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48 守るという暴力

 西尾と早坂を見送り、板垣は茫然としてデスクを睨みつけていた。

「落ち着くまでゆっくりしててね」

 六条は穏やかに言い残し、居室のドアに手を掛けた。


「あの」

 板垣はデスクに視線を落としたまま声を絞り出す。

 六条は足を止めて板垣を振り返った。


 板垣はゆっくりと立ち上がり、声を硬くして尋ねた。

「さっき、るみに何を言ったんですか? あの子、なんであんなに怒ってたんですか?」


「早坂さんは、板垣さんのことが大事なんだよ」

 六条は微笑みながら答えた。

「板垣さんに心理的な負荷を与える実験が許せなかったみたいだ。だから、板垣さんのことを救い出そうとして、『連れ帰る』って言ってしまったんだろうね」


 板垣はその言葉を嚙みしめながら黙っていた。

 六条は穏やかな口調で続けた。

「彼女なりの、板垣さんに対する『助けたい』っていう強い思いだよ」


 板垣はため息を吐いた。

 頭の中が混沌とし、眩暈がする。


 ――るみの思いが胸に刺さって痛い。

 守ってほしいのに守られたくない。

 どうすればいいのか、分かりそうで、分からない。

 でも。あの子のことだけは――。


 次第に板垣の呼吸が早くなる。

 空気が寒く感じ、思わず身体がぷるぷると震えていた。


 板垣は俯いたまま、震える唇から声を零した。

「私……何がなんだか分からなくなってて。誰の言うことを信じたらいいのかも……」

 言いかけた瞬間に全身が温かさに包まれ、息を呑んだ。


 板垣は六条の腕の中にいた。

 その体温に板垣の心臓が大きく跳ね、息が詰まる。


「板垣さんは、何が苦しい? 板垣さんの状況がどんどん変わっていくのが怖いのかな?」

 板垣は何かを言いかけたが、言いたいことが喉元で潰れて消える。


 六条は板垣の背中を優しくさすりながら続ける。

「大丈夫だよ。板垣さんがゆっくり、自分のペースで幸せを取り戻していけるように、ずっと支えるからね」

 板垣は微かな甘い匂いと温かさを感じながら、脳内がじわじわと痺れるように侵食されている感覚がした。

 全身の力が抜け、思考がだんだんと溶けていく。


 その時、板垣の脳裏に早坂の声が響いた。

『あろまん……あいつのことは、信用するな!』

 板垣の頭の中が冷えていく。


 ――この人は、私の気持ち、聞いてくれるんだっけ?

 胸が押し潰されたように苦しくなり、板垣の表情に苦悶が滲んだ。

 板垣の両腕が、震えながらゆっくりと上がる。


 そのまま、板垣は六条を突き放した。


「先生のこと、信じたいですけど……。でも私は、支えがなくても、自分を取り戻せるように、なりたいです」

 板垣は震える声を押し出す。

 頭の中は靄に包まれたようで、身体は冷たい空気に晒されたように震えていた。


 六条の顔には動揺と焦りが滲んでいた。

 六条は口元だけ緩く引き上げて笑いながら言った。

「そうか。板垣さんがそう言うなら……」


 板垣はほっと息を吐き、一歩後退しようとした。

 眩暈を感じ、板垣の足元がふらついた。

「危ないよ」

 板垣は腕を引かれ、そのまま再び六条から抱き締められた。

「板垣さん、体調良くないんだから、無理して動いたら良くないよ」

 六条の優しい声とは裏腹に、腕の力は先ほどよりもずっと強くなっていた。


「私は、大丈夫ですから」

 板垣が声を上げると、それを押し潰すように身体が圧迫される。

 呼吸が詰まり、鼓動が激しくなる。


 ――私の声、聞いてくれないのか。

 板垣の表情に焦りと絶望が混じる。


 六条は板垣の頭を優しく撫で始め、板垣は一瞬思考が飛びかける。

 苦しい。逃げないといけない。

 板垣の背中に汗が滲む。


 板垣が離れようともがく度に六条は腕の力を強め、板垣は身動きができなくなった。

「……離してください」

 板垣は絞られたような声を漏らした。

「離さないよ」

 六条は柔らかい声で答える。

 板垣は歯を食いしばり、目に涙を滲ませながら身体を震わせる。

「離してください!」

 板垣が叫ぶと、六条は板垣の頭を撫でていた手を止めた。


 板垣は息を切らしながら、掠れ声で尋ねた。

「なんで、こんなこと……」

「板垣さんを、失いたくない。離れないでほしい。板垣さんが逃げるなら、力尽くでここに留める」

 六条は縋るように言い、板垣の頭に乗せていた手を押さえ付けた。


 板垣は頭を押し付けられ、呼吸ができずに半ばパニックになっていた。背筋から冷えるような感覚が広がり、呼吸をしようにも肩だけが不規則に上下に揺れ、次第に意識が遠のく。

