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空白の世界とモノクローム  作者: 藤 光一
四、終曲

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21/27

-混沌の庭園(1)-

 気が付くと私達は、別の空間へと転移していた。そこは部屋とは言い難く、ホールのように広い空間というわけでも無い。灰色の荒野と同じく天井は無く、どちらかと云えば外に居るような感覚だった。今まで訪れたところとの相違点は、床がごちゃ混ぜだと言う事。少なくとも他の部屋や空間は、床や壁、空間に合わせたある程度の統一性があった。しかしここはそんな統一性が無いだけでなく、物理法則を無視した造りだ。山道のような地面、砂浜、コンクリートの床、不自然に切り取られた木、凍りついたガラス床。それぞれがマス状にぶつ切りされており、挙げればキリが無い程に入り乱れた部屋。まるで数枚の絵画のジグソーパズルをバラバラにし、無理矢理一枚の絵にしたような造りだ。

 ただでさえ不規則なピース達は、互いの凹凸が当てはまる事も無く捩じ込まれた状態だった。この空間を絵画として括り、額縁に題名を彫るなら「混沌」と名付けて遜色無いだろう。それだけ違和感と不穏がイメージを拡大させているからだ。


「また随分と居心地の悪いところね。やり直しの間は、この先なのかしら。」


 そう、ここは決して心休まるところとは言えない。矛盾しているが窮屈だとさえ感じる程で、人間の心情心理を著しく歪ませる。何よりもこの空間は何故か鉄の錆びついた臭いがする。工場やスクラップ置き場にあるような鉄の臭いでは無い。もっと、もっと生々しいものだ。

 どちらかと云えば、一夜明けた紛争地帯に足を踏み入れた感覚。火薬と焼け崩れたコンクリートに紛れた生臭さが周囲を漂わせ、思わず眉を歪ませる。目を逸らしたくなる嫌悪感は、ニタリと物陰から手招きをし身体を掴もうとする。


「そうだな。」


 傍らにいたモノリスが、前を向いたまま私には振り返らずに声を発した。フードの陰ではどんな眼差しで、奥を見つめているのだろうか。その重い唇からは低く短い言葉が飛び出し、乾いた空気を通過させる。


「そして、トウマも・・・、この先にいる。」


「あぁ。」


 再度、モノリスは短く言葉を返す。小さく頷きをブレンドし、肯定していた。何枚もの楽譜を弾き進め、ようやくピリオドが記されたページを目の当たりにしたような。あるいは読み進めた小説が、最後の小節に差し掛かったのを見届けた瞬間。つまり、終わりが見えてきたところに私達は足を踏み入れたのだと実感した瞬間だった。決して短い旅だったわけでは無い。これを旅と定義すべきかは別の話だが。感覚としては、五年や十年で効くような旅だと思わない。それでも、時間の流れとしては恐らく一日経ったかどうかだろう。

 人は、陽の光と時計が無い空間で長時間過ごすと時間感覚が麻痺するらしい。ある国で数十人単位で行われた「ディープタイム」と呼ばれる実験だ。時計を計る手段を排除する事で心身、社会的交流にどのような影響を及ぼすのかが目的の実験。陽の光と時計を無くし、人の直感のみで一日を過ごす。そうして発症したのは時間感覚のズレ。一日が二十四時間というサイクルでは無く、大半の実験者は三十時間で過ごしていたと云う。時には三十六時間起き続けた者もいる程、陽の光と時計が無いだけで時間感覚を狂わせる。そして、実験後も後遺症が残るくらいにこの二つの影響力は、人体にとって凄まじい。

 環境こそは違えど、時間経過の感覚が無いのは変わりない。唯一の時間感覚が認識出来るのは、私の遺された記憶の数だけが証明となる。果たして失われた記憶は、目的を果たせば元に戻るのだろうか。それでもやはり、こんな事さえも奥に進まなければわからない。


「ありがとう、モノリス、くまちゃん。」


 だからこそ私は、そんな私の心境に寄り添った訳ではないが、ついてきた彼らへ感謝をした。彼らがついてきた理由は、あくまで私の観察であり彼ら自身の興味本位でしかない。ついでに自分自身の目的が思い出せれば幸い、とさえ思っているのだろう。モノリス達は、私がどんな反応と行動を示すのかに興味があるんだ。

