第35話 悪役令嬢は、倒れる前に役割を変えますわ(3)
王立学園、緊急記録班。
エミリアの机の上に一通の薄い封書が置かれていた。
差出人は、ヴェロニカ・エルドレイン。
以前よりもさらに削ぎ落とされた、短く鋭い筆致だった。
『エミリア様。
父は契約を破りません。
おそらく、いかなる不正も働かないでしょう。
契約書の文面だけを見て安心なさらないでください。
彼らが本当に何を得ているのか。
物資の動きではなく、「情報」の流れを注視してくださいませ。
ヴェロニカ・エルドレイン』
エミリアは灯火の下で、その警告を何度も、穴が空くほど読み返した。
そして、新しい便箋を引き寄せる。
インクを含ませたペンを握り、迷いなく走らせた。
『ヴェロニカ様。
心より感謝申し上げます。
なぜ、この危険な情報を私へ託してくださったのか。
今は、その理由はお尋ねいたしません。
ですが、いただいた警告は、決して無駄にはいたしません。
エミリア』
書き終えたエミリアは、ペン先を止めて少しだけ躊躇した。
そして――最後に、静かな決意を込めて一行だけを書き加えた。
『次に気づかれたことがあれば、また教えてくださいませ』
それは、手放しの「信頼」を告げる言葉ではない。
だが、父に抗おうとするヴェロニカが差し出した細い糸を、
自分からは断ち切らないという、確かな意志表示だった。
◇
朝靄の立ち込める辺境の宿場町。
「クラウディア様!」
荒々しい足音と共に、
調査隊の高位治療師が仮設本部へ転がり込んできた。
リリアーナは、昨夜の古井戸の使用実績を記した台帳から静かに顔を上げる。
「朝から騒々しいですわね。何事かしら?」
「分かったことがあります……!」
治療師の顔には、極度の疲労と、
研究者特有の興奮が入り混じっていた。
その背後から、魔導学者と薬草学者も息を切らして入ってくる。
「患者たちの経過記録を、
発症日と魔力消費量ごとにすべて再分類いたしました」
治療師は何枚ものカルテを、長机の上へ一気に広げた。
「当初は、生来の魔力量が多い者ほど、
この病に罹患しやすいのだと考えておりました」
「違いましたの?」
「まだ断定はできません
ですが――」
治療師は、震える指先で一枚の記録を指し示した。
「同じ日に微熱を発症した患者であっても、
発症後に魔力を使い続けた者ほど、
取り返しのつかない速度で重症化しているのです」
リリアーナの切れ長の瞳が、すっと細められる。
治療師は次の紙をめくった。
「こちらは鍛冶場の魔力調整役です。
微熱が出たあとも責任感から魔導炉を稼働させ続け、
わずか二日後には昏睡状態に陥りました」
さらに、もう一枚。
「対して、こちらは同じ日に発熱した商店主です。
家族に無理やり止められて店を休み、寝ていた。
現在も倦怠感と微熱は続いていますが
自力で歩くことができています」
魔導学者が重々しく言葉を継いだ。
「発症後の魔力消費が、何らかの形で自然な魔力回復を妨げ、
症状を悪化させている疑いがあります」
「つまり――」
リリアーナが低く呟く。
「病に侵されたから魔力が枯渇するだけでなく……
魔力を使うこと自体が
自らの命を削る引き金になっている、と」
「その可能性が極めて高いと思われます」
仮設本部の空気が、急速に張り詰めていく。
リリアーナは視線を上げ、窓の外を見つめた。
朝の光の中、古井戸の滑車を軋ませて水を汲み上げる人々。
木桶を担ぐ男たち。
普通馬車に荷を積む若者たち。
手工具を振るう職人たち。
それらはすべて、魔導具が使えなくなった町を維持するための
「苦肉の代用品」として用意させたものだった。
「……ならば」
リリアーナは静かに立ち上がった。
その双眸に、冴え渡る光が宿る。
「魔力を使える人間を無理に増やすべきではありませんわね」
全員の視線が彼女へ集まる。
「魔力を使わなくても済む仕事を、徹底的に増やします」
治療師が息を呑んだ。
「魔導具でなくとも代替できる作業は、
すべて人の手と旧来の道具へ切り替えなさい。
魔力を消費する作業は、都市機能の根幹に関わる真の最優先事項だけに絞り込みます」
リリアーナは机の上の見取り図を引き寄せ、指示を飛ばす。
「そして――微熱、咳、頭痛。
どれか一つでも兆候が現れた者は、
いかに優秀な技術者であろうと、
魔力を扱うすべての職務から即座に排除し、完全休養させなさい」
「しかし、クラウディア様」
魔導学者が慎重に口を挟む。
