を宙に彷徨わせる。


街道を閉ざすことも、街道を動かすことも

それぞれ正しい。


だが、その二つは相容れぬ「正しさ」だ。


二つの「正しさ」は、

逃げ場のない切っ先となって皆の喉元に突きつけられていた。


その論争の渦中で、リリアーナ・クラウディアだけは微動だにしなかった。

組んだ指の隙間から、ただ机上の街道図を見つめている。

蝋燭の灯火が、彼女の怜悧に研ぎ澄まされた横顔を際立たせていた。


息を整えた治療師が、縋るような目で問う。

「クラウディア様」

返事はない。

「……クラウディア様は、どうお考えなのですか」


「……分かりませんわ」


誰もがリリアーナを見た。

あの  なまでに完璧な令嬢から漏れ出た言葉に、皆が瞠目している。

リリアーナは地図の白銀の道から、一度たりとも瞳を逸らさなかった。


「現時点では、何が正解なのか分かりませんわ」

治療師が喉を鳴らす。

「病がどのようにして人の身へ移るのか、

 いまだ解明されておりません。

 症状が現れる前の人間が感染を広げているのかも、医学的な確証はない」


彼女の細い指が、街道を一本なぞる。

「その不確かな仮定のまま街道をすべて閉ざせば――」

指が止まる。

「飢えと渇きで死ぬ人間が出ますわ」


今度は、隣の宿場町を指す。

「ですが、だからといって人を無秩序に往来させ続ければ――」

黒い印。その先にも、黒い印。

「病で死ぬ人間が溢れかえるかもしれない」


息が詰まるような沈黙が部屋の隅々まで沈殿していく。

リリアーナは深く背もたれに寄りかかり

静かに扇の骨を掌に当てた。


「少し、時間をくださいませ」


その張り詰めた声音に、反論できる者は誰一人としていなかった。


◇


仮設本部の明かりを落とし、

リリアーナは机にうずたかく積まれた書類を、

一枚、また一枚と捲り直していた。


患者の隔離記録。

古井戸の水量推移。

家畜と食料の残数。

代替手工具の一覧。

周辺の村から寄せられた、殴り書きのような日報。


疲労で奥歯が微かに疼く。

だが、彼女の冷徹な脳は、休むことを頑なに拒否していた。

何時間目かの精査の果て、リリアーナの指先が、

ある一枚の粗末な羊皮紙の上でぴたりと凍りついた。


クラウディア公爵領の小さな農村――

あの農夫と少女がいる村から届いた

簡潔極まりない報告書だった。


『病人の家には赤布を掲示』

『食料を届ける者は家の中へ入らず、戸口へ置く』

『井戸の利用時間を分ける』

『農作業は健康な者で分担』

『村外から来た者との接触を可能な限り減らす』


リリアーナの紫紺の瞳が、その一行に吸い寄せられる。


――家の中へ入らず、戸口へ置く。


「……戸口」

乾いた唇から、極めて小さな呟きがこぼれ落ちた。


控えていたマルティナが、はっとして身を起こす。

「お嬢様?」


リリアーナは静かに立ち上がった。

その瞳の底に、研ぎ澄まされた計算の光が蘇っている。


「マルティナ。行政官と治療師を呼び戻しなさい」

「はい」

「それから、町長も」


リリアーナは乱暴な手つきで街道図を手元へ引き寄せた。

一本の道、その先の町、街道、その先にある町。


彼女は迷いのない筆致で、町と町を隔てる境界線の上へ

朱色のインクで一本の太い境界線を叩きつけた。


「……家と家の間でできるのであれば」

さらにもう一本、隣の境界へ線を引く。

「町と町の間でも、同じ構造が作れるはずですわ」

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