 それでも、一人でこの世界を彷徨うよりは何倍もマシだ。きっと彼らが居なければ私は、とっくに精神崩壊し地面を這いつくばっていた事だろう。


「くまではない、すてぃぐまだ。準備は、出来ておるのか?」


「えぇ、初めから覚悟は出来ているわ。あなた達に会う前から、初めからね。」


 問いかけたすてぃぐまは、いつもより何処か遠い眼差しでこの空間の奥を見つめていた。無表情な顔とその眼差しから語るのは、やはり掴み取る事が出来ないが何故かそう感じた。無色のパレットにも似た無表情というベールに包まれ、本心を拾う事が出来ないのだ。


「行きましょう・・・。真実を確かめに。」


 私は前を見つめ、入り乱れた床を一歩足を踏み入れる。行き先は言うまでもない。この空間の奥だ。


「セナ・・・。」


「・・・何?」


「私は・・・。」


 相変わらず深くフードを被ったモノリスの重い唇から、小さく語りかけてきた。彼も何か思い詰めているのか、言葉の繋ぎ目に喉がつっかえているようだった。


「私は個人の、いやそうではない。セナの行く先を、結末を知りたいが為に、ここまで来た。」


 彼は、彼の頭の中には今までなかった情報、詰まるところ感情が入り乱れているのか。決してそれが不快で邪魔をしているというわけではなさそうだ。その情報や感情に対し、自分の中の今までの常識と比較し整理しているのだろう。


「そうね。知識がどうのって言ってたわね。」


「あぁ、私は君と会ってから、様々な想いを手に入れる事が出来た。」


 モノリスは自分の胸に手を当て、少しずつ整理しながら語る。フード越しにより良くは見えないが、柄にも無く右往左往しているのが手に取るようにわかる。


「ただ、それが何なのかは、正直なところ、わからない。だが、今まで体中に張り巡らされていたモヤが打ち消されている感覚がある。そして今あるのは、小さく煌びやかな暖かいモノが私という世界を照らしているのだ。」


 モノリスは、自身の心境を語っていた。彼も私と行動する事で心の化学反応が起き、何か変化が生まれたのだろうか。


「それは、人間だった頃の想いとか記憶が思い出してきたのかしら?」


 勿論、今までの経緯から察するにそんな事は有り得ない事はわかっている。現に私自身が、時間経過と共に記憶が徐々に失っている。モノリスは私よりも遥かに長く、この世界を滞在しているとなると、記憶の回復は望まれない。私といる事で何か特別な科学反応が起きている。だから、私は敢えてそう聞いた。


「そうなのかもな。」


「今、あなたが身体にあるというもの。きっと私、それを知っているわ。」


 そう、私はそれを知っている。人である為に大切なもの。誰もが欲しているものであり、時に分け与えるもの。そして共有するもの。


「ふむ、それは是非知りたいところだな。」


 彼は少し前のめりになり、肩を狭めて顎下に親指を当てる。そんなモノリスに対し、私は彼の胸元に人差し指を当て、こう告げる。


「簡単だわ。愛なんだと思うわ。」


「何故、そう言い切れる?」


 彼はそっと私の人差し指を掴み取り、そのまま離さなかった。モノリスの仄かな体温が指先を通して感じる。それは、苛立ちすら払拭させる安堵を溢したくなる程。やっぱり彼は、私の想像している人物なのかも知れない。そう思わずには、いられなかった。


「そうね、五大欲求はご存知かしら?」


「無論だ。」


「その中で唯一、愛だけは・・・。」


「・・・一人では困難、というわけか。成程、理に適っているな。」


 五大欲求の一つ、『愛・所属の欲求』。勿論、わざわざ彼にこの質問をする必要は無い。それは彼が教えてくれた事なのだから。きっとこの経緯はモノリスには、わからない事かも知れない。記憶に無いのだから。


「セナ。」


「何よ、何度も。」


 モノリスは、掴んだ人差し指を離さない。


「ありがとう・・・。」


 そのまま私の手を握り締め握手へと変える。モノリスの手の温もりが直に伝わる。仄かに温かく、やはり心が落ち着く。何度も私の記憶の中で父の顔がフラッシュバックする。しかし、悲しい事にその父の顔もブラインドがかかったように滲んでいた。仕草や声、容姿はまだ記憶に残っている。まだその者が父であると認識出来ていたのは、不幸中の幸いだった。


