第十六話「正解の癖」
まだ暗い時間に、目が覚めた。
時刻は確認しなかった。
机の前に座って、ノートを開いた。
ペンを持った。
白いページを見た。
何も書かなかった。
(なんとなくの方が、正解かどうか関係ない)
リアの言葉が、また浮かんだ。
何が引っかかっているのか、分からなかった。
分からないまま、窓の外が少しずつ白んでいった。
◇
記憶が浮かんできたのは、ページの白さを見ていたからかもしれなかった。
初等科の頃の話だ。
同じ通学路に住む女の子がいた。
毎日一緒に帰っていた。
約束したわけではなかった。
なんとなく、そうなっていた。
いつも、帰りながらどうでもない話をした。
その子がしゃべって、ユウトが答えた。
大体そうだった。
その子が話したいことを話して、ユウトが正しいと思うことを言った。
それで成立していた。
少なくとも、ユウトはそう思っていた。
その日、いつもより話が少なかった。
歩く速さも、いつもより遅かった。
いつもは少し前を歩くのに、その日は半歩だけ後ろにいた。
ユウトの歩く速さに、合わせるように。
「明日、引っ越すんだよね」
その子が言った。
話題としては昨日も一昨日も出ていた。
でも今日の言い方は、昨日と少し違った。
確認ではなかった。
「そうだな」
ユウトは答えた。
しばらく、どちらも話さなかった。
夕方の空が、二人の影を長く伸ばしていた。
その子が、何か言いかけた。
でも言わなかった。
もう一度、言いかけた。
また止まった。
ユウトにだけ、言いかけてやめることが、たまにあった。
いつもそうだった。
今日は、その回数がいつもより多かった。
「向こうでも、ちゃんとやれるかな」
少し間があってから、そう言った。
ユウトの方を見ていた。
目が合って、少し長かった。
いつもより長かった。
ユウトは少し考えた。
答えが見えた。
「環境が変わっても、お前はお前だから大丈夫だと思う。連絡も取れるし、距離は関係ない」
その子が、少し黙った。
「……そうだね」
そうだね、の言い方が、さっきの目と違った。
でも当時のユウトには、その違いの意味が分からなかった。
もう少し歩いたところで、その子が立ち止まった。
ユウトも止まった。
「こっちのこと、忘れないかな」
ユウトは答えようとした。
忘れるわけがない、という話は簡単にできた。
記憶は環境に依存しない、という話もできた。
でも、その子の目が、ユウトを見ていた。
何かを待っているような目だった。
何を待っているのか、分からなかった。
「忘れないと思う。連絡すれば——」
「そういうのじゃない」
静かな声だった。
遮った、というより、止まった、という感じだった。
「……そういうの?」
「最後くらい、普通に話せないの」
ユウトには、普通に話しているつもりだった。
何が普通ではないのか、分からなかった。
「なんで答え出すの」
今度は少し違う声だった。
怒っているのではなかった。
ずっと言えなかった何かが、出てきた声だった。
「聞いてほしかっただけなのに」
ユウトは何も言えなかった。
しばらく、どちらも動かなかった。
夕方の風が、二人の間を通り過ぎた。
その子の目から、涙が出た。
拭わなかった。
声も出なかった。
ただ、出た。
「……やっぱり分かんないよね」
諦めるような言い方だった。
ユウトに向けた言葉ではなく、
自分に向けた言葉のように聞こえた。
ユウトは何を言えばいいか分からなかった。
正しいことを言ったはずだった。
なのに、涙が出ていた。
何かが壊れた感触だけがあった。
何が壊れたのか、分からなかった。
家の前に着いた。
その子が門の前で立ち止まった。
「元気で」
それだけだった。
たぶん、もっと言いたいことがあった。
でも言わなかった。
言えなかったのか、諦めたのか、
当時のユウトには分からなかった。
振り返らなかった。
門を開けて、中に入った。
ドアが閉まる音がした。
ユウトはしばらくそこに立っていた。
ドアは閉まったままだった。
もう一度開くことはなかった。
その夜、ユウトは考えた。
正しいことを言った。
距離は関係ない、は本当のことだった。
忘れない、も本当のことだった。
でも、何も届かなかった。
何を返せば正しかったのか、分からなかった。
どうすればよかったのか、分からなかった。
他のやり方が、分からなかった。
分からないものは、扱えない。
扱えないものに踏み込むと、壊れる。
だから、判断した。
感情の話が来たとき、正しい答えを返す。
正しいことだけを言う。
分からないものには、踏み込まない。
それが、壊れない確率を上げる方法だった。
そう、思った。
◇
ペンを置いた。
白いページが、まだそのままだった。
昨日、リアに言った。
似合う、と。
なんとなく、そう思っただけだった。
正しい話ではなかった。
根拠もなかった。
分からないものだった。
壊れなかった。
あのとき判断したことと、違うことをした。
壊れなかった。
なぜ壊れなかったのか、分からなかった。
でも、壊れなかった、という事実だけがあった。
その事実が、何を意味するのか。
まだ分からなかった。
ペンを持った。
書こうとした。
止まった。
白いページが、開いたままだった。
窓の外に、朝が来ていた。
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それでは、また次話でお会いしましょう。




