47 聞かれない声と、善意の外側
静かになった居室で、板垣はビターチョコレートを口に入れた。
口の中に苦みと微かな甘さが広がり、それを噛みしめるようにゆっくりと咀嚼する。
板垣は早坂の不安そうな表情を思い出し、口の中の苦みが主張を強めた。
板垣は手の中でチョコレートの包装紙を潰し、ため息を吐いた。
「……るみも、先生も、西尾さんも……。みんな、大事な人たちなのに」
三人が穏やかに議論を進める様子がまるで想像できない。どこかで破断するのではないかという不安感が頭にしがみついている。
「なんでいつも、私がいないところで何かが進んでいくんだろう」
それが配慮なのか、当然なのか。板垣にはもう分からなかった。
居室の空調の音をぼんやり聞きながら、板垣は実験中のことを思い出した。
板垣を追い詰めた問い。
『私の心って、なんだったっけ?』
胸の中で思い返すほど、その輪郭と中身がぼやけていく。
他人から傷つけられたくない。優しくしてほしい。守られたい。安心したい。
でも、誰かの『救いたい』という言葉に、ずっとついて回る違和感。
自分の感情によって一人の人間を殺し、他の人も傷つけてきた事実。
板垣の頭の中でぐるぐると思考が回り、軽く眩暈がした。霞んだ視界の端で、窓の外に闇が広がっていた。
板垣は自分の右手をじっと見つめた。空気がやたらと寒く感じ、かじかんで上手く握ることができない。
しばらくすると、訳も分からず板垣の目に涙が滲んできた。
「ふえ……なんで……」
板垣は制服の袖で涙を拭い、鼻を啜った。
いつの間にか板垣のデスクには、山積みになったティッシュとチョコレートの包装紙が散らばっていた。
板垣はそれを片づけていると、脚が少しふらついた。
部屋の外からバタバタと足音が迫ってくる。
居室のドアが勢いよく開いた。
「あろまん!」
早坂の叫び声が飛び込んだ。
「るみ……」
板垣の目に映る早坂の顔には、怒りが残っていた。
早坂は息を切らしながら、板垣を見つめて言った。
「この研究室に居続けちゃダメだよ。このままだと、あろまんは本当に壊れちゃう」
板垣は口元だけを緩めて笑い、優しい眼差しを早坂に向けた。
「もう少し、ここで頑張りたいんだ」
「それが、あろまんの意思なの?」
早坂の問いに、板垣は言葉を失った。
早坂は唇を噛んで板垣を見つめた後、口を開いた。
「あの六条って人、悪いやつだよ」
板垣の表情が一瞬曇る。
「……でも。先生と話してると、少しだけ安心できる気がして。今は、それも必要だと思ってて……」
早坂は板垣の両手を強く握った。
「そうかもしれないけど。あいつは今まで、あろまんのこと、人として見てくれてた? あろまんの本当の気持ち、尊重してくれてたの?」
板垣は何も答えられずに早坂を見ていた。
「あろまん……あいつのことは、信用するな!」
早坂の真剣な叫び声に、板垣はびくりと首を伸ばした。
「ここから逃げよう」
早坂は板垣の手を引っ張り、ドアを開けた。
その瞬間、ちょうど居室に西尾と六条が入り、出会い頭に衝突しかけた。
「わァ……!!」
早坂の顔が白んでいく。
焦った顔の早坂と、それを冷静に見つめる西尾と六条が向かい合う。
「早坂さん、落ち着いた?」
六条が柔らかい声で尋ねると、早坂は睨み返した。
「黙れ! あろまんは連れ帰ります。もう二度とここに戻しません」
板垣は膝を震わせながら俯いていた。早坂が板垣の手を強めに引き、板垣も早坂に引っ張られるように、ゆっくりとついて行く。
板垣は早坂に引かれた自分の手を見下ろした。
早坂が居室を出ようとした瞬間、六条がはっきりと言った。
「板垣さん、体調悪そうだからもう少し休んだ方がいいよ」
板垣は反射的に従い、イスの背もたれに身を預けてからはっとした。
逃げたいのか、留まりたいのか。
そのどちらも、まだ言葉にしていないことに気付いた。
六条は西尾に向けて穏やかに言った。
「西尾くん、早坂さんを家の近くまで送ってってあげてよ。外暗いし、早坂さんは道に慣れてないだろうから」
西尾はちらりと早坂を見て、少し考え込んだ。
「いや、板垣さんが回復するまで待ってから、一緒に送りますよ」
六条は一瞬目を丸くし、笑いながら西尾に耳打ちした。
「早坂さんは一旦板垣さんと引き離して、冷静になってもらった方がいい。西尾くんは、早坂さんの説得を頼まれてくれない? 君にしかできない仕事なんだよ」
西尾は苛立ったように鼻息を漏らした。
早坂は不安を滲ませた顔で西尾を見上げている。
西尾は不満げに目を伏せ、柔らかい声で早坂に言った。
「……早坂さん、家の近くまで送るわ。板垣さんも、後で俺が送るから、心配しないで。……あと、板垣さんのことは、まだ連れ帰らないでほしいんだわ」
早坂は全身に汗を滲ませ、身体を震わせていた。
板垣はぼんやりと居室のドアを眺めていた。
――ここにいる全員が、私のことを考えている。
それなのに、誰も私に聞かない。
そして板垣もまた、何も言えずに俯いていた。




