62 現実との対峙
板垣は自宅のリビングで夕食のパスタを食べていた。テーブルの角を挟んで座っている父親は、パスタを撒きつかせて太らせたフォークを大口で頬張り、平坦な表情でテレビを見ていた。
板垣は目の前の父親の横顔をじっと見ながら、ふとパスタを食べる手が止まる。
父親はテレビから視線を外してグラスにビールを注いだ。シューっと泡立つビールをしばらく観察していたが、やがて板垣の視線に気付いた。
「あろま、どうかした?」
「あぇ……」
板垣は声を濁らせる。父親をしばらく見て、唾を飲み、声を押し出す。
「ご飯、食べ終わったら、ちょっと、話がしたいんだけど」
板垣の言葉に父親は一瞬目を開き、ビールを一気に口に流し入れた。ぐっと喉が鳴り、グラスが一瞬で空になる。
カタンとグラスを置く音が響き、父親はそのままグラスに視線を落としていた。
夕食の片付けの後、板垣はテーブルの前に正座し、父親をじっと見た。父親はきょとんとした表情で板垣を見つめ返していた。
板垣は少し俯き、テーブルを睨みつける。最初の言葉を頭の中で考えるほど、どのような形で切り出せばよいか分からない。
何も言えないまま、身体が小さく震え始めた。
父親はリモコンでテレビの電源を切り、顔だけを板垣に向けた。
「改まってどうした? 研究室で何かあった? それとも進路のこと?」
父親はやや上ずった硬い声で尋ねる。板垣は首を横に振り、顔を上げる。真顔の父親と目が合った。
板垣は振り絞るように口を開いた。
「信じてもらえないかもしれないけど、聞いてほしくて」
声が掠れる。
父親は眉をぴくりと下げ、身体ごと板垣の方に向けた。
板垣は深く息を吸い、一瞬止め、声を放った。
「私、『見たものを一瞬で壊す』っていう、症状? 現象? みたいなのを起こす体質になったみたいで」
父親の表情が固まる。そのまま父親は何も言わずに板垣を見ていた。
板垣は父親を見つめたまま話を続ける。
「私が研究室に通ってたのも、それが関係してたんだけど」
「待て、研究室に行ってたのは、あの事件の調査ってことじゃなかったか?」
父親は食い気味に尋ね、板垣は口をぎゅっと閉ざす。
板垣は父親から視線を外し、正面にある暗いテレビ画面を見つめた。頭がズキズキと脈打つ音が耳鳴りのように襲いかかり、身体のあちこちに汗が滲む。
板垣は父親に向き直り、汗ばむ拳をゆっくりと握りしめて答えた。
「あのね。私、この『壊す現象』で……沼野くんのこと、殺害してたみたいで」
板垣の言葉が止まる。
父親は目を見開き、口をまっすぐ閉じたまま板垣を見ている。
空気がまるで呼吸を止めたようにぴたりと固まり、秒針の音だけがリビングに響く。その音が数十回ほど鳴ったところで、父親が肩を上げて息を深く吸った。
「……殺害、した? あろまは無実だったんじゃないのか?」
「研究室で調べたら、『壊す現象』が起こる条件とか、いろいろ分かったの。それで、事件の時に、私が、沼野くんのことを同じように――」
父親の表情が次第に変わり、板垣は思わず口を閉ざした。
大きく開かれた目、怯えた獣のように揺れる視線。
“得体の知れないもの”を見る顔。
その顔が、事件当日の母親の表情と重なった。
板垣は父親の顔をじっと見ながら、静かに続ける。
「わざとじゃなくて、事故みたいな感じ……なんだけど。でも、私が原因で、人が……」
父親は何も答えずに板垣を見つめ返す。父親の肩が小さく震えているのに気付き、板垣は思わず拳に力を入れる。爪が手のひらに強く食い込む。
「だから、改めて、警察に、説明しようと思ってる。私がやったことを……なかったことにしながら、生きていくのは、無理だから」
父親は肩を上げたまま顔を強張らせ、か細い声で尋ねる。
「それは、あろまが決めたことなの?」
板垣はすぐに頷く。
「私が決めたこと。大学の先生にも、もう伝えてある」
父親は震えた息を吐き、右手で頭を抱えた。父親の目線はテーブルに向かい、右手は落ち着かない様子で何度も頭を掻きむしっていた。
板垣はやや怯えた顔で父親を見つめ、小さく口を開けて何かを言おうとして、何も言えずに閉じた。次第に板垣の頭がずるずると下に落ち、視界にはテーブルに落ちた影が広がった。
父親は頭から手を離し、ゆっくりと頭を上げて板垣の方を向いた。
「まだ、あろまの言ってることがよく理解できてないんだけど。……俺に、してほしいことってある?」
板垣はびくりと顔を上げ、父親を見る。
「……私が決めたことを、止めないでほしい」
「うん」
「でも、お父さんには、ちゃんと分かってもらった上で、止めないでほしいから。まず、大学の先生も交えて、今後の進め方について話をして……その後に学校の先生にも相談しようと思ってる」
父親は困惑混じりの顔で小さく頷く。
「うん」
板垣はようやく握りしめていた両手を開放した。身体中に汗と熱気が籠り、思わず立ち上がってばたばたとキッチンに駆け込む。コップに水を注ぎ、その場で一気に飲み干した。冷たい水が喉を通り抜け、深くため息を吐く。呼吸を取り戻したような感覚だった。
板垣がリビングに戻ると、父親はテレビを見ていた。その横顔はいつも見ている姿と変わらなかった。
板垣は父親の斜め後ろにそっと座り、テレビをぼんやりと見始めた。
ふと目の前の父親が板垣を振り返り、平然とした表情で口を開いた。
「あろま、前と変わったな」
「ほえ?」
板垣は目を見開いて父親を見る。父親の顔は笑っていなかったが、目尻が少し下がっていた。
「そう、なのかな。私は分かんない」
板垣は困ったように目を逸らし、小声で答えた。
リビングのテレビから落ち着いたキャスターの声が流れ始めた。
「次のニュースです」
板垣の肩が僅かに強張った。
父親は特に気にする様子もなくテレビに視線を戻した。板垣は音を立てないように身じろぎして、テレビ画面から目を逸らしていた。




