60 答え
板垣は大学の研究棟に着くと、西尾に連れられて六条の居室へと向かった。廊下に鈍い足音が響き、板垣は足元を見ながら進む。時折、前を歩く西尾がちらりと振り返っていた。
やがて足音が止み、二人は居室のドア前で立ち止まる。ドアを開ける前に、西尾が板垣を見た。
「今日は、実験じゃなくて話をしようって先生も言ってたから。この前の物理現象の解明を進めるかどうかって話とか」
板垣はごくりと喉を鳴らす。
「はい」
短く返事をして西尾を見上げると、西尾は小さく頷いた。
「俺は板垣さんの味方だから。板垣さんが考えてることは出来る限り尊重するつもり。だからさ、板垣さんが本当はどう思ってるのかを教えてほしい」
西尾は言い切った後に俯き、乱暴にドアを叩いて開け放った。
「失礼します。板垣さん連れてきました」
西尾の声は微かに震えているように聞こえた。
「失礼します」
板垣も続いて居室に足を踏み入れる。居室の中ではコーヒーの匂いとチョコレートのような甘い匂いが広がり、板垣は思わず鼻から深く息を吸い込んだ。
「いらっしゃい。そこに座って」
六条はいつも通りの柔らかい笑顔で板垣を迎え入れ、デスク脇の椅子を指した。デスクには口の開いたチョコレートの大袋が置かれ、板垣はそれをじっと見つめながら椅子に座る。
板垣の目の前に、紙コップ入りのコーヒーが差し出された。
「外寒かったでしょ。温かいのでも飲みながら話そう」
六条は緩く笑いながらデスクのチョコレートを摘んだ。隣に座る西尾は表情を少し曇らせながら、目線だけを板垣に向けて小さく微笑む。
「……ありがとうございます」
板垣は軽く一口コーヒーを啜り、深くため息を吐いた。口元から熱い湯気が吐き出され、宙に浮かんでいく。
板垣はゆっくりと顔を上げる。
「あの」
板垣は六条を見て言う。隣で西尾が勢いよく板垣の方を向く。
板垣は大きく息を吸い、しばらく溜めて、口を開いた。
「砂糖とミルクください」
六条は目を丸くして一瞬固まった後、板垣の前にスティックシュガーとミルクを差し出した。板垣は小声で「ありがとうございます」と呟き、砂糖とミルクを雑にコーヒーへと注いだ。
隣では西尾が無言でコーヒーを飲みながら、板垣の様子を窺うように目配せをしていた。
板垣は再びコーヒーを一口啜り、浅く息を吐く。
――こんなことで時間を稼いでいる場合じゃないのに。
唇が重い。頭の中が熱くなり、鼓動がズキズキと鳴っている。
思いが言葉にならずに、ごちゃごちゃに混ざる。
板垣は隣から西尾の視線を感じながら、俯いて考えを巡らせた。何度か唇を開きかけるが、何も言えずに息だけを吐き出して口を閉ざしてしまう。
そのまま数分経っただろうか。居室は静寂に包まれ、時々西尾がコーヒーを飲む音と六条がチョコレートの包装を開けて食べる音だけが聞こえていた。次第に西尾はコーヒーを飲むことすら躊躇うようになり、パキパキとチョコレートを頬張る六条を睨みつけていた。まるで一触即発のような空気感に、板垣は身体を竦めて六条と西尾を交互に見ていた。
六条が口を開く。
「板垣さんは、情動破壊現象の解明まで踏み込むつもりはない、と考えているのかな?」
板垣の心臓が大きく鳴り、背筋を伸ばしたまま固まった。隣で西尾も同じように固まっていた。六条は穏やかに微笑んで板垣を見ていた。
板垣は口を小さく開け、何度か呼吸を繰り返した。どうやって返せばいいのか、返答を考えるほど分からなくなってくる。
「……すみません」
やっと口から出た言葉は、それだけだった。
「謝ることじゃない」
西尾が答え、コーヒーを多めに啜る。
板垣は膝の上で拳を握り、唇を噛んだ。ちらりと西尾を見ると、西尾は何か言うことを考えているように見えた。
