64 跡を濁さないように
板垣は父親と講義室を出て、長く続く廊下を歩き、エレベーターの前で立ち止まった。
父親はインジケーターの数字がゆっくりと上がる様子を見ながら、ぽつりと言った。
「あろまも、もうここに来ることはないかもだよね」
「……うん」
「それとも、文永大学に入れるように、勉強頑張るか?」
父親は冗談っぽく笑い、板垣は「ええ?」と裏声を上げた。
ポン、とエレベーターが鳴った。
到着したエレベーターの扉が開きかけた時、父親が板垣に顔を向ける。
「あろま、先生たちに挨拶しなくて大丈夫?」
板垣はびくりと背筋を伸ばす。
――そういえば、まだ何も伝えていない。
全開になったエレベーターに向かって父親が歩き出す。
「あ、わ、え……」
板垣は視線を泳がせて父親の背中を見ながら、言葉にならない声を上げていた。
そして、その場で立ち止まり、板垣は言った。
「挨拶、してくる。……から、お父さんは、先に行ってて」
言い終わると同時に踵を返す。
背後から「うん」と低い声が飛んできた。
板垣は小走りで先ほどまでいた講義室に向かった。廊下に並ぶ似通ったドアをきょろきょろと見回し、ぱたぱたと足音を立てる。
「あれ、ここで曲がるんだっけ……?」
板垣が首を捻りながら進むと、突然目の前に人影が現れる。
「すみません!」
板垣は反射的に身を避ける。
「あれ、板垣さん、忘れ物?」
聞き慣れた声だった。
顔を上げると、西尾がきょとんとした顔で板垣を見ていた。
「あ、いや。……その、今までのお礼、伝えてなかったので」
「お礼?」
西尾の目が丸くなる。
板垣は西尾を見上げては俯き、口ごもるのを何度か繰り返した。
板垣は顎の前で指先を摺り合わせ、西尾を見上げる。
「あの、ありがとうございました。西尾さんのお陰で、私、これからも生きていけます」
西尾はふっと息を飛ばし、口角を上げた。
「それは大げさ」
板垣もつられるように小さく笑う。
西尾は腰に手を当てて背筋を伸ばす。
「……板垣さんは、この結末に納得できてる?」
「はい」
板垣は即答したが、僅かな間の後に続けた。
「まだ、終わってないことが、ありますけど」
板垣は無意識にリュックに付いたカワウソのストラップを撫でていた。
「板垣さんが納得できてるなら、よかった。俺が苦労したかいがあったわ」
西尾は腹をさすりながら控えめに笑い、板垣も口元を緩めた。
「……これからも、もう少しの間、よろしくお願いします」
「うん。地獄まで付き合うよ」
板垣は西尾に向かってぺこりと一礼した後、ぱたぱたとまっすぐに駆け出した。
「板垣さん」
西尾がすぐに呼び止め、板垣は一瞬前のめりになって止まる。
「先生なら居室に戻ったよ」
西尾の声を聞いて、板垣はしばらく硬直する。
「あの……先生の部屋って、どこですか?」
西尾はふっと笑って正反対の方向を指した。
「あっちの突き当たりの部屋」
「っありがとうございます」
板垣は西尾が指した方向に小走りで向かった。六条の居室のドアが見えた瞬間、早歩きを止めてゆっくりとドアに向かって歩き始める。
居室の前で一呼吸してからノックし、ドアを開けた。
「失礼します」
板垣が居室に入ると、ふわりとチョコレートのような甘い香りがした。部屋の中心のデスクで書類を整えていた六条が、板垣の方を振り返る。
「板垣さん、どうした?」
六条の声を聞いた瞬間に、板垣は頭の中で用意していた言葉が全て立ち消えた。
「えっと」
板垣はしばらく六条の首元を見つめて固まっていたが、何かを思い出したように口を開く。
「あ! あの、最後に、挨拶しに来ました。今までの、お礼をしてなかったので」
六条は書類を持つ手を止め、何度か瞬きをして板垣を見る。
板垣はごくりと唾を飲んで、小さく頭を下げた。
「私が、これからも生きるための……きっかけをくれて、ありがとうございました」
板垣が頭を上げると、六条はぽかんとして板垣を見つめていた。
「私の都合で板垣さんを散々振り回したんだから、文句でも言われた方が納得できるんだけど」
板垣は「ほえ」と間抜けな声を上げ、小さく頬を膨らませる。
「文句も、色々言いたいですけど……。でも、先生のお陰で、人生が変わったので」
その言葉は嘘ではなかった。
六条は目を細めて笑った。
「またいつでもおいで。ここだけは、板垣さんがどうなったとしても、変わらずに迎え入れるから」
板垣はあっけにとられて六条の顔をぼんやり見ていた。柔らかい笑顔が、初めて会った時の姿と重なった。
だがその姿は、あの時のような救世主などではなかった。
「六条、先生」
板垣は呼びかけるように呟き、じっと六条を見る。
「ありがとうございます。……でも、私の居場所は、もう決めてます」
板垣の声がまっすぐに落ちた。
六条はしばらく黙って板垣の前に立ち、ポケットから何かを取り出した。
「これから頑張っていく板垣さんに、最後にお土産。はい」
板垣に手渡されたのは、ビターチョコレートだった。
板垣は手の中の黒い包装紙を見つめ、ずしりと乗った冷たさを確かめるように握り直した。
顔を上げると、六条はいつもと変わらず穏やかに笑っていた。
板垣は居室のドアに手を掛けようとして、一瞬手が止まった。
息を吸うと、甘い香りと混ざって微かにほろ苦さが胸に落ちていった。
「失礼しました」
板垣は居室のドアを閉めて、廊下で小さく息を吐いた。
板垣がエレベーターから降りると、暖色の薄明りが照らすロビーに出た。
その奥で、父親は木目調のベンチに座ってスマートフォンを見ていた。
「待たせてごめん!」
板垣は胸の前で手を合わせて父親の元に駆け寄る。
父親は丸めていた背中をすっと伸ばして板垣の方を振り向いた。
父親がベンチから腰を上げながら言う。
「腹減ったな」
「ほえ!?」
板垣は父親を見上げると、父親は真顔のまま前を見ていた。板垣はしばらくその横顔を見つめ、視線を正面に戻す。
「あろまは腹減ってないの?」
「……ちょっぴり」
板垣は左手で腹をさすった。父親は板垣を見て笑ったような鼻息を漏らし、ぼそりと言った。
「帰ったら何か作る」
「ありがとう」
板垣はぽつりと答えた。
床を叩く靴の音が、僅かに軽くなった。
研究棟から外に出た瞬間、外の冷たい空気が肌を刺す。それでも板垣は自分の身を抱えながら進む。
外の光は、なぜか眩しいほどに明るく感じた。




