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空白の世界とモノクローム  作者: 藤 光一
四、終曲

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22/27

-混沌の庭園(2)-

「ここは・・・。」


 瞬間、目を塞いでしまった。霞んだ目を開けた時には、先程の空間では無かった。酷く荒んだ臭いが鼻に付く。人の肉を酸で溶かしたような臭いだ。周りは、床や壁で覆われている。でもただの壁では無い。ドクドクと一定のリズムで脈打つように蠢き、例えるなら何かの生物の体内にいる感覚だ。差し詰、肉の壁。壁も床も肉を触るようにぶよぶよと弾力がある。

 それもあって、上手く立つのにもバランスも取りづらい。どうやら、この空間には私と化け物しかいなく、先程まで傍らに居たモノリスの姿は無い。目の前には、涎を垂らした化け物。グラトニーが戦闘体制で構えている。


「私の作り出した異空間だ。」


 グラトニーの声が不器用に共鳴する。大きな声では無い筈だが、音が何重にも反響している。ワンテンポ重なる音が遅れており、増幅され気持ちが悪い。この場に居続けてはいけない。

 そう思ったのだが、身体が思うように動かない。全く動けないわけでは無いが、身体中に鉛を着けられたように重い。身体が重力で押し潰されそうになるくらいで、どれだけ速く動こうとしても歩く速度と同等だ。これは、一体・・・。


「気付いたか?」


 またグラトニーの気持ち悪い反響音が響き渡る。何度も反響した音が耳鳴りとなり、薄気味悪い声で吐き気がしそうだ。


「そうね。・・・面白いトリックね。」


「私が作り出した空間だ。ご都合主義なのは、当然だろう?」


「確かに・・・。」


 皮肉にもグラトニーの言葉には頷ける部分はある。不味い状況である事に変わりは無い。確実に獲物を喰らう為なら、相応の罠と準備をするのは当然だろう。何か対策を練らないと私の身体も心も、あのゲテモノの腹の中に収まるのは時間の問題だ。せめて一矢報いる程の一手が欲しい。私に力があれば。



 ——セナ、聞こえるか?


 それは、聞き覚えのある声。落ち着いていて、優しい声。声の方角は、右でも後ろでもない。頭の中で語りかけてくるような感覚。その声は、目の前の化け物と比べれば天地の差。闇の中の光。地獄の空から垂らされた蜘蛛の糸のような希望の声。


「その声は・・・、モ・・・・。」


 ——今、君の頭の中だけに聞こえるようにしている。奴に感づかれては、厄介だからな。


 やはりその声の主は、モノリスだった。どのような方法で私の頭の中で語りかけているのか理解出来ないが、今はどうだって良い。化け物もご都合主義なのだから、こちらだって都合を加えても罰は無いだろう。


「でも、どうすれば・・・。」


 私は掠れた小声で、呟く。蝋燭の火をギリギリ消さない程度の吐息で言葉を発した。奴の聴覚がどの程度のものかは定かでは無いが、少なくとも警戒を示している様子は無い。耳元で話さなければ、聞こえない音量だ。口元も最小限の動きを意識している。側から見れば、独り言を呟いている程度だろう。緊張を装っていれば不自然は無い。


 ——光を集めろ。私の残った力を振り絞った光だ。


 グラトニーが作り出した空間は、概ねホール程の広さで肉の壁により多少入り組んでいる。モノリスが残したであろうその光は、強く白く輝く灯火。自ら発光する蛍のよう浮遊しており、空間のあちこちに点在していた。

 その光たちは、壁をすり抜けて強く輝く。不思議にもその光にグラトニーは、気付いていない。特別な保護を施しているのだろうか。私のすぐ傍にも光がある。それを含めて五つの光。どれも蛍のように揺めき、蛍よりも力強く白い光を発光しているが奴は気付く傾向が無い。