「さて、終わったかの?」


 会話の間にメスを入れ込むように、すてぃぐまは声をかけてきた。彼女の声に気付いたモノリスは、ゆっくりと私から手を放す。


「あぁ、問題無い。」


 すてぃぐまの顔を向ける事なく、モノリスはこの空間の奥にある門を見つめる。彼の表情は、一つの証明を導く為の仮定を手にしたような一種の満足感を表していた。フード越しからでもわかる朗らかな面持ちで、澄んだ言葉を返していた。


「そうではない。」


 それは会話だけでは無い。風、空気そのものにメスを入れたような。電話線の糸を断ち切るように彼女は割り込んできた。何故か肌から感じるビリビリとした緊張感は、この場の空気を一変させていた。


「・・・何?」


「ふふふ・・・・。」


 すてぃぐまの異常さに気付いたモノリスは、慌てて振り向く。当の彼女は、不敵な笑みを浮かべながら私達をじっと見つめていた。その雰囲気は、今まで彼女から感じた事の無い不気味なオーラさえ感じ取れる程だった。


「くまちゃん、何を言っているの?」


 私は、恐る恐るすてぃぐまへと近付きながら問いかけた。無表情の彼女から映る表情は、まるで一つの企みを隠し続けていたかのような顔を浮かべていた。


「セナ、そいつから離れろ‼︎」


 モノリスは、何かに気付いたのか大声で私の名を叫んだ。咄嗟の一声に一瞬私は硬直してしまい、モノリスの方を振り向いてしまう。


「充分に実った。今が、喰らい時だ!」


 それは、ほんの瞬間的な出来事だった。数字にしてしまえば、一秒にも満たない時間。一瞬とはいえ、頭ではわかっているのに硬直した身体は地面にピタリとへばり付き動かない。再度、私がすてぃぐまへと振り向く頃には何かに押されたのか視界がグラつく。


「え・・・?」


 バァンッ

 

 銃弾が弾け飛ぶような音により、突如として周囲に鳴り響く。その音に我に返り、状況が鮮明に映り込む。私は既に床へと倒れ込んでおり、目の前にはモノリスが背を向けて立っていた。モノリスは、私を守るように両腕を大きく広げており突然の攻撃を庇っていた。


「ぐ・・・。」


 モノリスは、苦しそうな声を漏らした。それは、今にも悶えたくもなる痛みの声。彼の背中には槍で貫いたような、もしくは大きな銃弾を受けたような跡があった。穴の中心からは、じわりじわりと赤い血が滲みだしており、ゆっくりと彼の白いコートを染める。蛇口を捻った水のように出血しており、コートや足をつたって床すらも血で染め始めている。一体誰が、こんな事を。私たちの後ろにシャドウが?いや、ここにはシャドウの気配は無かった。

 私たちの後ろに居たのは・・・。


「ぬ、ハズレか。色々と誤差が生じたな。」


 その声の主は熊のぬいぐるみ、すてぃぐまだった。声もいつもと違い、ドス黒く殺気立っていた。


「まさか貴様が人間を庇うとはな。想定外だ。」


 そう言いながら、すてぃぐまは熊のぬいぐるみを自ら内側から破り捨てる。ベキベキと骨や関節を曲げながら、異形なものが姿を表す。その光景は、脱皮をした蟲のよう。熊のぬいぐるみに忍ばせたとは思えない程の、百足ムカデのような大量の脚を携えている。顔と呼べるようなものはなく、代わりに人間の顔程の大きな一つ目があった。人の肋骨のような牙の中央には何十本と歯がびっしり生えている。腕は無いが人の腕程の太さの触手を何本か生え、化け物の背中から触覚のように揺らめいている。

 そう、一言で云えば化け物だ。悍ましくこの世の悪を凝縮させたような権化。モノリスを突き刺したのは、あの槍のように尖った触手だろう。うねる一本の触手だけ赤い血痕が染み付いていた。ポタリっと床に滴る大粒の血が水溜まりのように溜まった血を増やしていく。ついにはモノリスの身体は震え始め、膝をつき自分の身体に空いた穴を抑え込む。それでも血は止まることは無い。真っ赤に染まった右手は痙攣するように震えていた。


