50 あの日
遡って、5月初旬のある日。
雲ひとつない空の下、街のざわめきが遠く感じられる、休日の午後だった。
ショッピングモールの出入口で板垣と早坂は別れ、板垣は家に帰ろうとしていた。
公園の裏道を通った時、ふと声を掛けられる。
「あろまじゃん。久しぶり~」
振り返ると、Tシャツを着た少年が立っていた。
「沼野くん……」
板垣は表情を強張らせて沼野を見る。
沼野は笑いながら板垣に近づいた。
「早坂とさっきまで一緒にいたでしょ? あいつどこ行ったん?」
「なんで……?」
板垣は両手を握りしめて沼野を睨みつける。
沼野は首の後ろを掻きながら不機嫌に答えた。
「あいつのせいで、つっちーが入学早々に停学になっちゃったから。その落とし前つけてもらおうと思って」
板垣は眉を寄せる。
「土山の停学って……他校生と暴力沙汰になったやつでしょ? 自業自得じゃん」
「早坂がわざわざチクったせいで騒ぎになったんだろ」
沼野が声を荒げると、板垣は肩をぴくりと震わせて一歩退いた。
「早坂の家ってあっちだっけ?」
沼野は早坂の家の方向を指して尋ねると、板垣は首を横に振った。
板垣の全身に汗が滲む。
沼野の『落とし前つけてもらう』という言葉――
中学時代、その言葉の後に早坂が傷つけられ、彼女が泣いている姿を何度も見てきた。
板垣はその度に胸を締め付けられ、早坂を守れない悔しさを噛みしめていた。
板垣は沼野を睨みつけた。
「うわ、こっわ」
沼野はわざとらしく言って嘲笑した。
「あろまも、早坂みたいになってきたね。あいつに関わらないほうがいいよ」
板垣の視界の端が歪む。
「なんでそんなに……るみばっかり」
「あいつみたいな、弱いくせに正義感振りかざしてるやつってマジで無理なんだよ。ぶっ潰したくなる」
沼野が嫌悪感を滲ませた顔で言った。
板垣は口をぎゅっと結ぶ。
――るみは正しいことをしているのに、なんでいつも傷つけられるの? なんでるみがいつも泣かなきゃいけないの?
るみを、こいつから守らないと。
耳鳴りがして、鼓動が早くなる。
「お願いだから、もうるみに構わないで」
板垣は声を硬くした。
「早坂が俺らに構ってくるんだよ。止めて欲しけりゃ早坂に言って」
沼野は欠伸しながら歩きだした。
「待って」
板垣は沼野の腕を掴むが、沼野は強く振り払った。
沼野は板垣を一瞥し、笑い飛ばした。
「あいつはもう二度と起き上がれないくらいにしないと」
「やめてよ」
板垣の目に涙が滲み、呼吸が乱れる。
板垣の頭に、傷だらけの早坂の姿がフラッシュバックする。
あちこちが擦り剝けた泣き顔、震えた声、力なく板垣に縋りつく早坂の身体の感触。
「これ以上、るみを傷つけたら、許さないから」
板垣の声は震えていた。
「そんなに止めてほしいなら俺をここで殺してみろよ」
沼野は嘲るような笑い声を零した。
板垣の頭に血が上り、沼野の声が耳からだんだんと遠のき、視界が霞んでいった。
初めての感覚に、板垣は頭が熱くなって焦りが広がった。
「なにこれ……」
声にならないまま不規則に息が漏れる。
ただ頭の中が、怒りと焦りでごちゃごちゃになり、焼けるように熱くなる。
板垣が全身に力を入れて息を吸い込んだ瞬間。
何かがふと切れるような感覚がした。
そして――
目の前に、沼野の死体が飛び散っていた。
あの日から、板垣の日常は崩壊した。
世間から向けられる好奇の目、学校のクラスでは腫れ物扱い。
そんな中で、早坂が普通に過ごしている姿を見るたびに、板垣はほっと胸に小さな光を灯していた。
――るみが無事で生きてくれていれば、それでいい。
それが、板垣が孤独と引き換えにした願いだった。