「わかったわ。それで、奴を倒せばいいのね?」


 ——そうだ。可能な限り集めるんだ。


 モノリスが残してくれた、託してくれた光。それは希望の一手と捉えても過言では無い。この状況を打破できる最も有力な手段だ。具体的にこの光を集める事で、何が起きるかなんて検討も付かないが藁にもすがる思いと云う奴だ。五つの光を可能な限り・・・。いや、理想は全てだ。そうでなきゃ、奴を打破できない。

 しかし、問題点はまだある。


「でも、身体が動けないんじゃ・・・。」


 そう、全身を鉄に変えられたように動きが鈍くなっており、鉛を引き摺るような感覚がまだある。どれだけ力を込めても、指一本屈伸させるのがやっとな程だ。動きたくても動けない。水を失った魚のようだ。化け物が作り出した不思議な空間のせいで、著しく行動を制限されている。

 そんな窮屈な鎖で縛られた体躯に、柔らくて朗らかな。身体の芯から温もりを与えるような息を吹き返す感覚を覚え始める。纏っていたマイナスの気とは対照的な聖なる加護の力とでも云えば、しっくり来るのだろうか。いやらしくも身体中を縛り上げた鎖が徐々に緩まる感覚。同時に鉛を引き摺るのも弱まってきた。


 ——大丈夫。もう動ける筈だ。普段よりは、まだ鈍く感じるだろうけど。健闘を祈っているぞ。


 やはり、力を施してくれたのはこの声の主でもあるモノリスだった。確かにまだ本調子と云う訳には、行かないようだ。身体の重さはまだ感じる。それでも先程よりは遙かにマシである。一筋の施しがまた一つ希望を差し伸べる。


「ありがとう・・・、モノリス。」


 そう私が口ずさんだ時、ようやく目の前の化け物は私の一連の行動に違和感を覚え始める。大きな一つ目をギョロリとこちらに視線を合わせ、睨みを効かせる。何かを疑うその目つきは、閉じた表紙に一本のメスを入れるようだ。


「ぶつぶつと、何を言っている?念仏でも唱えているのか?それでは、私は成仏しないぞ?」


「あら?仏教はご存知なのね。意外だったわ。見た目の割に、お利口さんなのね。」


 恐らく、自分がかけた(まじな)いの変化に気付いたのだろう。獲物を縛り上げた罠に異常が生じたのだ。なんだ、と思わないハンターは居ないだろう。


「減らず口を。さて、長話は嫌いなんだ。そろそろ食事の時間にしようか。」


 遂に痺れを切らした化け物は、無数に生えた触手を大きく展開させる。孔雀のように触手を扇状に広げ、一本一本が別の生き物のようにうねる。

 軋ませた肋骨のような牙からは、粘ばり強い涎が滴り落ちており悪臭を放っている。生ゴミを煮込ませた異臭は、鼻を曲げさせる。例え死んでも、あの口の中だけには入りたくない。


「食事の時間?おかしいわね。」


 漸く動かせるようになった身体を起こし、化け物に向けて指を差す。何の事は無い。グラトニーの攻撃から避けながら、モノリスの光を集めるだけの事。言うのも思うのも簡単な事だ。あとは目標に向かって実行するだけだ。


「あなたはもう、就寝時間よ。」


 私は、すぐ目の前に浮遊する光を掴み取る。右手で掴み取った光は、ふわりと舞う粉雪のように掌で溶け込む。雪のような冷たさは無く、むしろ仄かに温かくて精神を落ち着かせる。その温もりは、すーっと私の体躯を駆け巡り私の一部となっていく感覚。

 まずは一つ目。残りは、・・・四つ。


「大丈夫。さっきよりは大分マシね。」


 動きを封じていた鎖が緩まれ、先程よりは早く走れる。


「なぜ、動ける?どんなトリックだ?」


「あら、トリックを見破れなければイカサマとは成立しないのよ?」


 私は化け物に啖呵を切り、すぐさま肉の壁で出来た迷路を駆け巡る。グラトニーの方からは、“ちっ“と舌を切る音が弾む。それと同時に、百足のような悍ましい脚音がガツガツと肉の床を叩きつける音もする。一脚毎の音も力も槍を突き立てているようだ。生身の身体など、ゼリーを貫く程容易いのだろう。


