63 責任の輪郭
研究棟の講義室に通された板垣と父親は、西尾から促された席へゆっくりと横並びに座った。
広い窓からは青空と柔らかい日差しが差し込み、父親の落ち着かない視線を余計に浮き立たせていた。
父親はパイプ椅子に座った後も、何度か背筋を伸ばしたり、浅く腰掛け直したり、不自然に姿勢を変えていた。父親の視線はホワイトボードに向かった後、謎の掲示物が貼られた壁を辿り、西尾に落ち着いた。
西尾は平たい表情で、板垣と父親の前にコーヒーが入った紙コップとスティックシュガーを差し出した。
「ありがとうございます」
父親が掠れた声で言い、手で紙コップを持ったままじっと静止した。西尾は腕を組みながら入口ドアを睨みつけ、しばらくして板垣の向かいの席に座る。座った後も何度か入口ドアをちらりと窺い、小さくため息を吐いた。
「あの、先生は?」
父親が西尾に尋ねる。
「資料の準備とか、もう少しかかるみたいで」
答えた直後に西尾は「あ」と声を出し、ドアが静かに開いた。
「お待たせして申し訳ございません。今日はわざわざお越しいただきありがとうございます」
書類の束とノートパソコンを抱えた六条が入室する。父親は立ち上がり、板垣もつられて立ち上がる。父親は書類の量を見て一瞬眉を下げた後、小さく頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
父親は微かに震えた声で言った。
六条は父親の対面の席に座り、無言のまま数秒間ほど父親の目をじっと見つめた。父親はごくりと唾を飲み、一瞬視線をテーブルに逃がす。
板垣は父親の呼吸が少し荒くなっているのを聞き取り、困ったように六条を見る。
六条は数十枚綴りの資料を父親と板垣、西尾に渡し、穏やかな声で話を始めた。
「まず最初に、板垣さんの調査の経緯と経過について説明します。とは言え、以前お話した内容と半分くらいは重複してますので、ここはざっと流しますね」
父親は硬い表情のまま小さく頷く。
六条は淡々と、順を追って実験の経過を説明した。
事件当日の板垣に起きた異変を調べることが目的だったこと。心理実験の内容と板垣の精神状態について。
父親は黙って話を聞いていた。
板垣は手元の資料のページを何度もめくったり戻したりしながら眺めていた。後ろの方のページには、実験時に板垣が『感じていたもの』が、数字や画像などのデータになって並んでいる。
紙をめくる音がうるさく響くたびに、板垣は気まずそうに肩を縮めた。
そのうちに父親の呼吸が先ほどよりも荒くなっているのを聞き取り、板垣は思わず父親の横顔を窺った。
父親の上瞼はきつく落ち、眉間は深い谷を作り、目線は六条を睨みつけている。手元の資料は全く開かれた形跡がなかった。
板垣は歯を震わせ、視線が父親と六条の間で往復した。
六条が息継ぎをした瞬間に、父親が硬い声で切り込む。
「すみません。あろまが言ってたことなんですけど。『壊す現象』って、何ですか? あろまが人を殺したって本当なんですか? 私はそこが知りたいです」
板垣は思わず息を止めた。
六条は口を開きかけていたが、一旦閉じて数秒間考え込んだ。
板垣が視線を西尾に向けると、西尾は目をぎゅっと瞑って唇を強く引き締めていた。
六条は短く息を吸い、柔らかい声で答える。
「『壊す現象』というのは……我々は便宜上『情動破壊現象』と呼んでいるのですが、これは正式な診断名や用語ではありません。板垣さんに起こったことは、前例がないものだったんです」
父親は言葉を失い、口を開けかけたまま固まった。六条は父親の様子を見ながら続ける。
「『情動破壊現象』というのは、板垣さんの感情が非常に大きく揺さぶられた時に、彼女が見ていたものが一瞬で破壊される、という現象です。そのお手元の資料にも記載されてますので、後ほどご覧になってください」
父親は手元の資料に視線を落とした。両手は握り拳を作りながらテーブルに置かれたままだった。
「また、板垣さんが『意図的に誰かを殺害した』と断定できる状況ではありません。ただし――」
父親は一瞬で顔を上げ、肩が強張る。
六条は父親を見て言った。
「先ほどの『情動破壊現象』を踏まえると……。事件当時の板垣さんの状態と、被害者の死亡状況の間に、無視できない因果関係があります。それが現時点で言える事実です」
父親の鼻息が空気を揺らした。
「……それを、娘に背負わせる気ですか?」
「彼女の意思ですので」
六条が淡々と答えた瞬間、父親は拳をテーブルに押しつけ、尖った声を放った。
「あろまはまだ高校生ですよ?」
「お父さんっ」
板垣は慌てた顔で父親を見る。父親は一瞬板垣を見た後、再び六条を睨みつけた。
六条は父親を見ながら答える。
「我々もこの問題から手を引くつもりはありません。板垣さんの『責任を負いたい』という気持ちが形になるまでは協力し、見届けようと考えています」
父親は板垣をちらりと見た。板垣は父親の目を見てゆっくりと頷いた。父親の表情がようやく緩み、正面に向き直る。
西尾が静かに続けて言った。
「警察対応も、説明も、板垣さん一人でやらせることはありません」
父親は西尾を見て、「分かりました」と小声で答えた。
「では、次に今後の流れについてですが――」
六条は話題を切り替えた。途端に西尾が立ち上がり、苦い顔で腹を押さえながら退室する。板垣が西尾を目で追うと、西尾が部屋を出る直前に一瞬だけ目が合った。
六条は不思議そうに西尾を見送った後、数十枚綴りの資料を新たに父親、板垣に渡した。
六条は今後の対応を段階に分けて説明した。
警察への再説明。学校と関係機関への共有。状況次第では第三者機関による判断も入る可能性があること。
板垣は背筋を伸ばして資料を見ながら説明を聞いていた。話の半分も理解できず、ただ重いものが喉を通って胸に落ちていった。
説明が一段落したところで西尾が戻って来る。西尾の表情は、退室した時よりも幾分か穏やかになっていた。
父親はいくつか六条に質問をしていた。父親が尋ねている内容は、制度を理解しようとしているよりは、自分の役割を確認するためのようだった。
やがて質疑も終わり、父親が深呼吸をして言う。
「今日はありがとうございました。今後も、どうかよろしくお願いします」
父親が深く頭を下げると、六条も頭を下げ、隣で西尾も一拍遅れで続いた。
六条は父親を見て穏やかに笑った。
「板垣あろまさんは誠実な人ですよ。事実を知りたいという気持ちと、そこから逃げない姿勢は、これからも持ち続けてほしいと願ってます。……きっと、お父様方の育て方が良かったんでしょうね」
父親は一瞬目を大きく開き、照れたように目を逸らして頭を掻いた。
「……娘の面倒を見てたのは、ほとんど妻の方だったので。ただ、私も最近、娘の変わりようには驚いてました。いつまでも子供じゃないんだな、と」
西尾は二人のやり取りを興味深そうに見ていた。ふと隣の板垣に視線を落とすと、板垣は俯き、耳まで赤く染まり、肩を震わせていた。




