49 解放と束縛
板垣が教室に入ると、既に登校していた早坂と一瞬目が合った。
板垣は目を細めて早坂を見る。
早坂の視線はどこか硬く、口角が不自然に上がっていた。
「るみ、おはよ」
「あろまん、昨日、大丈夫だった?」
「ちょっと休んだら戻ったよ。色々、ごめんね」
板垣が言うと、早坂はため息を吐いた。
板垣はじっと早坂を見つめていると、早坂の目線がふわふわと泳ぎ、板垣と目を合わせようとしていないようだった。
「るみ、どうした?」
板垣は自分の席に腰掛ける。早坂はしばらくぼんやりとした後、びくりと身体を揺らして板垣を見た。
「え? 何でも……」
早坂の声は不自然に上ずり、語尾が掠れかかっていた。
板垣は早坂の反応に一瞬怪訝な顔をするが、深追いせずに前に向き直った。
早坂は時々恐る恐る板垣に目線を遣り、一瞬で戻すのを何度か繰り返していた。
動悸がして、頭が脈打つ。胸がざわつき、キリキリと痛む。
早坂にとって、板垣の事件を知った当時と同じ感覚がしていた。
だが、あの時とは違い――。
あろまんは、無実じゃなかった。
壊してしまう力を持っている。
でも、危険な実験に巻き込まれている。
あろまんが、怖い。でも、大事な友達を、怖いって思っちゃいけない。
私が信じなきゃいけない。私が、あろまんを元の生活に戻して――。戻さなきゃ。
私たち、元に戻れるのかな?
早坂の目から涙が溢れる。
早坂は思わず机にうつ伏せ、不規則な呼吸を繰り返した。
ふと早坂の背中に板垣の手が乗せられ、優しくさすられる。
板垣は何も言わなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
早坂も黙って、ただ板垣に背中をさすられていた。
昼休みのチャイムが早坂の耳の遠くで鳴った。
早坂は机をぼんやりと見たまま、頭の中で同じことを考え続けていた。
実験中の板垣の苦しそうな表情。
実験室で窓ガラスが割れた音。
板垣が沼野を殺したかもしれない、という言葉。
――私たち、元に、戻れるのかな?
この苦しさを、誰かに話して、共有してしまいたい――。
「るみ、お昼食べよう」
板垣の声に、早坂はふと顔を上げた。
目の前に板垣と和田、加藤、余部が並んでいた。
「……うん」
早坂はすぐに目を逸らし、弁当を持って立ち上がった。
廊下のスペースの窓の外には曇天が広がっていた。
薄暗い空間の中で、和田たちの声が弾んだ。
「英語のテスト、むずすぎんかった?」
「それよ! 問題集にも載ってない初見のやつあったよな」
「あれ反則でしょ。港高生の頭の悪さなめんなまじで」
小さな笑い声に包まれながら、早坂は箸を止めて考えていた。
――この子たちに、あろまんのことを話してしまいたい。
早坂は弁当箱を埋める米を見つめる。
「るみちゃん、大丈夫か? なんかさっきから上の空だけど」
加藤が早坂の背中を軽く叩き、早坂は「うお」と気の抜けた声を漏らした。
早坂は浮かない顔のまま加藤を見つめ、口を開く。
「――ぁ」
その時、早坂の脳裏で秘密保持誓約書にサインした時の記憶が蘇った。
『口外禁止』という言葉が、呪いのように早坂の喉に蓋をする。
唾を飲み込もうとしても、喉が鳴らなかった。
「るみちゃん?」
加藤が再び早坂に呼びかけると、早坂は口角を上げ、「ふふっ」と笑いを漏らす。
「あはは、ごめん、なんもないよ。ははははは」
早坂が笑いながら答えると、加藤たちは一瞬きょとんとして固まった。
「あー。るみちゃん、中間テストが終わった解放感でテンションバグったな?」
和田がにやりと笑いながら早坂を見ると、早坂はこくこくと何度も頷いた。
「その気持ち分かる! なんかこう、独特の全能感があるんだよね」
余部も笑いながら言った。
空気が緩み、廊下には大きな笑い声が響いていた。
板垣は目を丸くして早坂を眺めていた。
帰りのホームルームが終わり、板垣はリュックを背負ってゆっくりと立ち上がる。
席から離れようとした途端、左腕を強く掴まれた。
板垣が視線を落とすと、早坂が板垣の左手を睨みつけながら、腕を掴んでいた。
「るみ?」
「あろまん、」
早坂の声は掠れて震えていた。
「まだ研究室に行くつもりなの?」
板垣は唾を飲み、掠れ声で答える。
「明日、行く予定だよ」
早坂は唇を噛んで言葉を詰まらせる。早坂の手が板垣の腕に食い込んだ。
板垣の顔に不安が広がり、肩をぷるぷると震わせた。
「あろまん」
早坂は硬い声で呼びかける。
「うん」
板垣は不安げに答える。
早坂は板垣の左手首に着けられているスマートウォッチに触れた。画面が白く光り、板垣の心拍が表示される。
画面では、線図のようなものがまっすぐに続いていた。
早坂は無機質な線図を目で追い、しばらく唇を噛みしめた。
スマートウォッチを睨みつけながら、鋭い声で言い放つ。
「これ、外してよ」
「ほえ!? なんで……?」
板垣は驚いて早坂を見るが、早坂は目を合わせない。
「あろまんをあの研究室に縛り付けてるものを、1つでも無くしたい」
早坂は抑揚のない声で答えた。
その言葉に板垣は目を見開いた。
スマートウォッチに示される心拍数が上昇し、線図が乱れる。
しばらく二人は見つめ合いながら黙っていた。
教室内では、部活動に向かう生徒の明るいざわめきが響いた。
やがて板垣の右手がゆっくりと動き、左手首のスマートウォッチのもとに手先を滑らせる。
スマートウォッチの電源ボタンに触れると、黙ってそれを長押しした。
スマートウォッチはまるで呼吸を止めたように画面が暗転し、板垣はそれを手首から外す。
板垣の机の上に、外されたスマートウォッチが無造作に置かれる。
早坂は驚いてその様子を見ていた。
「これで、いいかな。明日からも、もう着けないから」
板垣は早坂に笑いかけた。
早坂は背中に汗を滲ませ、板垣を見た。
「それ……。そんなに、あっさり外していいやつなの?」
早坂は声を震わせながら尋ねる。
板垣はふっと笑って答えた。
「るみ、ずっと何か思い詰めてそうだったから。これくらいならできるよ」
早坂はほっと息を吐いた。
それと同時に、胸のどこかに小さなヒビが入ったような感覚がしていた。
早坂の目に映る板垣の笑顔が、どこか苦しそうで、何かを諦めているように見えた。
早坂は板垣を見ながら、優しく目を細める。
その裏で、擦り切れるような胸の痛みを抱えていた。
――もう、あろまんのことは、私が守らないといけないんだ。
そう思わないと、早坂は立っていられなかった。




