65 変わらない風景
「あろまん、おはよ」
板垣が声の方を振り向くと、リュックを背負った早坂が控えめに笑っていた。
「ぉおはよ!」
一拍遅れで板垣が返事をする。早坂はリュックを降ろして板垣の隣の席に座り、荷物を取り出し始めた。
板垣は前に向き直り、ぼんやりと黒板を見つめる。黒板までの距離がいつもよりも遠く感じる。教室の隅ではいつものように弾んだ声が聞こえたが、その声が耳まで入るような感覚がしない。
板垣は机の脇に掛けられたリュックからちらりと覗くクリアファイルを見た。昨日大学で渡された、『今後の対応について』の書類がそのままの状態で入っている。
板垣は思わず目を逸らし、再び黒板を見つめた。
チャイムが鳴り、担任教師が「おはよー」と言いながら教室に入って来た。板垣の目は小さく揺れながら教師を追った。教師はさらりと出欠を確認し、淡々とホームルームを締めた。
授業中、板垣はノートを開きながら板書も写さず、手元を眺めていた。黒板の音だけが一定の間隔で続くのを聞き流していた。
突然、誰かがペンを落とす音がやけに大きく響き、板垣はびくりと肩を上げた。
ふと横から机の上に紙切れが差し出される。
それを見ると、首を傾げるウサギのイラストと文字が書いてあった。
『具合悪い?大丈夫?』
板垣が顔を横に向けると、真顔で頬杖をついた早坂と目が合う。
板垣は一瞬鼻の奥が熱くなり、俯いた。
ウサギのイラストがぼやけていくのが見え、一度きつく目を閉じる。深く息を吐いた後、少し目を開ける。
目を細めて口角を引き締め、ゆっくりと早坂に顔を向ける。
『だいじょうぶ』、と唇を動かした。
昼休みになり、板垣はいつものように廊下のスペースで弁当を広げた。隣で早坂が黙って弁当の蓋を開け、箸を突き始める。
少し遅れて和田と余部が来た。
「かとちゃんは委員会で来れないって~」
余部が大声で言いながら雑に弁当箱を置いた。板垣はふと余部の右手の拳に大きなシップが貼ってあるのが目に入り、思わず尋ねる。
「余部ちゃん、手どうしたの?」
「お兄とケンカして、壁殴ったら血ィ出てきてさ」
「へゃ、大丈夫?」
板垣は顔を引き攣らせ、肩を震わせて余部を見る。余部は軽く笑いながら拳を見せびらかした。
「痛みはもうないから平気~。お兄、受験生だからピリピリしてんだよね。まじだるいわ」
「お大事に」
和田がさらりと言い、「それよりさ、昨日の」と話を切り出す。
「おい、私のケガを軽く流すな!」
余部の怒声が響き、板垣は困ったように笑った。その隣で早坂も苦笑いをして唐揚げを頬張った。
流行しているアニメの感想で盛り上がる和田たちを眺めながら、板垣は白米を口に運んだ。味が分からないまま、次々と弁当の中身を口に入れる作業を繰り返す。
会話が一段落し、箸の音が続いた。
板垣がちらりと早坂を窺うと、早坂は弁当箱の隅に残ったミートボールをじっと見つめていた。その横顔はいつもと変わらない。
板垣の心中など何も知らない顔だった。
――早く、るみに、言わないと。
板垣は前を向き、そっと箸を置いた。
放課後になり、廊下では誰かの笑い声や足音が重なり合い、遠くでトランペットの音や野球部の掛け声が響いていた。窓の向こうには黄色に染まった空が広がっている。
静かな教室の隅で、板垣は席に座ったまま外の騒がしさを聞いていた。
この時間が、あとどれくらい続くのか分からない。
リュックの口を閉じて、ゆっくりと立ち上がる。リュックを背負うと、いつもよりもずしりと重さを感じた。
廊下に出ると、早坂が数メートル先で友人と話していた。笑いながら何かに頷いている様子は、いつもと変わらなかった。
板垣は廊下を歩き進める。
早坂との距離が縮まっていく。
一瞬、早坂と目が合う。
声を掛けようとして、やめる。
板垣は早坂の脇を通り過ぎた。
長い廊下を越え、昇降口が見えてくる。正面玄関のガラス扉からはオレンジ色の西日が差し込み、入口の床まで光が伸びていた。
その眩しさに思わず目を細め、足が止まる。
「またね」という声がどこからか響き、生徒たちがぱらぱらと外に向かっている。
板垣の横を、リュックを背負った女子二人組が通り過ぎる。二人は軽い声で会話を交わしながら、ゆっくりと歩いて玄関を出て行く。
板垣はその後ろ姿に、思わず自分を重ねた。
壊れる気配などどこにもない、ありふれた柔らかい光景だった。
それなのになぜか、板垣の胸を大きな余白が埋めていた。
――失う覚悟はできている。
この日常が壊れることも、戻れなくなることも。
だけど、逃げたまま、ここに立っていられない。まだ、ちゃんと息をしていたい。
それでも――
一つだけ、できていなかった。
板垣の右手がブレザーのポケットに伸びる。折りたたまれた紙切れが出てきて、それを丁寧に広げる。
ウサギのイラストと、『具合悪い?大丈夫?』というメッセージが目に入る。
昼間に早坂から渡されたもの。
その紙切れの端を持つ指先が細かく震える。
帰り道の隣には、早坂がいることが当たり前だった。他愛のない話をしながら、別れ際には「また明日」と言うだけの時間。
それが、今日も、明日も、ずっとあるものだと無意識に思っていた。
その当たり前だけは、板垣にとって唯一失いたくないものだった。
板垣の呼吸が浅くなり、リュックの肩紐を握る指にじわりと汗が滲む。
板垣は踵を返す。
何かに突き動かされるように、早足で駆け抜ける。
廊下を進むと、先ほどよりも音が多く、近くに聞こえた。
誰かの笑い声、ロッカーを開け閉めする音、数学教師が説明する声。
全部、急に現実味を帯びて迫ってくる。
それらの音を貫いていくように、廊下で板垣の足音が響く。
早坂はまだ同じ場所にいた。
友人と話しながら軽く笑っている。その横顔は、いつもと変わらず淡々としていた。
板垣は一歩、また一歩と早坂に近づく。
心臓が耳のすぐ脇にあるかのように、鼓動がうるさく鳴っていた。
早坂まであと数歩のところで足が止まる。
名前を呼ぶだけなのに、喉が引き攣って声が出ない。
早坂が友人と話を止め、早坂の視線が板垣の方を向いた。
「るみ」
「あろまん」
二人の声がほぼ同時に重なる。
「一緒に、帰ろ?」
板垣は絞り出すような声で言った。
早坂は柔らかく笑い、頷いた。
「いいよ。待たせてごめんね」
板垣は口角を横に引いて笑顔を作った。頬が痛み、目元が強張り、リュックの肩紐を握る手は爪が手のひらに食い込んでいた。
「それでさ、るみ」
「ん?」
板垣は震える息で深呼吸をした。
「今日、これから時間ある? 話したいことあるから、うちに来ない?」