板垣はごくりと唾を飲み、ゆっくりと六条に目を遣る。六条は板垣を見て目を細めて笑い、チョコレートを渡した。
「実験が辛くて、もう続けたくないと思ったのかな?」
六条の問いを聞いた瞬間、板垣はチョコレートを握りしめて首を横に振った。
「違います。辛くなったから止めたいわけじゃありません。私が多少辛い思いをしてでも、この現象は解明すべきだと思ってます。……でも」
隣で西尾が唾を飲む。
板垣は拳を握る力を強める。
「でも、このまま進むと、私は被験者として守られ続けます。この現象で……人の命を奪ったのに」
六条の表情が硬くなる。
板垣は自分の握り拳を見ながら続けた。
「私は、沼野くんの命を奪って、彼の遺族や友人のことも傷つけたんです。まずは、その罪を償う必要があると、思ってます。いや、そうさせて欲しいんです」
「ですから、先生方にお願いしたいことは、あの事件の時に私に起こった現象……私が沼野くんの命を奪った現象を説明するためのデータを、提供してください。お願いします。……それを持って、今度こそ、警察に説明します」
板垣の声は震えていた。声だけでなく、肩や膝も小刻みに震え、それが緊張のせいなのか寒さのせいなのか分からなかった。
板垣は震える手でコーヒーの紙コップを包み込む。指先に微かな温度を感じながら、一度深呼吸をする。
「私が罪を償った後、やっぱりこの現象についてもっと知りたいと思ったときは……そのときは、またこの部屋のドアを叩きたいと、思ってます」
板垣はようやくチョコレートを口に入れた。味がよく分からなくなり、温くなったコーヒーを一気に口に流し込んだ。空になった紙コップを強く置き、カタンと音を立てた。
「俺は板垣さんの思いを尊重しますよ」
西尾がはっきりと言った。
「彼女はもう自分自身で情動破壊の制御ができる。ならば現象の解明は必須ではありません。板垣さんが、事件の責任を負う方が優先だと考えているなら、俺は……」
西尾の声は尻すぼみに消える。板垣が西尾の方を向くと、西尾は顎に手を当てて、歯を食いしばるようにして考え込んでいた。
板垣はちらりと六条を窺った。六条は真顔でじっと話を聞いていたが、板垣の視線に気付いた途端に柔らかく笑った。
「板垣さん」
「はい」
一瞬の沈黙が生まれ、三人とも息を止める。
六条は穏やかに尋ねる。
「コーヒーのおかわり要る?」
板垣は目をぱちくりさせてぎこちなく頷いた。
その隣で西尾がずるりと頭を落とし、大きくため息を吐いた。
しばらくして板垣の前に湯気の立ったコーヒーとスティックシュガーとミルクが出された。板垣はぼんやりとコーヒーの湯気を見つめた後、六条に向き直る。
「ありがとうございます」
そこから板垣は言いにくそうにしばらく口ごもり、再び口を開く。
「あの、先生は、私たちの話聞いてましたか?」
六条は頷いた。板垣はほっと息を漏らし、コーヒーに口をつける。
六条は手を組んでしばらく板垣の様子を見た後、ゆっくりと話し始めた。
「厳しいことを言うけど、聞いてね」
板垣の身体が固まり、ごくりと唾を飲む。
「まず、板垣さんがやろうとしていることは、制度に基づいて、検察官や裁判官に板垣さんの責任の取り方を決めてもらうってことなんだよ。板垣さんが望んだ通りの形で責任を取れるとは限らない。板垣さんが、あるいは被害者遺族や友人が、もしかすると全員が納得できない結果もあり得る」
板垣の目線が下に滑り落ちた。冷や汗で全身が冷たくなり、膝が震える。
六条は板垣を見ながら続けた。
「それに、もし板垣さんがあの事件の自首をすることになれば、また世間を敵に回す可能性があるよ。あの時以上に、彼らは板垣さんを追い詰めるかもしれない」
