第28話 悪役令嬢は、次に止まる場所を先に動かしますわ(1)
宿場町に設けられた仮設本部。
夜気が忍び込む部屋の中、長机の上には町の見取り図と
王都から派遣された行政官たちが集めた報告書が整然と並べられていた。
『代替できる者』
『残された日数』
『止まった場合に影響する場所』
リリアーナが新しく作った三つの欄には、まだ白い空白が多い。
だが、最初の報告を受けた行政官たちは、
その欄が意味する「残酷なカウントダウン」を理解し始めていた。
「浄水施設の魔導ポンプは、
現在の出力なら、あと二日ほどは維持できます」
若い行政官が、声をかすれさせながら報告書を読み上げる。
「ただし、調整を担当している職人がすでに発熱しており、
今朝から起き上がれません」
リリアーナは『残された日数』の欄に、淡々と「二日」と記した。
インクの黒が、紙に冷たく滲む。
「代わりを務められる方は?」
「おりません」
「見習いは?」
「魔力の微調整はまだ教わっていないそうです」
リリアーナのペン先が、ぴたりと止まった。
「では、魔導ポンプが止まったあと、水を汲み上げる方法は?」
行政官は口をぐっと結び、答えられなかった。
会議に同席していた町長が、堪りかねたように身を乗り出す。
「そんな先のことより、まずその職人を治すべきではありませんか!
倒れた者を治せば済む話だ!」
「その方を休ませることは必要ですわ」
リリアーナは感情を挟まず、静かに答えた。
「ですが、その方が二日以内に全快する保証はどこにもありませんの」
「ならば、王都から別の技術者を――」
「それは勧められません」
重苦しい声で遮ったのは、高位治療師だった。
その顔にも、絶え間ない治療による疲労が濃く影を落としている。
「魔力を日常的に多く消費する者ほど、
この病は急速に悪化する傾向があります。
腕の良い職人を呼び寄せても、同じように即座に倒れる可能性が極めて高い」
「では、どうしろというのだ!」
町長が卓を叩き、声を荒らげた。
「水が止まれば、病どころではない! 町が干上がってしまう!」
「ですから、止まったあとの生き残れる構造を今考えているのですわ」
リリアーナは見取り図の隅にある、
小さな円へペン先を落とした。
「昔使っていた井戸はございませんの?」
「あります、が……」
町長は激昂から一転、戸惑いに表情を曇らせた。
「魔導ポンプが導入されてからは、誰も使っていません。
滑車も縄も、とうに傷みきっているはずです」
「修繕できる方は?」
「鍛冶場の弟子たちなら……簡単な金具の打ち直し補修くらいなら……」
「では、すぐに確認を。手分けして資材を集めてください」
行政官が素早く記録を走らせる。
リリアーナは視線を落とし、迷いなく次の報告へ移った。
「食料保存庫は?」
「冷却魔導具の出力が落ちています。
保存されている肉と乳製品は、長くても三日が限界です」
部屋の端で黙っていた薬草学者が、意を決したように手を挙げた。
「地下の薬草庫が使えます」
「薬草庫を、ですの?」
「ええ。地下深くにあり、温度が低く湿度も一定です。
薬草庫の区画を明け渡して食料を移せば、
すべてではありませんが保存できます」
「移した薬草は傷みませんの?」
「乾燥済みのものは問題ありません。
ただし……管理の難しい生薬の一部は、破棄するか、
痛むのを覚悟で別の場所へ移すことになります」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
薬草学者自身、苦痛に満ちた顔で唇を引き結んでいる。
治療に使えるかもしれない貴重な生薬を犠牲にし、目先の食料を守る。
それがどれほど狂気的な選択か、誰もが理解していた。
リリアーナは静かに問う。
「その生薬で、現在の病を根本治療できる可能性は?」
「……分かりません」
「では、既知の症状を和らげる効果は?」
「熱や咳を一時的に軽快させるものはあります」
「代替できる野生の薬草は?」
薬草学者は深く考え込み、やがて苦々しく答えた。
「効き目は落ちますが……近隣の森で採集できる草で代用は可能です」
「ならば、生薬を移動させ、
その区画を食料庫として開放してください」
リリアーナは言った。
薬草学者が強く眉を寄せる。
