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66 これからの話(1)

 板垣の家のリビングで、板垣と早坂はテーブルを挟んで向かい合って座っていた。板垣はグラスにミルクティーを注いで早坂の前に差し出し、何かを言おうとして口を開いたまま、しばらく黙っていた。


 早坂はちらりと板垣を窺った後、頬杖をついて視線をテーブルに落とした。何も言わず、ただ板垣の言葉を待っているようだった。


 板垣はちらりと早坂を見て、息を呑み、ミルクティーが入ったグラスを手に取った。グラスに手を触れた瞬間に、指先に硬くて冷たい感触がした。

 ミルクティーを一口飲んだ後、またちらりと早坂を見て、目が合わないのを確認すると視線を横に泳がせる。

 早坂の顔を見ると、喉まで出かかった言葉が声にならずに喉奥に戻された。


 早坂は板垣の視線に気付きながらも、黙ってテーブルを睨みつけていた。空いた左手の指先で、規則的にコツコツとテーブルを叩く。しばらくしてミルクティーを一口飲み、静かにグラスをテーブルに置いてため息を吐いた。


 3分ほど経った時、板垣は意を決したようにグラスを持ち、ミルクティーを一気飲みして、グラスをテーブルに強めに置いた。ガタンという音が響き、板垣自身が驚いて肩をびくりと震わせる。


 振り返った早坂と目が合う。早坂は唇を引き締めて眉をわずかに寄せていた。


「あの、さ」

 板垣は硬い声を押し出す。膝の上に置いた拳が小さく震える。

 早坂は黙って頷いた。


「私ね、沼野くんの事件で、本当は……殺してた、らしいんだ」

 板垣の声は震えていた。


 早坂はしばらく板垣を見つめ、ごくりと喉を鳴らす。

「……知ってた」


 板垣は目を見開いて早坂を見つめ返す。

「知ってた、の?」


「六条ってやつに聞いた。最初は信じられなかったけど。でも、土山と会ったときのあろまんを見て、本当なんだ、って思った」


 早坂は低い声でぼそりと答える。早坂はグラスのミルクティーを一口飲み、グラスを持ったまま視線を漂わせた。

「……でもさ」

 早坂は視線を壁の向こう側に向けたまま言う。

「それで、あろまんの居場所がなくなるわけじゃ、ないでしょ」


 板垣は早坂を見つめたまま尋ねる。

「居場所?」

 早坂とは目が合わなかった。


 早坂はグラスをそっと置き、遠くを見つめながら答える。

「明日も学校に来て、私の隣の席に座って、一緒に授業受けて。そこで誰からも事件のことは咎められない。お昼になれば和田ちゃん達とご飯食べながら騒いで、放課後には一緒に帰ってさ。あろまんはこれからも、何一つ変わらないんだよ」


 早坂は一呼吸して続けた。

「あろまんは、普通に戻るだけ」


 板垣は一瞬息を止めて、俯いた。空のグラスに視線を落とし、膝の上で拳を握る力が入る。


 ――違う。

 そうならないことを、私は選んだ。


「るみ」

 板垣が俯いたまま呼びかける。ちらりと早坂を見ると、早坂は顔だけ板垣に向けていたが、目は背後の壁を見ているようだった。


 板垣は早坂の顔を見ながら、ぽつりと言った。

「ごめん」


 一瞬、早坂の目が板垣を見た。早坂はすぐに目線を落とし、グラスのミルクティーを見つめた。早坂の閉じた唇にぎゅっと力が入り、鼻からため息が漏れる。


 静寂の中で時計の秒針の音が響いていた。板垣の鼓動が、秒針よりも速く胸を叩きつける。


 板垣は早坂を見たまま、静かに続ける。

「私、多分……、普通に戻ったまま、生きられない」


 早坂は無意識にグラスを両手でさすり、ゆっくりと顔を上げた。早坂は口を開け、鋭い目つきを板垣に向けていた。

 しかし、早坂はそのまま黙っていた。


 板垣はごくりと唾を飲み、口を開く。

「だから、私、実験のデータを持って、もう一度警察に行こうと思ってる。沼野くんを殺したことを、今なら説明できるから」

 早坂が息を吸い込む。


 板垣はゆっくりと続ける。

「私がやったことの責任を取らないと、苦しいまま生きていくことになる」


 早坂はグラスをさする手の動きを止める。板垣を見る視線に力が無くなり、口元も緩んでいた。

 早坂は、優しく微笑むような表情で板垣を見ていた。


 ようやく早坂が答える。

「そんなことないよ」


「ほぇ?」

 板垣は目を開いて早坂を見返した。


 早坂は頬杖をつき、前のめりになりながら続けた。

「あろまんは散々苦しんできたんだから。これ以上わざわざ苦しむようなことをしなくてもいいんだよ。ようやく研究室からも解放されて、これからやっと普通に――」


「それが、できない」

 板垣は目を閉じながら答えた。喉がきゅっと狭くなり、焼けるように熱かった。


 板垣は目を開け、早坂の顔を窺うように見つめた。

 早坂の顔がじわじわと硬くなっていく。口元にぴんと力が入り、眉間に影ができる。引き攣った笑顔を作りながら、震えた声で尋ねた。

「何言ってんの?」


 板垣は一瞬目を伏せ、それから早坂を見る。

「るみが言ってる『普通』に、戻れない。学校に行って、笑って、何もなかったみたいに過ごすことは……できるんだと思う。でも、それは戻るっていうより……蓋をするだけで」


 板垣はテーブルに手を置き、無意識に両手を絡ませた。

「そうやって蓋をしたまま生きるのは、苦しい」


 早坂の頬杖をついていた手がすっと離れる。そして次の瞬間、早坂は手のひらでテーブルを叩いた。

「正直に警察に持っていく方が、苦しいと思うよ? あろまん、また事件が起きた時みたいに、色々言われて……。覚えてるよね? あろまんの名前がネットのあちこちに載って、すれ違う知らない人からひそひそ話されて、学校でも……」

 そこまで言って早坂は口を噤む。


 板垣は早坂を見たまま肩を震わせていた。

「それでも。蓋をしたままだと、自分のこと、一生許せなくなる」

 板垣はすっと息を吸う。

「それは『生きてる』って言わない」


 部屋の空気がぴんと張り詰める。

 沈黙の中で、早坂の呼吸の音が揺れた。


 二人は何も言わずに見つめ合ったまま、時間だけが過ぎていく。部屋は薄暗くなり、微かな西日がレースカーテンから入り込んでいた。


 遠くで夕刻のチャイムが鳴り、それが終わった途端、早坂がぽつりと言った。


「あろまん」

「なに」


 板垣が答えたと同時に、早坂は立ち上がり、板垣のすぐ側に歩み寄った。早坂は板垣の手を取り、そのまま指を絡める。

「ひゃぅ」

 板垣は小さな悲鳴を上げ、早坂は座ったままさらに一歩詰め寄った。


 肩が触れ、鼻先に早坂の息が掛かる。

 板垣は反射的に首を反らすが、手は離れない。絡まった指が手汗で滑る度に、早坂の爪が板垣の手に強く食い込んでいく。

 早坂の体温が逃げ場を塞ぐように近かった。


 早坂の声がすぐ耳元で落ちた。

「一緒に、逃げよう」


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