「逃さねぇぞ、小娘が!」


 肉の床をザクザクと串刺すように無数の脚音がグラトニーの怒号と共にこちらへ向かってくる。グラトニーがかけた呪いを軽減してくれているモノリスの力も、そう長くは持たないだろう。肉の壁に囲われた命懸けの鬼ごっこ。捕まればゲームオーバー。文字通り、死だ。この呪いを軽減してくれるのも、あとどれくらい保ってくれるかも未知数。となれば、急ぐ必要がある。焦らず冷静に。


「あった!これで二つ目ね。」


 二つ目の光を手に取る。残りは三つ。また少し身体を温まる感じがする。焚き火に一本ずつ火の点いたマッチを加えているようだ。少しずつ確実にその頼りなかった灯火は、戦いへと赴く炎へと近付いている。でも、まだだ。まだ足りない。これでは、まだあの化け物には勝てない。私は、走った。肉の床を蹴り上げ、残りの光を辿って走る。


 意外にもグラトニーは、そこまで脚が俊敏という訳では無いようだ。奴の脚ではこの床との相性は悪いようで、自分の脚で肉の床を突き刺してしまい前へ進めていない。元々は、追いかける事を想定していない空間だったのだろう。蜘蛛の巣のように相手を縛り上げ、ゆっくりと甚振り食す為の空間。いずれにしても、奴の傲慢が仇になって良かった。多少入り組んだ肉の迷路も功を奏して、上手く隠れながら光を集める事が出来る。

 そうして三つ目の光を手に取る。


「良し・・・。この調子で行けば・・・!」


 光の温もりが私の身体と浸透した直後だった。——バシンッと肉の壁から、鞭のようなものが突き出す。寸前で私は躱わし、右頬と左肩を掠める。頬の一筋の切り傷からは赤く滲んだ雫が溢れる。


「どうした?動き回るだけじゃ、私に喰われるだけだぞ?」


 奴との距離は十分に離しており、壁を伝ってある程度入り組んでいる筈。それなのに何故、奴の攻撃がここまで届いている?


「トリックがわからなければ、イカサマは成立しないのだろう?」


 掠めた頬を抑え、周りを見渡す。すぐ向かいの肉の壁から、ヌッと壁をすり抜けるようにグラトニーが顔を覗かせる。私を攻撃したであろう鞭のようにしなる数本の触手と共に、壁から不敵な笑みを帯びて姿を現す。


「なに言ってんのよ、明白なトリックじゃない!」


 私は、すぐに走り出した。急いで距離を取らなければ。グラトニーの触手の射程範囲は槍以上か。いや、飛び道具のように伸縮自在であれば厄介だ。そう、ここは奴の異空間だと云っていた。自分の空間なら、こんな壁いくらあろうともすり抜けて通るくらい当然だろう。これくらいの想定、考えれば出来た筈だ。奴の追いかけるスピードが無くても問題無い。

 私にとっては入り組んだ迷路でも、グラトニーは壁を気にする事無く真っ直ぐ私を追えば良いのだ。入り組んだ道に入る程、不利になるのは私自身。そう、初めから既に袋小路なのだ。それでも、諦める訳にはいかない。残り二つの光を集めるんだ。


「人間は、やはり愚かだな!恐怖、プレッシャーで小突けばいとも簡単に逃げ惑う。さぁ、どんどん走り回れ!鼠のようにな!」


 奴だって、元人間だ。殺人鬼という一般とは違う狂気を帯びた存在だが。それ故に、殺しを楽しんでいる。狩りかゲームか、人の命を弄んでいる狂信者。グラトニーの言葉を思い出せ。奴はグルメだとも言っていた。食事を楽しむ事が奴にとっての快楽の一種だ。私が逃げ惑うように走らせ、不安や焦り、恐怖などの精神疲労を狙っているのか。

