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59 未来の教育者

 西尾は軽い頭痛とふらつきが治らないまま、居室のデスクに向かっていた。水が並々と入ったマグカップを手に取り、勢いよく飲む。空になったマグカップでデスクを鳴らし、西尾は大きくため息を吐いた。アルコールとタバコの混じった臭いが辺りに広がった。


 西尾の隣の席の学生が尋ねる。

「西尾さん体調悪いんですか?」

「……昨日飲みすぎたかも」

「G-Dテックの飲み会ですか? 最近多いですね」

「そ。まあ飲み会の後も色々あって、結局帰った後も一人で飲んだ」

 西尾は気だるげにスマートフォンを起動する。G-Dテックの部長からのメール通知が目に入り、すぐに視線を逸らしてスマートフォンをロックした。

「西尾さんが二日酔いって珍しいですね。まあ、あまり無理しないでください」

 学生は引き気味に西尾を見て呟き、パソコンに向き直った。


 ノック音の直後、居室のドアがゆっくりと開く。

「西尾くん。来年度から講義やってくれない?」

 居室の入り口から六条の声が飛んでくる。西尾は背筋をびくりと伸ばし、大きく息を吸った。

「講義……? なんの?」

「文学部向けの心理統計学。今まで私が受け持ってたんだけど、西尾くんも学生に教える経験しておいた方がいいかなって。もちろん給料も出るよ」

 六条がふわりと笑っているのを見て、西尾は眉間に皺を寄せて俯いた。視線の先にすっとノートが差し出される。

「講義内容。西尾くんなら楽勝だと思う。ちょっと見ておいて」

「いや、俺まだやるって言ってないですけど」

「来月末まで返事待つよ」


 西尾は深くため息を吐いて、ノートを開いた。馴染みのありすぎる単語や数式が並び、思わずふっと笑いが漏れる。しかしページの隅に書かれた明らかに関係のない化学構造式を見た途端に、西尾は顔をしかめた。

 ページを進めると、知らない心理学の専門用語のようなものやその用例、謎の研究に関するメモが並び始める。それはレクチャー内容というよりは、走り書きのメモのように見えた。

「は? これも俺が心理の学生に教えるんすか? せんせ」

 西尾が言いながら顔を上げると、六条は居室から姿を消していた。


 いつの間にか隣の席の学生が一緒にノートを覗いていた。

「西尾さん、心理統計教えるんですか?」

「いや無理でしょ。なんで専門外の内容まで教えなきゃいけないん」

 西尾が困惑していると、学生は笑い出した。

「多分それ、先生が授業中に学生から教えてもらったやつですよ。……てか、学生に講義させてるって話、マジだったんか」

「あえ? それ職務放棄じゃね?」

「確かに。でも心理学科の友達が言ってたんですけど、教授たちからは謎に評判良いらしいんですよね。先生がこの授業持ってから卒論の質が上がったとか」

 西尾は目を瞬きさせた。

「え、じゃあ俺、講義代わらない方がよくない? 毎週あっちのキャンパス行くのだるいし」

「本音ダダ漏れですよ」

 学生は苦笑した。


 西尾は深くため息を吐き、ノート片手に居室を出た。苛立ったように廊下を進み、次第に足を早める。六条の居室の前に着くと乱暴にドアを叩き、直後にドアを開け放って部屋の中に飛び込んだ。


「先生、講義の件は断ります」


 西尾が六条を睨みつけて言う。六条は羊羹を食べながら西尾を見て柔らかく笑い、チョコレートの個包装を差し出した。

「……羊羹ばっかり食べてないでタンパク質も摂って下さい」

 西尾はぼそりと言って講義ノートを六条の前に突き出す。


「これ、不要なので返します。なんか先生の講義の評判いいらしいじゃないですか。学生の卒論の質が上がったとか。俺が代わったら勿体ないです」

 六条は目を丸くして西尾を見る。

「学生の質が上がっただけでしょ」

「んえ?」

 西尾は戸惑ったように六条を見て、喉を鳴らした。


「……でも、職務放棄はちょっといただけないですね。先生の授業なのに心理の学生に喋らせてるって聞きましたけど。なんかこのノートにもそのメモっぽいこと書いてありましたし」

「シラバスの内容はちゃんとやってるよ」

 六条は両手を小さく挙げて弁解するように言った。

「心理学に関しては、私なんかより受講してる学生の方が詳しいんだから、色々と教えてもらういい機会なんだよね。教員と学生の立場なんて関係なくて、学べる相手からは吸収したいから」


