46 守り方の違い
居室に板垣と西尾が戻った途端、早坂が板垣に抱きついた。
「あろまん!」
板垣は一瞬驚いた後、微笑みながら板垣の背中を優しく撫でた。
西尾は二人から目を逸らして自分の席に着き、パソコンを開いた。
板垣と早坂はしばらく無言で抱き合っていた。板垣は肩に早坂の体温を感じながら、少しずつ心の傷が癒えていく感覚がした。
早坂の肩の震えが落ち着くと、早坂は板垣から一歩離れて照れたように目線を逸らした。
「あろまん、急にごめん」
「いいよ。そっちのイスに座ろ」
板垣は早坂を空いたデスクの席に促した。早坂はイスにゆっくりと腰掛けてため息を吐いた。
「早坂さん、さっきの実験について、俺からちょっと説明――」
西尾が言いかけた瞬間、居室のドアが開いて六条が笑いながら入室した。
「早坂さん、なんか聞きたいことある?」
早坂は六条を見た瞬間に顔を強張らせ、膝を震わせた。
「聞きたいことありすぎて……。でも」
早坂はちらりと板垣を見る。
「あろまんの前では、その……話しにくい、です」
早坂の言葉に板垣はぴくりと肩を揺らし、一瞬口を結んだ。
板垣は早坂、西尾、六条へとゆっくり視線を向けた後、恐る恐る尋ねた。
「……あの、私。席、外しましょうか?」
「じゃあ、早坂さんと西尾くんは私の部屋に来てもらおうか。三人で話そう」
六条はにこりと笑って答えた。
三人は居室のドアを開け、廊下へと出て行った。
早坂は居室を出る直前に振り返り、板垣と目が合った。
早坂は口元だけ小さく笑った後、重い足取りで廊下へと出て行った。
板垣は不安な表情で早坂の姿を見つめていた。
六条の居室で、早坂と西尾はデスクの前に並べられたイスに座り、六条がホワイトボードの前で立っていた。
六条は穏やかに笑いながら、早坂に向かって口を開いた。
「まずは実験の経緯から教えるね」
早坂は六条を見て小さく頷いた。
「我々は、事件当時……板垣さん自身の感情が彼女の脳に作用し、一時的な記憶改変や意識混濁を起こしたのではないかと仮説を立てた。彼女の強い感情が作用しているのは脳の電気活動なのか、記憶の処理過程なのか。そこにアプローチして、まずは彼女に起こったことを調べようというのがこの実験の始まりだったわけだ」
早坂は口を半開きにして口を挟んだ。
「あの、ちょっと難しいです」
「要するに、板垣さんは事件当時に感情の大きな揺れが起きたことで、事実と違う記憶が入ったんじゃないかと思ったんだよ」
早坂はごくりと唾を飲み、少し考え込んだ後に尋ねた。
「それって、あろまんが精神的におかしくなってたってことですか?」
隣に座る西尾が首を横に振って答える。
「急性の記憶改変が事件の時だけ起きたんじゃないか、ってこと。だから板垣さんが精神を病んでいたわけではない。……それに……」
西尾が苦い顔で言い淀むと、六条が笑いながら西尾に続いた。
「その仮説は裏切られてしまった。……板垣さんは、自分の感情によって、『実際に物質を破壊する』ことができた」
早坂は言葉を失った。デスクに視線を落とし、先ほどの実験室での光景を思い返した。
苦しそうに呼吸をする板垣の姿。板垣はあの時、怒りを堪えるように歯を食いしばり、同時に焦りを顔に滲ませていた。――そして、突然、実験室の窓ガラスが割れた。
早坂の背筋に冷たい汗が滲む。
「さっき……突然窓が割れたのって、外から何かものが飛んできたわけじゃないんですか?」
早坂は震える声で尋ねながら、耳を塞ぎたい気持ちに駆られていた。
その答えを聞くのが、怖くて仕方がなかった。
六条はにっこりと笑って答えた。
「あれは板垣さんが、自分の感情を制御できずに破壊したんだよ」
早坂は項垂れ、全身を細かく震わせた。唇が震え、苦しげな呼吸が不規則に漏れ出る。手を握ろうとしても力が入らず、頭の中で何も考えられなくなった。
西尾は早坂を気遣うように目配せして、低い声で呟く。
「早坂さん、ちょっと深呼吸しよ」
早坂ははっとして西尾を見ると、落ち着いた表情の西尾と目が合った。
早坂は大きく息を吸うと、それを見た西尾がぼそりと言う。
「深呼吸するときは、先に息を吐き切った方がいいよ」
早坂は「え」と気の抜けた声を漏らし、混乱して息を止める。直後、呼吸の仕方が分からなくなったように息が乱れ、涙目になりながら咽せ始めた。
早坂がしばらくパニックになりながら咽せていると、六条が早坂の背中を優しくさすった。
「板垣さんのこと、突然こんな風に言われてもびっくりしちゃうよね。早坂さんがちょっとずつ受け入れられるように、ゆっくり話していくから」
早坂は啞然として六条を見ると、六条は穏やかに微笑んでいた。驚きのあまり、早坂の呼吸は元に戻っていた。
西尾は早坂の呼吸が落ち着くのを見て、ぼそりと話し始めた。
「それで、板垣さんの破壊現象について。これは、板垣さんのある種類の感情の動きが閾値……一定以上の大きさになった時に、板垣さんが見ていたものを対象に破壊されることが確認できている」