 あのネチっこい性格だ、それらのスパイスをブレンドした私はさぞ美味なのだろう。二つの光。一つはもう、すぐ目の前だ。残り一つは少し入り組んでおり、まだ距離がある。


「良し!あと、もう少し!」


 そうして、四つ目の光を手に取る。また少し身体を温める。自分でもわかるくらい掌や胸が、身体中が熱い。どのような原理かなんて野暮な事は聞かない。集めた火の渦は、交わり溶け込み大きな炎となっていくようだ。あと一つ。光は十字に分かれた通路の左奥。目を凝らせば壁を突き抜けて、その光は良く見える。


「なぁ、セナ。鬼ごっこは楽しいかぁ?」


 気味の悪い声と共にまた壁をすり抜け、グラトニーが顔を覗かせる。それも私の傍らの壁からギョロつく目玉を飛び立たせ、一寸先の私の瞳と睨み合う。奴の射程距離は充分な程、囲い込める範囲だ。


「いいや、違うな。鬼ごっこは、楽しかったか?」


 グニョリと気色の悪い音を濁ませながら、身体を壁から出していく。近くで見ると、かなり大きい。推定で三メートル程か。以前に私を襲ったゲンガー程だろうか。扇状に広げて伸ばす触手は、威嚇をする野生動物のように実寸より大きく見せ、錯覚させる。

 人間を一呑み出来そうな巨大な口を広げ、口の中からおびただしい数の歯がびっしりと並ぶ。逃げられない。そう、プレッシャーが押し寄せる。足が床に張り付いてしまったみたいだ。これが恐怖。命を刈り取られる寸前に立ち塞がる絶望感。


「あら、・・・ゲームオーバーとでも、言いたいのかしら?」


 圧倒された化け物の威圧に、反応が遅れてしまった。頬に流れる冷や汗が、ゆっくりと滴る。冷や汗が流れ落ちたのと合わせるように、私は走り出す。光は、すぐそこなんだ。最後の一つ。奴を倒す為の一手は、文字通り目前。


「おっと。」


 残りの光に向かって走り出す私を追いかけるように、グラトニーの触手が脚に掴み掛かる。一本の触手は力強く、瞬く間に私の脚に絡み付いてしまい動きを封じられてしまう。


「くッ・・・。」


 伸縮自在に蠢く触手が一本また一本と纏わりつき、両足を完全に縛られてしまう。私の力では振り払う事もできず、そのまま床へと体勢を崩し転んでしまった。生肉のように分厚く弾力のある触手は、いくら叩いてもビクともしない。それどころか、その弾力のせいで力を相殺されてしまっているようだ。


「ようやく捕まえる事が出来たな。どうだ?文字通り手も足も出ないとは、この事だな。」


 悔しいが奴の言う通りだ。ニタリと不気味な笑みの目玉がこちらを凝視している。全く、熊のぬいぐるみの時は無表情だったのに。気持ち悪いくらい感情が露わに出ている。私が体勢を崩した隙をグラトニーが見逃す訳も無かった。両足だけで無く、両腕、首、胸元まで触手で絡み取られてしまい、完全に身動きが取れない。


「・・・、出来ればあんまり口を開かないでくれる?鼻が曲がりそうなの。」


 いくら減らず口を吐いても、この絶望的な状況は変わらない。奴もその気になれば、私の四肢など意図も簡単に捻り折る事が出来る事だろう。何よりも我慢出来ないのは、奴の口臭だ。蝿が集る生ゴミのような腐敗臭が立ち込めている。


「相変わらず、口が減らないな。私が男だったなら、犯されても可笑しくないぞ。」


 そう言うと、グラトニーは私の胸を更に強く締め付け始める。べっとりとした粘液混じりの触手が叱咤に縛り上げる。息が詰まりそうな程に締め付けられ、反撃する隙すら無い。


「そうだな、その減らず口から塞いじまおうか。」


 すると私の口元に、腕程の太さの触手が近寄る。粘り気の強い液体を垂れ流した触手が、思わず開いた私の口を狙っている。纏わり付く粘液から発する異臭は、粘つきながらも私の嗚咽を誘う。反射的に鼻を抑えたくなる程で、手足を拘束された状態では抵抗する術が無い。