「モノリスッ‼︎」


 そのまま倒れ込もうとしていたモノリスを、咄嗟に私は抱き抱える。呼吸が荒い。先程まで握ってくれた手も徐々にその体温は失われている。仄かに温かった手を握り込み、私は彼の名を叫んだ。


「どういうことなの?何が起きたって言うのよ⁉︎」


 この刹那の間に状況が大きく変動していた。少なくとも、この状況を一変させた元凶はわかっている。文字通りに化けの皮を剥いだ怪物。どの生物にも分類する事も出来ない謂わば魔物のような存在。今、私はその化け物と対峙している。


「くまちゃん!」


 私は、彼女の名前を叫んだ。いや、もはや彼女なのかどうなのかさえ判断出来ない。余りにも人間から掛け離れた容姿は、沸々と嫌悪感を覚える。


「ふふふ、くまではない。あぁ、すてぃぐまでもないか。」


 化け物は、再び不敵の笑みを浮かべる。姿も名前も仮のものだったとでも云うのか。姿こそ化け物だが、その口調や考え方は映画などで観た殺人鬼そのものだった。


「私は、グラトニー。喰らう者だ。」


「グラトニー・・・。差し詰め、先程のは仮初めの姿というわけね。」


 そう名乗る化け物は、肋骨のような牙を震わせていた。中央の口からびっしりと並んだ歯を伝って、粘り強い涎を溢している。グラトニー。

 確か、七つの大罪における一つ、暴食。必要以上の量や高級料理を食べるだけでなく、生きる為では無く必要以上に味を楽しむ為に食べる様。元々の七つの大罪は、七つの死に至る罪。罪に導く可能性があると見做されてきた欲望や感情の事を指すので罪そのものでは無いと聞く。


「あぁ、そうだ。人なんてご馳走がきてくれたんだ。私は、見かけによらずグルメなんだ。じっくり熟してから、じっくり煮込み一口で喰べるのが性分でね。」


 グラトニーは涎を垂らしながら、そう告げる。私を食べたくて食べたくて、仕様がないのだろう。百足のような脚が先程から床をコツコツと叩きつけ、今か今かと飛び掛かろうとしている。


「それなのに、せっかく熟したもの喰おうとしたら魂無し《タマナシ》を喰うハメになってしまった。まるで、シケモクを飲み込んだ気分だよ。」


 タマナシ?・・・シケモク?まさかモノリスの事を指しているか、この化け物は。グラトニーの言葉に鳥肌が立つ。全身の毛穴が逆立つような怒り。自分でも眉を歪ませ、噴き上がる怒りが鋭い睨みとして変わるのが分かる。


「セナ、逃げ・・・ろ。」


 傍に抱き抱えたモノリスが荒い呼吸を遮って言葉を発する。その声は、小さく揺らぐ蝋燭の灯火のようだった。冷え切り痙攣する身体。必死に震えようとする身体を振り払い、私の胸元まで手を伸ばす。私は彼の手を掴み取り、少しでも身体を温める。余計にグラトニーへの怒りが彷彿し出す。


「そう・・・。じゃあ、あなたの狙いは、私と言いたいのね?」


 私はモノリスの冷え込む手を握り、その灯火を見つめながら言葉を返した。少しでも震えが収まれば、と願うように両手で握り込む。私には彼を治す術が無い。傷を癒す事も血を止める事も出来ない。あの時と何も変わらない。幼かった私と何も変わらない。


「やはり、賢いな。賢さは父親譲りか?」


 化け物は、思いがけない言葉を口にした。当然、私はその言葉を聞き逃さなかった。怒りで揺らぎそうになったが、まだ私は冷静でいられた。


「父親・・・?なぜあなたがそれを知っているの?」


 でも、その冷静さはすぐにも沸騰しそうだった。


「知ってるも何も、私が殺したのだからな。車でお前の父親を吹っ飛ばした時、実に爽快だったぞ。」


 私の中の見えない炎が内側から燃え広がるのがわかる。赤く鮮血とした炎よりも黒く憎しみが加わった暗い炎。気が付けば私は歯を食い縛り、グラトニーに殺気を送っていた。


「お前が・・・、父を。」


「言っただろ?私も人間だったと。村人をバラすだけじゃ、興奮が収まらなかったらしいな。唯一の汚点は、お前の父を轢き殺した後に私も死んでしまったのだ。ざまぁないな。」