「まだ医学的な因果関係が完全に証明されたわけでは……」
「存じておりますわ」
リリアーナは一秒の躊躇もなく答えた。
「ですから、これを治療法などと呼ぶ気はありません。
病状を悪化させる可能性のある致命的な行為を、
正体が判明するまで構造的に排除するだけです」
治療師は目を見張り、やがて深く、力強く頷いた。
「……仰る通りです。異論はありません」
「王都のアレクシス殿下へも即座に伝書を送ります」
リリアーナは新しい便箋を引き寄せ、ペンを走らせた。
『発症後の魔力使用が症状の急速な悪化と関連する可能性高し。
発症者およびその疑いのある者に対し、
例外なき魔力行使の即時停止を命じられたし』
そこまで書いたところで、
「クラウディア様」
治療師が、重い声で呼び止めた。
「まだ……もう一つ、ご報告せねばならない記録がございます」
リリアーナがペンを止め、顔を上げる。
治療師は、先ほどとは別の、
分厚い書類の束を机の上へ置いた。
それは患者個人のカルテではない。
家族構成。
接触した同僚。
宿泊した宿。
立ち寄った市場の露店。
利用した井戸。
町へ入った日付。
最初に熱を出した日付。
「感染経路を特定するため、患者たちが発症前にどこで誰と接触したのか、
行動履歴を可能な限り遡って調査いたしました」
治療師の指先が、一人の行商人の行動記録の上で止まる。
「この男は十二日前、すでに発症していた商人と同じ荷馬車に乗っています」
「発症は八日前です」
「……では、少なくとも四日間は症状がなかった可能性がある?」
「はい」
治療師は次のカルテをめくる。
「こちらは宿屋の給仕です。発症している者と接触してから発症まで、六日」
さらにめくる。
「こちらは荷馬車の御者。同じく発症者と接触してから発症まで、五日」
治療師は苦渋に満ちた顔で唇を噛んだ。
「まだ症例数が少なく、断定はできません。しかし……」
リリアーナは、その先を告げさせるまでもなく真実を射抜いた。
「自覚症状が出るよりも遥か前に……」
その声が、底冷えするように低くなる。
「病を抱えた人間が、健康な顔をして、すでに町中を歩き回っているのですわね」
「…………はい」
重苦しい沈黙が、部屋を支配した。
リリアーナはゆっくりと視線を転じ、
壁に貼られた広域街道図を見つめた。
黒い印。
今いる宿場町、隣の町、その先の中継地、王都へとまっすぐに伸びる幹線街道。
そして、王都から王国全土へと放射状に広がっていく、無数の毛細血管のような道。
かつて目にした地図と、寸分違わぬ光景だった。
だが――その線が持つ意味は、根底から覆っていた。
物資が効率よく流れる道。
人が活発に行き交う道。
商人が利益を求めて走る道。
旅人が何の疑いもなく歩く道。
だが、熱も咳も発症していない人が、
自らが毒を運んでいることすら知らずに、
村から村へと笑顔で渡り歩いていく道。
「……そういうことでしたのね」
リリアーナの唇から、乾いた呟きが漏れた。
誰も言葉を発することができない。
彼女はゆっくりと歩み寄り、冷たい指先を地図の街道の上へ置いた。
「病が、自らの足で街道を進んでいるのではありませんわ」
治療師たちが、息を詰めてリリアーナの背中を見つめる。
「人が――」
その細い指先が、王都へ向かって伸びる街道の線を、静かになぞっていった。
「人が、自らの手で病を連れて歩いているのです」
宿場町の関門では、今日も一台の荷馬車が、
簡単な検問を受けていた。
御者の男は、門番に向かって快活に笑い声を上げている。
検問の合図を受け取った荷馬車は、
軽快な車輪の音を石畳に響かせながら、
何事もなかったかのように次の町を目指して街道を走り去っていった。
これまでの対策では、足りない。
だが、人を止めれば、物資も止まる。
物資を止めれば、病ではなく飢えで人が倒れる。
リリアーナは、遠ざかる荷馬車を見つめた。
今度、選ばなければならないのは――
何を守るかではない。
人を動かすのか、止めるのか。
その答えは、まだどの報告書にも書かれていなかった。
『悪役令嬢たる者、役割に人を縛りつけてはならない。
人が役割のためにあるのではない。
役割が、人のためにあるのだ。
一つの歯車が欠けたなら、
壊れるまで回し続けるのではなく、
まだ動ける歯車で回る形へ組み替えよ。
それを怠る者を、仕組みを作る者とは呼ばぬ。』
「悪役令嬢となるための秘伝書」より




