61 そこにあった記録
板垣は研究室の学生居室に足を踏み入れた。窓からは日が落ちて青黒い空が見え、空調が静かに呻っていた。
板垣は胸の奥から何かが緩むような感覚がしていたが、口を固く閉ざし、足を進める。
六条は西尾のデスクに直行し、板垣も続いた。西尾のデスクの上には胃薬の箱と空になったマグカップが放置されていた。
西尾が板垣たちの前に出て、デスクの上のパソコンを起動する。西尾は手慣れたようにパソコンを操作して、板垣の実験関連のフォルダーを探し当てた。
「ここのデータ、全部コピーするんですか? 開くときに専用のソフトが必要なのもあるんで、動画とCSVとエクセルのファイルだけでいいすかね」
西尾は眉を寄せて六条に尋ねる。六条は「全部」と短く答えてポケットからUSBメモリを取り出し、西尾に渡した。
「あ、全部、ですか。はい」
西尾はUSBメモリを差し込み、困ったように深く息を吸った。
「USBメモリのパスワードは西尾くんの学籍番号下3桁を二乗した数だから」
「…………把握しました」
西尾は淡々とパソコンの操作を続ける。その背後で板垣は黙ったままパソコン画面を見守っていた。
板垣が目を凝らして画面を見ると、フォルダーの中には様々な形式の膨大な量のファイルが並んでいた。『最新v2_修正』、『最新の最新』、『本物の最新版』というファイル名に、板垣は小さく首を傾げた。
西尾はふと手を止め、板垣を振り返った。
「これにデータ入れるの、板垣さんが、やる?」
「ほえ?」
板垣はぽかんとして西尾を見つめる。
西尾は口角を緩く上げて手元のマウスをトントンと指さした。
板垣は小さく頷き、ゆっくりと前進して西尾の隣に立つ。そのまま西尾に促されてマウスに手を置き、ぎこちない手つきで操作した。
「ここにあるやつ全部コピーペーストでいいから」
西尾はぼそりと言い、パソコンの画面を見守る。
板垣が指定されたデータをUSBメモリに移した瞬間、マウスに置いた手から力が抜ける。板垣は画面に映る進捗バーがゆっくりと伸びていくのをまっすぐ見つめていた。
隣で西尾が深く息を吐いた。
「重いな」
「……重い、ですね」
板垣は思わず答える。
長い時間をかけて進捗バーが少しずつ伸びていく。
やがてデータのコピーが完了し、板垣は恐る恐るUSBメモリをパソコンから取り外した。手のひらに収まるUSBメモリをしばらく茫然と見つめた。
西尾が板垣の手元からUSBメモリをつまみ取った。
「これ、どうしよっか。板垣さんに預かっててもらうか? ……あ、先生、データ入れたUSBどうします?」
西尾が振り返ると六条の姿が消えていた。西尾は困惑した顔で部屋を見渡す。
「は、いつの間に。先生の部屋に戻った?」
西尾は呆れたように深くため息を吐き、首を横に振って板垣の方を向いた。
「板垣さん、この部屋に忘れ物とかない?」
「はい」
板垣は返事をしながら居室を見回した。まっさらな状態の板垣のデスクを見て、何度か瞬きをする。
「私物はここに置いてないので、大丈夫です」
板垣はその場で鼻から深く息を吸い込んだ。コーヒーと薬品が混ざった匂いの中に、微かに甘い匂いを感じる。
視界に入ったのは、計算式が書きかけのホワイトボード、デスクに放置されたセンサーの一部、壁に貼られた落書きだらけの予定表。予定表には『板垣さん』の欄が汚い手書きで加えられていた。
入口付近のデスクを見ると羊羹の大箱が置いてあり、一瞬視線が止まる。
それはいつも見てきた風景だった。
目を閉じれば、今にも学生たちの声やパソコンのタイピング音が飛び交うような気がする。
自ら手放すにはあまりにも惜しい、――私の居場所。
ここでは、普通に呼吸ができた。
ここでは、なぜか安心できた。
『異物』であるはずの私が、『人間』として生きていられた場所。
ここを出たら、もう戻れない。
そのことを理解していた。
目が熱くなり、視界がぼやける。
板垣はしゃくり上げるような呼吸を噛み殺し、静かに俯いていた。目からは涙が溢れて止まらず、肩が不規則に震える。
板垣は滲む視界の中に西尾のような輪郭を捉えた瞬間、思わず手を伸ばし、そっとしがみついた。
「西尾さん、すみません」
板垣の口から震えた声が零れ、直後に優しく背中をさすられた。
板垣は顔を押し付け、声を押し殺しながら泣き続けた。
ようやく涙と呼吸が落ち着き、板垣が腕の力を緩めた瞬間、頭上から柔らかい声が落ちた。
「板垣さん、大丈夫? 西尾くんから何かひどいこと言われた?」
「!?!?! ほぅぁあ!!」
声に驚いた板垣は思わず目の前の六条を突き飛ばした。心臓がバクバクと鳴り、全身に汗が滲む。直後、板垣は六条を見て慌てて手をばたつかせた。
「ぁあ? 先生、なんで……? というか、ふっ飛ばしてすみません……!」
板垣は赤らんだ目を見開き、周囲をきょろきょろと見回した後、西尾を軽く睨みつける。
「なんで、西尾さんも黙ってたんですか!?」
板垣の鼻声が響いた。
「え、なんか口挟むの気まずかったから」
板垣は頬を小さく膨らませ、すぐに顔を下に落とした。
西尾は鼻からふっと笑いを漏らし、六条に尋ねる。
「ファイルのコピーは終わったんすけど、このUSBどうします? 板垣さんに預けてもいいですか?」
六条はじっと板垣の様子を見つめ、さらりと答えた。
「そうだね。板垣さん、USBの管理をお願いしてもいいかな?」
板垣は目を丸くした。
「……はい」
西尾はにやりと笑って板垣に歩み寄る。
「じゃ、よろしく」
西尾からUSBメモリが手渡された。手のひらに落ちたUSBメモリはあまりにも軽く、一瞬板垣の胸を不安が掠める。
板垣の胸中を察したのか、西尾は板垣の目を見て言った。
「これからも警察への対応とか、しばらくは俺たちと一緒にやってもらうから」
「……はい」
板垣は少し表情を緩めて頷いた。
六条が顎に手を当て、板垣を見て口を開く。
「これからの流れだけど。まずは板垣さんの親御さんにもこの件は相談して、今の状況と今後の方針を共有しないといけないね」
板垣の背筋が伸びる。
「……はい。あの、実はまだ、父には何も……」
西尾がごくりと唾を飲んだ。板垣はちらりと西尾を見た後、六条に見直った。
「私から、父に、説明、します」
板垣の声は震え、膝も小刻みに震えていた。
西尾は板垣を見つめて小さく笑う。
「お父さんに説明できる? もし困ったことがあったら、俺たちも協力する」
板垣は西尾を見て、鼻声で答える。
「まずは、私が、頑張ってみます」
目の前の西尾は小さく頷いた。
板垣は右手で握り拳を作り、唇をぎゅっと結ぶ。目を閉じ、自分の心を奮い立たせるように、背筋を伸ばして立っていた。




