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67 これからの話(2)

「一緒に、逃げよう」


 早坂の声は優しかったが、どこか縋るようだった。

 板垣は何も言えず、頷きもできないうちに、早坂から手が強く握られる。

「事実なんて隠せる。時間が、解決してくれる。あろまんは、自分が幸せになることだけを考えてよ」

「るみ」

「私も協力するから。事件のことも、研究室でやったことも、全部忘れよう。それで、前みたいに戻ろう」


 板垣の耳を掠めていた早坂の呼吸が浅くなる。

 早坂は板垣の目を見て続けた。

「普通に笑いながら一緒に過ごしてさ。明後日も、来週も、……1年後も。ずっと、私の側にいてよ」

 早坂の声は強く、板垣に向けられた目は熱に浮かされたように潤んでいた。


 板垣は一瞬、言葉を失った。

 早坂から向けられる視線の圧が、両手を包む熱さが、板垣をその場に押し留める。


 板垣は目を伏せて首を横に振った。

「私が、決めたことだから。るみなら、止めないでくれると思ってた」

 早坂の口が半開きになる。


「多分、るみが言うみたいに……。また周りの人が、私のこと色々言ったり、騒がれたり、するんだと思う。でも、今度はちゃんと、折れないから」

 板垣は早坂の手を握り返した。

「それでね。お願いがあって」

 板垣ははっきりとした声で続ける。


「るみだけは、私の味方でいて欲しい。それだけで、私は生きていける」


 言った後、板垣の胸にひりついた痛みが走る。板垣は思わず目を伏せて俯いた。

 ――自分は、卑怯だ。自己満足のために、るみを振り回している。

 それでも、るみには、そうして欲しいと望んでしまっている。


「ごめんね。わがままを全部、るみに押し付けて」


 早坂の手に一瞬、何かを繋ぎ止めるように力が込められた。直後にそれがゆっくりと解け、二人の指と手のひらが離れる。

 板垣の手が突然冷気に晒され、驚いて顔を上げた。


 目の前で、早坂は泣いていた。

「なんで、そんなこと言うの?」


 板垣は茫然として早坂を見る。


 早坂は震えた声で続けた。

「私、覚悟してきたんだよ? 悪者になっても、あろまんに嫌われたとしても……絶対に普通に戻すって。もうこれ以上あろまんのこと、苦しめないって」

 早坂の声が、涙と同時にぽつりと落ちていく。


「なんで、私が決意をしてまで、守りたかったものを、あろまんは切り捨てるの?」

 早坂は左手で目元を拭いながら、途切れ途切れの呼吸を漏らした。


 早坂の言葉が、板垣の心を静かに深く抉っていく。

 板垣はすぐに答えることができず、早坂の涙が落ちていく様子をただ見つめていた。


 ――私たち、ここまですれ違っていたのか。


 板垣は泣きじゃくる早坂の背中に向けて手を伸ばす。背中に手を触れた瞬間、早坂はびくりと一瞬肩を上げた。


 板垣は早坂の腫れた目を見て言った。

「切り捨てたんじゃないよ。それよりも、もっと大事なものがあったってだけ」

 板垣は優しく早坂の背中をさすりながら、静かに呟いた。


「私の側に、いてほしい、んだ」


 早坂は何かを言い返そうとして口を開いたが、声にならなかった。唇だけが微かに動き、しばらくして閉じられる。

 早坂は視線を落とし、握りしめたままの拳を膝の上で解いた。


 早坂は板垣を見ないまま、ゆっくりと息を吸った。


「あろまんが、また笑ってくれるなら」

 早坂の口から出てきたのは、頷きでも、否定でも、引き留める言葉でもなかった。

 早坂は目を閉じた。何かを押し殺すように、ゆっくりと息を吐く。

 それから、顔を上げた。


 板垣は早坂をまっすぐ見る。

「ありがとう、るみ」


 早坂の肩が、小さく落ちた。

「ほんとに、ありえない」

 早坂は震える声で言った。


 薄闇の中、二人は顔を見合わせて苦笑いする。

「……るみに話すのが一番苦しかった」

「私も、あろまんから聞くのが一番辛い」


 板垣は笑いながらも、喉の奥が痛んだ。

 早坂の背中に置かれたままの手は、まだ震えていた。



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