 村人をバラした・・・。どこかで聞いた話だ。・・・まさか。すてぃぐまのいた空間の近くにあった部屋。殺人鬼が書き残したあの石版。皮肉にも殺人鬼は、私と同じ時代に居た人物だったというのか。


「まさか、お前はあの・・・。」


「ほう?気付いたか。そうだよ、あの石版を書いた張本人さ。あの殺人鬼は、男だとでも思ったか?それは固定概念に囚われすぎだな。最初に紹介しただろ?私はれっきとした女であると!」


「本当に良く喋る化け物ね・・・。」


 まさかこんな所であの殺人鬼に出くわすとは思わなかった。今はもう人の形をしていない、ただの化け物だが。村人を惨殺しただけでは飽き足らず、私の父まで殺した張本人だったなんて。

 グラトニーは、今まで隠していた秘密を暴露できたからか悠長に語っていた。その心地良さを露呈して話す汚い言葉、臭い口、捻じ曲がった思考。品性もかけらも無い。こんな化け物の勝手な趣向で殺された者達がいるんだと思うと、とても不憫だ。嫌悪感で吐き気すら覚えてしまう程で、同じ人間かと思うと甚だしい。


「だから言っただろう?私はじっくり煮込むのが好きだと。お前も十分成長したようだし、あの時に殺せなかったのが惜しいと思っていたが。こんな巡り合わせは、幸運と呼ぶに相応しいとは思わないかね?」


「さあ?どうかしら?」


 落ち着け。怒りに身を任せるな。奴は父の仇。けれど、原動力が怒りでは奴の思う壺。生身で武器も無い素手の私では、あの化け物をどうこう出来るとは思えない。

 今は少しでも虚勢を張って、様子を伺わないといけない。私の手は、震えている。モノリスの痙攣に吊られてなのか、恐怖に臆しての震えなのか。それとも武者震いなのかは、定かでは無い。今は奴に恐怖を勘付かれ無い事だ。


「しかし、勇ましいな。目の前で喰われた者がいるというのに。一度は動揺していたが冷静だな。」


「そうでもないわよ。内心、・・・イライラしているわ。」


 見た目に反して、グラトニーも冷静だった。奴も状況判断能力に長けている。伊達に何人も殺していないか。人を殺す事に躊躇を持っている言動とは思えない。人間だった頃は、快楽の為だろう。

 今はあくまで喰う為の工程に過ぎないサイコパスだ。お互い冷静だからこそ、冷静という杭を引き抜くのを狙っている。怒りを露呈して飛び出した方の負けだ。故にこのポーカーは、如何に冷静というカードを所持しているかが鍵となる。


「可愛いと思ったものが、文字通りに化けの皮が禿げたと思ったら、中身はゲテモノだもの。正直、幻滅してしまったわ。」


 ターゲットとなる私に対し、わざわざ過去に殺した父の事を話したのも冷静を削ぐ為だ。きっと楽しんでいるんだ。この瞬間も。私がどこまで、もがくのか。もがき苦しみ必死に抵抗させた挙句、無力さを実感させた恐怖の最高潮を私の顔に塗り手繰りたいんだ。奴の身体は、人を殺すには充分過ぎる程に備わっている。


「よく喋る人間だ。」


「あら?喋る事なら、あなた程ではないわ。」


 腕の代わりに生えた数本の触手がゆらりと動き出す。掴み上げるのも、突き刺すのも充分な凶器だ。人なんて、虫を捻り潰すのと変わりない程の力で事足りるのだろう。


「ならば、その強情が勝つか、わたしが貴様を喰うか、見せてもらおうか?」


「好きにすれば良いわ。腕の一本でも賭けましょうか?」


 私はモノリスを床にゆっくりと下ろし、安置させる。傷を抑え横たわる彼を横目に私は立ち上がり、グラトニーへ右手を出し挑発を送った。


「腕?安っぽい事を言うな。お前の全てを賭けろ!」


「これは失礼。あなたは、強欲なのね。」


 すると、グラトニーの口から紫色のモヤが溢れ出す。黒くどんよりとした紫色の煙は、徐々に周りを妖艶に包み込む。モヤの層は厚く、周りの視界を塞いでしまい外側がモヤで良く見えない。瞬く間に私たちを包み込んだモヤは、まるで別世界を成形するように。

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