早坂の背筋が固まる。その様子を見て、西尾は間を置いた後、声を少し柔らかくして続けた。
「でも、逆に言えば、板垣さんが感情の動きや視線を制御できれば、大きな問題にならないってこと。今、板垣さんはその制御の練習をしている段階」
早坂は表情を失い、震える声で尋ねた。
「あの。あろまんの破壊現象ってやつは、どれくらい強いんですか……?」
その問いに西尾が言葉を詰まらせると、六条がにっこりと笑いながら柔らかい声で答えた。
「早坂さんが、木っ端微塵になって死ぬくらいだよ」
「は?」
早坂の唇が震える。眉間に力が入り、早坂は六条を睨みつけた。
「あろまんのこと……バケモノみたいに言わないでください」
早坂は低い声を喉から絞り出した。
六条は表情を崩さずにゆっくりと答える。
「私は事実を言っただけだよ。板垣さんを『バケモノみたい』だと思ったのは、早坂さんの勝手な感想でしょ?」
早坂は六条を睨みつけたまま絶句した。
早坂は奥歯をぎりぎりと鳴らし、顔を真っ赤にして全身を震わせると、隣の西尾がデスクを三度ほど強く叩いた。
「先生、いい加減にしてください。ここで仲間割れを起こしても、良いことなんて何もないですよ」
西尾の言葉に、早坂ははっとして西尾を振り返った。西尾も額に汗を滲ませながら、浅い呼吸を繰り返していた。
六条は首元を掻き、「ごめんね」と早坂に謝った後、真顔になって続けた。
「でも、これだけは伝えておかないと」
早坂は嫌な予感がして、思わず背筋を伸ばした。
激しい動悸が早坂の胸に響き、全身が冷や汗に包まれる。
「板垣さんはあの事件で、被害者を殺害していた可能性が高いんだよ」
その言葉が早坂の脳内にうるさく響いた。
「え……?」
早坂の口からはそれしか出てこなかった。
早坂の頭の中が熱くなり、混乱しながら思考を巡らせた。
ずっと無実だと思っていた親友。世間から傷つけられ、その中で健気に生き続けた姿。
だからこそ、彼女を絶対に守ると決意していた。
「あろまんが、殺した……?」
早坂の口から掠れた声が零れた。
早坂は口を半開きにしたまま六条、西尾を見た。二人は何も言わす、ただ沈黙という名の肯定が部屋を包んでいた。
早坂は部屋の空気の重さに耐えきれず、「うう……」と呻き声を漏らした。頬に両手を当て、何度か強めに叩く。夢ではないことを確認すると同時に、やっと足が地に着いたような心地がした。
早坂は目を鋭くして尋ねた。
「それで、あろまんをどうするつもりですか?」
六条は目を細めて答える。
「板垣さんをここで匿って、安全に自分の感情を制御できるように手伝っているところだよ。彼女は故意に殺害したわけではないし、再発防止が優先だから。板垣さんは晒されるものじゃなく、保護されるべき存在だ」
早坂は何も言い返せずに黙っていた。ただ、先ほどの実験で板垣が心理的に追い詰められていた時の反応や、実験後の六条に縋りつくような板垣の様子に、漠然とした不安を抱えていた。
「……分かりました。全部を否定するつもりはありません」
早坂は言葉を区切り、喉の奥で感情を押し殺すように続ける。
「ですが、一つお願いです。あろまんを、この研究室から一度、完全に離してください」
「断る。それは、彼女を危険に晒す提案だ」
六条は即答した。
「板垣さんは今のままでは『普通』の生活に戻れない。君の言う日常に戻す方が、よほど彼女を壊すリスクが高いと思わないかな?」
六条は早坂を見て、諭すように続けた。
「君が望んでいる『普通』は、もう彼女のものじゃないんだよ」
早坂は一瞬言葉を詰まらせた。
首を横に振り、六条を睨みつけながら言った。
「でも……ここが、安全な場所とは思えません。あなたの行動を見ていると、傷心中のあろまんにつけ込んで、依存させているように見えるんです。……目的は、何ですか?」
早坂の問いを聞いた瞬間、西尾は目を見開いて背筋を伸ばした。
六条は穏やかな声で答えた。
「板垣さんは観察対象として価値が高い。彼女について知りたいことがまだ多くある。だから、何としてもここに置いておきたい存在なんだよ」
早坂は拳を握りしめ、深く息を吸い込んだ。
その隣で西尾が怒りを滲ませた顔で口を開きかける。しかしそれよりも早く、早坂が怒りで震えた声を上げた。
「分かりました。あなたの言う『安全』も、『保護』も、全部要りません」
早坂は立ち上がる。深く息を吸い、はっきりと言い放った。
「あろまんを、人として見ない人間のそばに……これ以上、あの子を置く気はありません」
早坂はしばらく六条を睨みつけた後、部屋を出て廊下を勢いよく走っていった。
「先生」
西尾がぼそりと呼び掛け、六条が振り向いた。
「あの子の目、マジでしたよ。……どうするんすか」
西尾は苛立ちと焦りが混ざった声で尋ねる。その苛立ちは西尾自身にも向けられていた。
「板垣さんを、守るしか、ないだろう」
六条の声は淡々としていたが、微かに震えていた。