 一分足らずのうちに、板垣は酸欠で崩れ落ちた。


 六条は板垣の身体を支えながら、表情から笑みが消えていった。

「え、板垣さん……?」



 板垣が再び目を覚ますと、居室のベッドで横になっていた。

 耳の遠くで騒がしさを感じていると、居室のデスクで話す西尾と項垂れる六条の姿が目に入った。

 西尾が板垣に気付くと、心配そうに声を掛ける。

「板垣さん、体調治った?」

 板垣はゆっくりと立ち上がると、眩暈や震えがなくなっていた。

「あ、もう大丈夫そうです」

 板垣が答えると、西尾の隣で六条が顔を曇らせて言った。

「板垣さん、さっきはほんとにごめん」

 板垣は一瞬言葉を詰まらせて俯いた。

「……二度としないでください」

 喉を潰したような声で板垣は答えた。


 西尾は怪訝な顔で板垣を見た後、六条に尋ねた。

「先生、何したんすか」

 六条はしばらく言い淀んだあと、小声で呟いた。

「板垣さんを潰しちゃって」

「……先生に殺されかけました」

 板垣が呟くと、途端に西尾の表情に怒りが広がった。

 空気が一気に冷たくなるのを感じ、板垣は身体を強張らせた。


 西尾は勢いよく六条の胸倉を掴む。

 西尾の手は震えていた。怒りより先に、恐怖が来ていた。

 西尾はそのまま、六条を睨みつけながらしばらく黙っていた。

 その様子を見て、板垣は肩を縮ませてカタカタと震えている。


「板垣さん」

 西尾は冷たい声を放ち、板垣はびくりと背筋を伸ばした。

「どうする? この人を、板垣さんと同じ目に遭わせるか?」

 板垣は西尾から溢れる冷気に身をすくめ、首を細かく横に振った。

「あの、先生も、別に私を殺そうと思ってたわけじゃ、ないと、思うので」

 板垣は怯えた表情で西尾を見つめた。


 西尾は大きくため息を吐いた後、六条を見て落ち着いた声で言った。

「板垣さんを保護するための場所で……彼女を脅かすような存在になっちゃだめですよ。頼みますから、ほんとにこれ以上は勘弁してください」


 西尾は六条の胸倉から手を離し、大きく息を吐いた。

 微かに煙草の匂いが広がり、板垣は小さく咳払いをした。


 六条は眉間に手を当てて考え込み、沈むように呟いた。

「板垣さんを守るって、どういうことだろうな」

 西尾は驚いた顔のまま、返答に詰まった。


 板垣は肩を震わせてちらりと西尾を見ると、困った顔の西尾と目が合う。


 板垣はぽつりと呟いた。

「自分のことは自分で守りたいです。もう、誰かに振り回されたくなくて」

 呼吸を震わせながら小声で続ける。

「私は……」

 板垣はその後の言葉を詰まらせ、肩を上げてぷるぷると震えていた。


「板垣さん。今日はもう帰ろっか」

 西尾がぼそりと言うと、板垣ははっとして一瞬固まった。

 板垣は西尾に顔を向け、ゆっくり頷いた。


「明後日も、研究室来てもらえる?」

 西尾が不安そうに尋ねると、板垣は平然と答える。

「来ますけど……?」

 西尾は安堵のため息を吐いて表情を緩ませた。


 荷物をまとめて帰りの支度をする板垣を遠目に見守りながら、西尾は六条に向けて言った。

「『実験対象に執着し過ぎず、一歩引いた視点で見た方が分かることもある』って、昔言われたことがあるんですけど」

「ふーん、良い言葉だね」

「それ言ったの、あなたなんですけど……。この言葉、そのまま返します」

 西尾は不機嫌な顔をちらりと六条に向け、板垣の元にまっすぐ歩いていく。


「板垣さん、送るよ」

「よろしくお願いします」


 板垣は西尾の後ろについて、居室の出入口まで歩く。

 ドアの前で一旦立ち止まり、六条を振り返る。


「先生に一つお願いがあって」

 板垣はゆっくりと言った。

「……これからは、私の意思を、聞いてほしいんです。私、先生の道具じゃないので。ここにいるかどうかも、私が決めます」

 六条は一瞬驚いたように固まった後、いつものように微笑した。

「分かったよ。……気をつけて帰ってね」


 板垣はぺこりと頭を下げ、西尾に続いて居室を出て行った。


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