「しかし! あとからその生薬が絶対に必要になる可能性も――」
「ございますわ」
リリアーナの声は、一切揺れなかった。
「ですが、三日後に食料が全滅すれば、
病人だけでなく、今健康な者まで飢えて倒れますのよ」
「……っ」
「すべてを守る方法など存在いたしませんわ」
その言葉が、鉛のように重く部屋に落ちた。
リリアーナは薬草学者をまっすぐに見つめる。
「必要な分量だけを残し、残りを別の場所へ移してください。
失われた薬草は、近隣から集める代替手段を構築します」
薬草学者は長い沈黙の末、搾り出すように答えた。
「……承知、いたしました」
リリアーナは、その返答を受けても眉ひとつ動かさなかった。
だが、長机の下、ドレスの陰で固く握りしめられた彼女の指先は、
白くなり血の気が引いていた。
次に報告されたのは、町を囲む外郭結界塔だった。
「現在の担当者三名のうち、すでに二名が発症」
魔導学者が言った。
「残る一名で維持していますが、このままでは二日と持ちません」
「結界が途絶えれば?」
「周辺の森に潜む小型魔獣が、町へ侵入する危険があります」
「代わりの術者を至急配備すれば良いのでは!」
町長の言葉に、魔導学者は首を横に振る。
「魔力を大量に消費する結界維持を続ければ、
新しく来た者もすぐに倒れます。悪循環です」
リリアーナは見取り図の町壁を、指先で静かになぞった。
「結界の範囲を、狭めることはできますの?」
「狭める、ですか?」
「町全体を覆うのではなく、
人が生活する中央区域だけを囲うのです」
魔導学者が目を見開いた。
「理論上は可能です。
……しかし、それを行えば、外縁部の畑と家畜小屋は結界の外になります」
町長が跳ね起きるように立ち上がった。
「畑と家畜を捨てろと言うのか! 冗談じゃない!」
「捨てるのではありませんわ」
リリアーナは静かに見上げる。
「昼間は見張りを立てて必要な作業だけを行い、
夜間は人を町の内側へ撤収させるのです」
「魔獣に荒らされたらどうする!」
「結界維持者が全滅して結界そのものが消滅すれば、
畑どころか町の中まで魔獣に荒らされますわ」
リリアーナは視線を逸らさない。
「守る領域を絞れば、消費する魔力を削減できます。
担当者を交代で休ませる余裕も生まれますわ」
「だが……!」
「町長」
行政官が静かに、けれど毅然と口を挟んだ。
「今は、畑と町の両方を完璧に守り切る人手が、
物理的に存在しないのです」
町長は何かを言い返そうと唇を震わせた。
だが、厳しい現実に打ちのめされ、言葉にならない。
リリアーナは淡々と告げた。
「畑を守るために、町そのものを失うわけにはいきませんわ」
長い重黙の末、町長は力を抜いて椅子へ腰を落とした。
「……分かった。指示に従いましょう」
その声には、敗北と深い苦味が滲んでいた。
会議は、日が完全に傾いても続いた。
・魔導灯は、夜間すべての点灯をやめる。
主要な通りと、診療所、井戸の周辺のみを残す。
・通信魔導具は、常時接続を停止。
決められた刻限に一度だけ起動し、王都と情報を共有する。
・急を要しない行政手続きは、すべて無期限延期。
・輸送用の魔導馬は、食料と薬品の運搬にのみ限定。
それ以外の物資は、普通の馬車と人の手へ切り替える。
「……まるで、文明を一段階捨て去るようですね」
若い行政官が、羊皮紙に記録を取りながらぽつりと呟いた。
「捨てるのではありませんわ」
リリアーナは言った。
「動かないものに縋るのをやめ、動くもので組み直すだけです」
窓の外では、久しく使われていなかった古井戸の周囲に、
松明を持った人々が集まり始めていた。
鍛冶場の弟子たちが、錆びついた滑車を力任せに外している。
年老いた大工が、古びた縄の強度を慎重に調べている。
水汲みに集まった女たちは、家に眠っていた桶を持ち寄り、数を数えていた。
一度は時代遅れとして役目を失った道具と、
忘れ去られていた人の技術。
それらが今、再び人の泥臭い手によって、
静かに動き出そうとしていた。
『悪役令嬢たる者、すべてを守ろうとしてはならない。
守るべきものを選べぬ者は、結局、すべてを失う。
何を残し、何を止め、誰を休ませ、誰に託すのか。
その責任から目を逸らすな。』
「悪役令嬢となるための秘伝書」より