 西尾の手元でチョコレートの個包装がくしゃっと鳴った。西尾は何かを言いたげに一瞬口を開き、静かに閉じる。


 六条はちらりと西尾を見上げ、講義ノートを西尾の前に突き返した。

「私は西尾くんが『こっち側』に進む気持ちが少しでもあるのかと思って、教育者としての経験を積んでもらういい機会だと思ったんだけど。見当違いだったのかな?」


 西尾はチョコレートの個包装を開ける手を止め、六条を見て何度か瞬きをする。

「進路のこと、先生に相談したことありましたっけ? 俺は……」

 西尾の声が途切れる。頭がゆっくりと下がり、眉間に皺を寄せて顎下に手を置いて考え込んだ。


 六条は椅子から立ち上がって西尾の顔を覗き込む。

「G-Dテックの部長からのメール見た? 私から推薦状書けば、西尾くんの3年後の入社を確約するって話だったけど、どうする?」


 西尾は勢いよく顔を上げる。六条はにやりと笑い、チョコレートの個包装を開けて口に入れた。

 西尾も手元の個包装を開けてチョコレートを食べる。口の中の甘さに一瞬表情を緩ませ、そのまま目を伏せる。


 西尾はチョコレートを飲み込んだ後、ゆっくりと目を開き、深呼吸をして口を開いた。

「俺は他にやりたいことが出来たので、G-Dテックの提案は蹴ります」

 六条は微笑みながら小さく頷いた。


 西尾は六条に顔を近づけて睨みつける。

「先生はさっき、立場に関係なく学べる相手からは吸収したいって言ってましたよね」

 六条は何度か瞬きをして小さく頷く。


「だったら、研究者以前に人として、他人を人間として尊重できるような倫理観を学んでくださいよ。……俺が教えるんで」

「ほえ?」

 間抜けな声を漏らす六条を横目に、西尾は講義ノートを拾い上げて居室の出口に足先を向ける。足を踏み出しかけて立ち止まり、西尾は振り向いてぼそりと言った。


「だから、就職の話は断るんです。後輩や未来の研究者たちのために、まず人としてしっかりしないといけないし、させないといけない。それが俺がやるべきことだと思ってます」

 返事はなかった。西尾は一度目を伏せて深く息を吐き、ぼそりと続ける。


「板垣さんのこともそうなんすけど。科学的に知ろうとするほどに、対象を本来の姿から歪めてしまう。俺たちは、その難しさと向き合わないといけないんじゃないんでしょうか」


 西尾は六条を一瞥してドアに向かった瞬間、六条がぽつりと言った。

「そうだなあ。板垣さんは私を拒絶しているみたいだし」


 西尾は立ち止まる。左手の中でチョコレートの包装紙が大きく鳴り、呆れたような鼻息が漏れる。

「何か心当たりは? まさか無いなんて言わないでくださいよ」

 西尾がドアに顔を向けたまま冷たい声で問いかけると、数秒の間を空けて六条が答えた。


「彼女に対して心身共にダメージを負わせたことと、彼女の友人に理解を得られないまま実験を続行していたこと、その上で板垣さんに実験をもう一段階進める提案をしたこと、かな」


 西尾は目を丸くして六条を振り返る。

「……意外と自責あったんすね」

「こう見えて結構落ち込んでるんだよ」


 西尾の目が鋭くなり、六条を睨みつける。

「それは、『これ以上データが取れないから』ですか?」


 六条はしばらく黙り込み、右手で顎を抱えた。

「そうかも、しれない、な……?」

 六条の返答に違和感を覚え、西尾は眉を寄せる。六条の表情を覗き込むと、重く下がった瞼の下から諦めの混じった視線が細かく揺れていた。

 西尾の眉間の皺が緩み、呆れたように一度息を吐き、重々しく口を開いた。


「俺は、板垣さんが人として壊れないように、なんとかしたいと本気で思ってましたよ」

 西尾は深く息を吸い、棘のある声で続ける。

「あなたとは違って」


 六条は西尾を見て柔らかく笑った。

「西尾くんはまっすぐで優しいね」

 西尾は前髪を掻き上げて小さく舌打ちをした。


 西尾は居室のドアに向かって歩き、ドアの前で立ち止まる。前を向いたまま、低い声で言った。


「あと。板垣さんが先生を拒絶してるのは、別に先生のことが嫌になったとかじゃないと思いますよ。彼女が自分の進みたい方向が見えて、敢えて先生から離れる選択をしてるんじゃないすかね」


 西尾は静かにドアを開けて居室を出た。右手に抱えるノートを強く握りしめ、廊下を重々しく踏みしめる。

 廊下に足音が響き、その中心で深いため息が吐かれた。



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