「もし・・、そうなったら、私にとって、人生最大の汚点に・・・なるでしょうね!」


 まだ減らず口が出る。

 この状況下だとグラトニーの方が圧倒的に有利であり、勝利の天秤などとっくに傾いている。それなのに、私はまだ何処かで諦めていないらしい。昔から諦め癖の悪い性分だった。それは、一パーセントでも可能性があるからだ。しかし、これはいよいよ限り無くゼロに近い勝率。喰われるのも時間の問題だろう。

 私も流石に、そう心の中では思っていた。


 ——ジュゥ・・・。


「ぐッ⁉︎」


 そう思っていた矢先だ。突然、グラトニーは苦しみ出した。同時に何か焼けた臭いが立ち込める。気が付けば身体がやけに熱い。周りを見渡すと、私の身体中を締め付けていた触手が氷のように溶け始めていた。よく見ると身体が白く光っているようにも見える。そして、炎のように身体が熱い。纏わり付いた触手も粘液も燃焼させ、漂う臭いさえ焼き焦がす。


「な、何が起きた⁉︎」


 勝ち誇っていたグラトニーが動揺している。今しかない。そう私は確信して、すぐに立ち上がり走り出す。燃え焦げた肉片を手で払いながら、光に向かって走り出す。何が起きたのか、自分でも分からない。けれど、間一髪だったのは間違いない。私は、十字路を曲がりすぐ傍らにあった最後の光を掴み取る。


「良し・・・、これで、全部ね。」


 辺りを見渡す。肉の壁を通しても、見える光はもう無いように見える。どうやら、全て回収できたようだ。その証拠に、右手が強く光輝いている。蝋燭の灯火なぞ程遠い程、光強い。ありったけのスポットライトを右手に集中させたようだ。そして、酷く熱い。燃え盛る炎のように激っているのに、その熱は優しく朗らかな風とも感じ取れる。

 正にこの力を一言で表すなら“魔法“とでも呼べば、最もしっくりくる表現だ。現代科学でも数式を持ち得ても証明出来ない、非科学な現象を具現させた技術。白く、そして薄らと橙の光を纏った右手を掲げ天井へと掴むように伸ばす。


「はぁ、・・・はぁ、見つけたぞ。小娘が!さっきは、よくも・・・。」


 先程まで私を縛っていたグラトニーの触手は、ボロボロに溶けていた。 何本も束ねた別の生き物のように蠢いていた触手は、ほぼ死滅しており奴も多少疲弊していた。その姿は、まるで溶岩でも浴びたかのようにグロテスクな見た目。ドロリと触手だけでなく、支えていた身体の一部も溶け落ちていたのだ。

 あの姿では、恐らく満足に触手を扱う事は出来ないだろう。牙や百足のような脚たちは健在のようだが、想定外の攻撃を与える事は出来た。


「そうね・・・。でも先程のは、前言撤回とさせて頂くわ。」


 グラトニーが近づいて来ている事は分かっていた。けれど、視線を合わせるまでも無かった。視線を合わせずとも、視界に入らまいとも、グラトニーの位置が手に取るように見えるからだ。私は手を掲げたまま天井を見上げ、襲いくる脅威が向かってきていると云うのに。

 いや、違う・・・。私は、もう奴を脅威だと感じていないのかも知れない。


「・・・何?」


 軋めいていた牙が止み、ギョロつく大きな目がこちらを睨んでいるのだろう。眉を歪ませるように、先程の傷つけられた事への苛立ちが露わになっている。何故だろう、今までは相手の表情を見て心理を探っていた。けれど今は違う。まるで第三者視点で上から見下ろすように周りが見えるようになっている。

 情報はそれだけではない。溢れ出す感情の波も掴み取る事が出来る。それは感情が強ければ強い程、感じ取る事が出来る。正に魔法だ。

 