板垣の脳内に『あの時』の記憶が溢れる。周りから向けられた好奇の目線、雑誌やインターネットに並ぶ自分の名前、学校での噂話、自分を避ける生徒たち。
板垣は歯を細かく鳴らし、肩をぷるぷると震わせていた。
「先生」
西尾が苛立った声で言い、デスクを手のひらで叩きつける。西尾の目は板垣と六条を交互に捉え、やがて板垣を見つめた。
板垣は不規則に呼吸を繰り返し、膝の上で拳を握りしめた。手汗で指先が滑り、何度か手を握り直す。
六条は柔らかい声で続けた。
「私は板垣さんの決意を止めようとしている訳じゃない。またあの時と同じような地獄に落ちる覚悟はあるのかを聞いてるんだよ」
板垣が顔を上げて六条を見ると、六条は板垣の目をじっと見ていた。その視線に頭の中まで覗かれているような感覚がして、板垣は一瞬目を逸らす。
板垣は再び六条を見て、声を絞り出した。
「あの時と今は違います。あの時は、私自身に何が起きたか分かりませんでした。でも今は、私がやってしまったことと、同じ過ちを犯さないことを分かっています」
板垣の声は震えていたが、はっきりとしていた。
「私がやってしまったことを考えれば、世間が敵になることは、当然だと思ってます。怖い気持ちはあの時と変わらないですけど……一人で受け入れるべき責任、だと、思ってます」
板垣は再び足元に視線を落とした。
「一人で受け入れるつもりなの?」
隣から西尾の低い声が落ちて、板垣は顔を上げる。
「俺は板垣さんの味方だって言ったじゃん。あの時と違って、俺もいるよ。……まあ、だからと言って結果が変わるのかは分からないけど」
西尾はまっすぐ板垣を見ていた。板垣は口を強く結んで西尾の目を見返す。しばらく西尾を見つめ、小声を発した。
「……西尾さん、ありがとうございます」
「ん」
西尾は目だけ柔らかく笑い、口元を引き締めた。
六条は小さく頷いた。
「うん。板垣さんに今までの実験データを渡すよ。ただ、測定方法やデータが示していることとか、板垣さんが一人で全部説明するのは難しいと思うから」
「それは、俺がやります」
西尾が間を入れずに答える。板垣は目を丸くして西尾を見た。
「じゃあ西尾くんにはそのあたりのサポートをお願いするか。実験データの出し方については私の方でも知り合いの弁護士に聞いてみるよ」
板垣は不安げに六条と西尾を見つめる。
「あの、お二人にこれ以上迷惑を掛けるわけには……」
西尾の手が板垣の口元を遮る。
「板垣さんが、生きていけるように。……やったことを償わないと生きていけないけど、ひとりで全部背負うと潰れちゃうでしょ」
「んぅ」
板垣の口から濁った声が漏れ出た。西尾はしばらく困ったように笑いながら板垣を見た。
納得いかない顔をしたままの板垣を見て、六条が宥めるように言う。
「板垣さんが自分に起こったことを正しく説明できるように、手伝うだけだよ。あと、板垣さんは自分を許せていないんだろうけど、守られることを悪いことだと思わないで欲しい」
板垣は頷きもせずしばらく足元を見つめていた。その様子を西尾が見て、板垣の背中を軽く叩く。板垣はびくりと背筋を伸ばして顔を上げた。
「じゃあ、データを取りに行くか」
六条が立ち上がり、西尾が小さく息を吐いた。板垣も勢いよく椅子から立ち上がり、六条の後に続く。
西尾はゆっくりと立ち上がると、ぐぐっと背伸びをした。
板垣がドアに向かう途中、デスクのパソコンに表示された英文が目に入り、軽い頭痛を覚えた。パソコン脇にある未開封のチョコレートの大袋や羊羹の箱に目が移り、思わず喉を鳴らす。
――そういえば、ここに初めて来た時も、こんな感じだったな。
板垣は何も言わずに、視線を切って歩き出す。
膝はまだ少し震えていた。




