52 再演
実験室の静寂の中で、板垣の耳元のヘッドホンから声が飛び込む。
『板垣さんが、沼野という少年を殺害した日の出来事を、順を追って教えてほしい』
板垣は『殺害した』という言葉にびくりと肩を震わせ、鼻息を漏らした。
目を閉じ、深く息を吸う。
「5月の、休日です。るみと遊んだ帰り道で、沼野くんと会いました」
板垣は落ち着いた声で答える。
耳元のヘッドホンからは、何も返って来ない。
板垣は少し間を置いて続ける。
「沼野くんは、るみのことを探してました。あいつの仲間が停学になったのがるみのせいだと言って……」
板垣は口を開いたまま押し黙った。
板垣の頭の中で、声を荒げる沼野の姿が思い出された。
そして、早坂が傷つけられるかもしれないという恐怖と怒りの感情も、あの時と同じように胸の中に蘇る。
全身に汗が滲んだ。
板垣は歯を食いしばりながら眉を寄せる。
荒くなった息が鼻から押し出され、視界が歪んでくる。
耳元のヘッドホンからは、まだ何も返って来ない。
「あいつは、るみにその落とし前つけてもらうって言って、るみを探していたみたいです。私は沼野くんを止めようと思いました」
板垣の頭の中に、沼野の笑い声が蘇る。それはまるで現実のように板垣の耳元で響いていた。
板垣は表情を歪め、肩をぷるぷると震わせる。
「これは、実験だ」
自分に言い聞かせるような呟きが口から零れる。
板垣のヘッドホンから、ようやく六条の声が聞こえた。
『板垣さんは、なぜその時に怒りを覚えたのかな?』
板垣は両手を膝の上で握りしめた。
「るみが、ずっとあいつらに傷つけられてきたからです。あの子は正しいことをしてるのに、なんでいつも傷つけられて、あの子が泣かなきゃいけないのか」
板垣は声を震わせて前を睨みつけた。
「るみのことを、守らないと」
板垣の頭の中で、傷だらけの早坂の姿が思い出される。
板垣の全身に汗が滲み、視界が霞んでいく。
『そんなに止めてほしいなら俺をここで殺してみろよ』
沼野の声が、板垣の耳のすぐそこで響いていた。
傷だらけの早坂の姿と沼野の笑い声が、板垣の頭の中でぐるぐると巡り続けた。
板垣の頭が熱くなり、全身に力が入る。
「これ以上、るみを傷つけたら――」
その時、板垣は深く吸った息を呑み込んだ。
先ほどの六条の言葉を思い出した。
『どんなに心がぐらつくことがあっても、自身を見失ってはいけない』
板垣は右手を胸に当てる。
鼓動が激しく鳴り、肩が大きく上下に揺れていることに気付く。
息を吸い、冷たい空気を肺と頭に送り込む。
「私を守れば……何も壊さずに済むんだ」
小さく呟くと、頭の熱が引き、視界が少しずつ鮮明になっていった。
強化ガラス壁の向こうで、西尾は安堵の息を吐いた。
「安定してきました。……板垣さん、上手くやりましたね」
西尾は興味深そうにパソコンに表示されたデータを見ていた。
「そうだな。今のが、彼女の自信に繋がればいいんだけど」
六条は満足気に笑いながら立ち上がり、板垣の元に向かった。
板垣はセンサーを外すと、イスに座ったまま、しばらくぼんやりと足元を見つめていた。
「お疲れさま」
ふと目の前から声が聞こえ、六条からチョコレートが差し出される。
「ありがとうございます」
板垣は立ち上がってチョコレートを受け取ったまま、ぼんやりと固まっていた。
しばらくすると、板垣は突然肩をぷるぷると震わせて目に涙を浮かべた。
「怖かった、です。また誰かを殺すかもしれないと思って」
板垣は息を震わせながら言い、自分の涙に驚く。
「あれ、ちゃんとできたのに、なんで涙が……」
板垣は焦りながら手の甲で涙を拭った。
「板垣さんが、自分のことを壊さないように守れたんだよ。よく頑張ったね」
六条が穏やかに言うと、板垣はしばらく不規則に肩を揺らしながら呼吸をしていた。
「先生の、おかげ、です」
板垣は涙声で呟いた。
板垣は小さく嗚咽を漏らし、涙を拭いながら肩を震わせて呼吸を整えていた。
六条は板垣に向けて手を伸ばしかけて、すぐに下ろした。
「抱きしめていい?」
板垣は一瞬息を止め、俯いて答える。
「ダメです」
「頭撫でるのは?」
「ダメです」
板垣は再び呼吸を乱して身体をぷるぷると震わせていた。
六条は小さく息を吐き、寂しげに笑いながら言った。
「落ち着いたら、最初に言ったように、今後について西尾くんと3人で話し合おうか」
板垣はこくりと頷いた。
やがて西尾が板垣の元に駆け寄る。
「板垣さん、今日は上手くいったね」
板垣は西尾の姿を見た途端、西尾に抱き着いた。
西尾は驚愕した顔のまましばらく固まった後、躊躇いがちに腕を回して支えた。
「もう大丈夫だよ」
その声が板垣の胸の奥に静かに沈んでいった。
六条は眉を吊り上げながら、ただ黙ってその様子を見ていた。
板垣は西尾に抱き着いたまま、しばらくすると身体がずるずると下に滑り落ちる。
西尾は困惑しながら板垣の身体を支える。
――私が守らなきゃいけないのは、誰かじゃなくて、私なんだ。
眠りに落ちかけた板垣の胸の奥で、ずっとざらついていた痛みが少し和らぐのを感じた。