「あなたは、やっぱりお利口ではない。喰うことに必死なだけ、ただの獣なのね・・・。」


 漸く私は、化け物が居る方向へと視線だけを向ける。自分でもわかる。私の視線は、酷く落ち着いておりとても冷淡だ。怒っていない訳では無い。だが、そんな怒りに任せた感情は不必要だと直感したのだろう。

 もう三度みたび、グラトニーと目が合う。何度見ても、気持ちの悪い存在だ。


「人間ごときが。餌は大人しく、ソテーと共に皿の上で跪け‼︎」


 汚い言葉を吐きかけ、グラトニーは百足のような足を束ね、力強く重心を加える。


「ガァァァァアアアアーーーッ‼︎」


 重心を加えた脚たちを勢い良く屈伸させ、飛びかかってきた。ビリ付く音を反響させ、低音とも高音とも言い難い独特な雄叫びを上げながら突進してくる。常人ならこの酷い耳鳴りに耐えきれず、つい耳を塞ぎ込み体勢を崩したくもなるだろう。

 しかし、今の私にはそれすらも微動だに感じなかった。感覚が鈍っている訳では無い。何かのベールに包まれ守られている感覚だ。その力は自分の拳を伝って熱く感じている。


「これは・・・!」


 そして、力は解放される。

 私の身体という注ぎ満たされた器を一気に放出するように、強く眩く解き放たれる。


「ぐ・・・、この、光は・・・⁉︎」


 飛び込んできたグラトニーは、逆に放出された力に吹き飛ばされた。体勢を崩しただけでなく、奴の脚も先程の衝撃波で何本か折れたようだ。ぐにゃりとへし曲げられ、その何本かは痙攣を起こし震えていた。


 ——頑張ったな、セナ。


「モノリス・・・?」


 また頭の中から、モノリスの声が聞こえてきた。優しく落ち着いた声。冷静で、それでも力強く凛としている音色。声だけしか聞こえない筈なのに、すぐ傍らで寄り添ってくれているようだ。

 だから、私も落ち着いていられる。呼吸の乱れは無い。ずっと手を握っているみたいだ。右手の暖かさは、人肌の温もり。左手でグッと胸を鷲掴む。心臓の鼓動は、高鳴りを止まない。耳元まで聞こえてくるようだ。


 ——セナ、そのまま聞いて欲しい。


「モノ・・リス・・・だと?そうか、この光はモノリスの力か!」


 私が彼の名を告げた事で、ようやくグラトニーもこの力の正体に気付いたようだ。でも、それは半分正解で半分間違い。そうこれは、そう云う物では無い。


「そう、これがモノリスの力。いいえ、違うわ。」


 私は瞳を閉じて、深呼吸を大きく行う。何故か?そんなの決まっている。

 覚悟を決めたからだ。


「私たちの力よ。モノリスが導いてくれた、あなたを倒す為に!」


 ——私の力を解放しよう。さぁ、私の言葉に続いてくれ・・・。


 瞳を開けた瞬間、力がまた一つ解放される。突風のような衝撃波が走り渡り、肉の壁ごと吹き飛ばす。壁はガラスのように砕け散り、その破片がちらりと反射し私の姿を映し出す。青白いオーラのような気を纏った私は、青く燃える瞳をしていた。そうか、だからさっきから熱いのか。掌も胸も、心臓も瞳も熱く燃え滾る。


「ちっ‼︎」


 グラトニーが狼狽えている。折れた脚で地を這うように後づさりをしていた。最早、殆ど虫の息に等しい。


「我が名の元に・・・。」


 再び奴の身体へ視線を向け、一歩踏み出す。この一歩は、前を進む為の一歩。復讐の為の一歩では無い。粛清の為の一手。

 

「やめろ・・・。」


 私が一歩踏み込む度に、覚束無く痙攣した脚でグラトニーは後づさりをしている。最早、躊躇は無い。判断も覚悟も既に出来ている。瞳をもう一度だけ閉じ、葉を吸い込む程の息を吸う。モノリスの言葉が、声が耳の奥で木霊する。


