58 祈りはどこへ向かっているか
翌朝、板垣は登校して静かな教室に入った。
時計は朝の7時30分頃を示していた。
重たげなリュックを机に置くと、ドスンと鈍い振動で机が小さく揺れた。同時にリュックに付けられたカワウソのストラップも振り回された。
教室の窓からは白い曇り空が見え、校庭から野球部の掛け声がぼんやりと聞こえる。
板垣は何度かあくびをしながら椅子に座り、机の上のリュックを抱えるようにうつ伏せた。机の冷たさにびくりと肩が縮み、思わずカワウソのストラップを手で包み込む。
昨晩の、早坂の泣き顔と怒ったような声が頭の中から離れない。
少しでも触れれば壊れてしまいそうだという確信。
自分が言い放った『もう何もしなくていい』という言葉のせいで、早坂を深く傷つけた。
どう話せば誤解は解ける?
まずは傷つけたことを謝った方がいい?
話せば、元通りの関係になれる?
なぜかその悩みが無意味に思えていた。それは、なんとかなるという前向きなものではなく、もうどうにもならないという闇のような予感だった。
一つだけ、板垣の中で分かっていることがある。
――るみを壊したのは土山じゃない。私だ。
胸の中に沈んでいる重い予感を無理やり奥へと押し込めた。
カワウソのストラップを指で弄びながら、黒板をぼんやりと見つめる。
教室の静けさに、ほっとするような、落ち着かないような、胸の奥がよじれるような感覚が走る。
視界が次第にぼやけていった。
「あろまん、あげる」
振り向くと早坂がニッと笑い、ココアの紙パックを板垣の前に置いた。
板垣はきょとんとして早坂とココアのパックを交互に見つめる。窓からオレンジ色の光が机に差し込み、ココアのパックを暖色に照らしていた。
「……どうしたの、急に」
「飲みなよ。あろまん、疲れてそうだし。ずっとおでこにシワ寄ってる」
板垣は驚き、小さく息を吐いた。
「ありがとう。気遣わせてごめん」
早坂は肩を竦めて笑い、ミルクティーのパックを取り出して飲み始めた。
板垣もつられるようにココアを飲み始める。甘みはそこまで感じなかったが、安心感が喉の中をゆっくり落ちていった。
「ねえ」
早坂が空のパックを畳みながら軽い声で呼び掛ける。
「これからいつもの店行かない?」
「あ、いいね。予定ないし」
板垣は何も考えずに即答した。
「駄弁りながら、一緒に課題でもやろう」
早坂は優しく笑い、リュックを背負った。リュックに付いたカワウソのストラップがご機嫌のように振り回された。
目の前に早坂の手が差し出される。
板垣は迷いもせずにその手を取った。
「あろまん手ぇ冷たっ!」
早坂は笑い混じりに叫び、板垣の手を揉み込むように触った。板垣の手が温かくて柔らかい感触に包まれて心がくすぐったくなり、思わず笑うような息が漏れる。
「教室まともに暖房ついてないじゃん。こんなとこにいれば手先冷えるって」
板垣は頬を小さく膨らませて愚痴るように言い、早坂は宥めるように笑っていた。
やがて早坂に手を引かれ、身体が密着するくらいに肩を寄せられる。
「こうすれば、寒くないでしょ」
早坂の息がかかる距離感に、板垣の心臓が一瞬跳ねる。
耳が熱くなり、板垣は思わず俯いた。
早坂は冗談混じりに言った。
「……ずっとこうしてたいな」
板垣は無意識に数秒ほど呼吸を止め、小さく息を吐いた。
「……あったかい。けど歩きにくい」
「はいはい」
早坂の身体がわずかに離れ、板垣は思わず早坂の手を強く握る。いつの間にか二人の手の温度が同じくらいになっていた。
早坂に手を引かれて教室を出る。西日が差した廊下を小走りで駆け抜けた。
不思議と、心の奥まで温かかった。
チャイムが鳴った。
板垣は半目を開けた瞬間、冷たい空気が身体を包み、指先まで痛むほどの冷えを感じた。つい先ほどまであったはずの温もりが嘘のように消えていた。
目の前で開きかけた手は虚を掴み、視線を上げてその先の時計に焦点を合わせていく。
時計は8時25分を指していた。
板垣は勢いよく飛び起き、机に置きっぱなしのリュックを持ち上げて脇に掛ける。その最中、隣に座る早坂を視界に捉えた。
早坂は机に突っ伏し、板垣に気付かないままスマートフォンと向き合っていた。その横顔は、板垣をまるで存在しないものと語っているようだった。
――何か言わなきゃ。
その一瞬が、時が止まったように長かった。
板垣は口を開きかけた。
その瞬間。
「おはよー。出欠取るよ」
板垣の声は喉を通る前に、担任教師の声に押し潰された。
授業が始まってからも、板垣はぼんやりと黒板を眺めていた。ペン先がノートの上を滑りながら引っ掻いていく。目は黒板の文字を追っているつもりでも、視線は何度も左へと寄る。
視界に映る早坂は、前を向いたままじっとしていた。時々ペンの動きが不自然に止まるが、板垣の方を振り返る気配はなかった。
――今、話しかけたら。
そう思う度に、板垣は肩を竦めてペン先をノートに押し込む。ノートには所々ペンが彷徨った形跡や小さな穴が出来ていた。
昼休み、廊下のスペースで和田と加藤、余部の声がいつも通り弾んでいた。
「英語の最後の長文意味わからんかった」
「それな、あれ日本語おかしいって」
「いや日本語じゃなくて英語だから」
笑い声が上がるたびに、板垣の箸は止まる。瞼には不自然に力が入り、口から乾いたような笑い声が漏れ出る。視界の端で、早坂は黙ったまま、箸で弁当の隅を突いていた。
板垣は困ったように笑いながら、何度も早坂の横顔を窺った。早坂の眉の動き、口元、箸の持ち方。どれも普段通りだが、目だけは板垣を見ようとしていなかった。
話しかける隙を探るように、板垣は和田たちの話に耳を傾けながら、早坂を観察し続けた。
ふと会話が途切れ、板垣はちらりと早坂を見た。
一瞬、早坂と目が合う。
――今だ。
板垣は口を開きかける。しかし、言葉が喉の奥で引っかかったまま動かなかった。
放課後のチャイムが鳴り、生徒たちがぱらぱらと立ち上がる。板垣はリュックを抱え直し、早坂の背中を追った。
「……るみ」
声を掛けると、早坂は一瞬だけ足を止めた。
「昨日は、ごめん」
板垣は視線を落としたまま言った。早坂の泣き顔を思い出し、胸の奥がきゅっと縮む。
早坂はしばらく黙ってから、短く答えた。
「……私もごめん」
そして、ぶっきらぼうに続ける。
「一緒に帰ろ」
板垣は小さく息を吐いた。
「うん、駅まで。これから大学の研究室に行くんだ」
早坂の表情がすっと抜け落ちる。そこには驚きも怒りもなく、ただ何かを諦めたような顔だった。
「そっか」
早坂は板垣から視線を外し、リュックを背負い直した。
板垣は反射的に一歩踏み出した。
「あのさ」
早坂が振り返る。
板垣は指先を握りしめ、声を震わせた。
「……でも、そろそろ、研究室行くのやめようと思ってる」
早坂の動きが止まり、目を開いて板垣を見つめる。
「……え?」
板垣は口を開いたまま固まった。続けて口から出そうとした言葉が喉元で詰まる。
今後、やろうと思っていること。
自首のこと。
早坂にどうして欲しいのか。
しかし、上手く言葉の形にならない。
早坂は板垣の目をじっと見つめていた。その目は何かを測り、確かめるようだった。
やがて、早坂は口角を小さく上げ、息を吐いた。
「……あろまんは、やっと元に戻れるんだね」
早坂は寂しげに瞼を落とした。
帰り道の途中、板垣は早坂の隣を歩きながら、何度も口を開きかけた。だが早坂の寂しげな横顔を見た途端に、声が喉の奥で堰き止められる。
駅の前で二人は手を振って別れた。板垣は早坂の背中が小さくなっていくのを見ながら、その場で立ち尽くしていた。
冷たい風が頬を掠める。空は薄暗く染まり、駅や建物にポツポツと照明が点き始めた。
一番大事なことほど言えないまま、時間だけが進んでいく。