「私は、唱えよう‼︎」


「やめろ、やめろ、やめろ!」


 グラトニーの必死の命乞いが響き渡る。もう奴に反撃を行う術も、力も無いのだろう。いや、力があったとしてもこの魔法のような力に対抗する事が出来ないのだろう。この期に及んで命乞いか、よく言う。お前が殺した沢山の犠牲者。懇願した彼らに対し、コイツは耳を傾けた事も無かったくせに。これは、当然の報いだ。

 泣き叫ぶ者、逃げ惑う彼らに対し、お前はその満悦な笑みで喜んで殺していったのだから。グラトニーへ右手で指を差し、瞳を開ける。穏やかな風が周囲を纏い始める。私の体躯は、炎と稲妻に囲まれているようだ。燃えるように猛々しく、雷鳴のように嘶く。脳裏でモノリスの言葉が響き渡る。そう、次第にシンクロして言葉は一つとなる。


「お前を・・・、断絶するっ‼︎」


 強烈な破裂音と共に解き放たれたその力は、突風のように螺旋を描く。嘶く雷鳴は戦馬の如く、グラトニーへと駆け巡る。瞬く間に青白い魔方陣が浮かび上がる。青白い閃光が化け物の身体を包み込み、帯状の光が無数に現れ始めた。帯状の光には、青白い炎を纏っており一つ一つが燃えるように熱い。この力は、以前にゲンガーを倒した時に出したものだ。けどモノリスのとは、まるで違う。


 青白く輝く炎は、帯を伝いながら巻きつけたグラトニーへと燃え移る。グラトニーを縛り上げながら徐々に帯を重ね続け、比例するように炎が嵩ます。皮肉にもその炎は、とても綺麗で醜いもの程美しく燃えている。先程とは大きく立場が逆転し、光の帯によりグラトニーの身体は縛られ身動きを完全に封鎖させた。乱暴に身体を捻らせながら振り解こうとしているが、燃え移った炎により上手く抜け出せない。もがき苦しみながら必死に抵抗しようとしている様を見ている私の瞳は、恐らく熱く冷たかった。


「や、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおお‼︎」


 すっかり身体中を包み込んだ帯は、ぐるぐると集まり大きな球体のように形成された。炎は止まない。高みを知らず、青白い炎は未だ大きく活性化する。

 やめて、という懇願の悲鳴すらも川のせせらぎのようにか弱く聴こえる。私は指を差すのは止めて、摘むように親指と人差し指を擦り合わせる。


「さっきも言ったでしょ?もう・・・、お休みなさい。」


 ——パチンー。


 私は指を鳴らした。

 燃え盛る炎の轟音を物ともせず、旋律を止める指揮者のようにピタリと指鳴りの音だけが反響する。青白い炎は消え、少しずつ少しずつ。グラトニーを包み込んだ球体は徐々に収縮を始める。


「ぐあがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっぁぁぁあぁ・・・。」


 嘔吐まで吐き出しそうな程響く断末魔も諸共、小さく小さく縮小していく。遂にはグラトニーを封じ込めたビー玉程の大きさまで小さくなっていた。私は、ふわりと浮かぶ小さな球体を摘む。摘んですぐに直感した。とても脆く繊細な球体。少しでも力を込めれば簡単に破裂してしまいそう。もう化け物の声は届かない。人の温もりが残った球体は、青白い朝焼けの様。

 だからこそ、私にはもう躊躇は無かった。


「ありがとう、お父さん・・・。」


 ——パリンッ


 ほんの少し力を入れて直ぐに、その球体は光の粒をさらさらと残しながら砕け散った。やがて塵状になり、風に曝されてグラトニーは文字通り跡形も無く消え去った。そして、私を取り込んでいた肉の壁や空間そのものも溶け始める。陽に焼けたバターのようにドロドロと禍々しく溶け始める。やがて、景色は変わり始めて先程まで居た空間が顔を覗かせた。


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