第9話 放課後の外側
水曜日。
朝から晴れていた。
昨日までの雨が嘘みたいだった。
校庭の端には、まだ少し水たまりが残っている。
でも空は青い。
「今日走れるな」
西野大地が言った。
「残念そうに言うなよ」
黒瀬湊は机に突っ伏したまま答える。
「黒瀬の方が残念そう」
「昨日楽だったから」
「UNOしてただけだろ」
「補強もした」
「そのあと一時間半UNO」
「陸上部らしい一日だった」
「どこがだよ」
西野が笑う。
「今日百な」
「やらない」
「十二秒五」
「……」
「俺の勝ち」
「やる」
「扱いやす」
「黙れ」
朝からいつも通りだった。
*
二時間目。
体育。
バスケットボール。
「……」
湊はボールを見る。
教師が説明している。
「今日はパス回しから。経験者は初心者に合わせろよ」
クラスの男子が何人か嬉しそうにしている。
「黒瀬、バスケ部だったよな」
隣の男子が言う。
「中学だけ」
「じゃあ上手いじゃん」
「別に」
「絶対上手いって」
ボールが渡される。
手に馴染む。
少しだけ。
本当に少しだけ。
感覚を思い出す。
ドリブル。
一回。
二回。
低く。
速く。
「うわ」
隣の男子が声を出した。
「普通にうめえ」
「普通」
「それで普通は嫌味」
「いや、本当に」
湊はボールを返す。
「黒瀬、あっち入って」
教師。
「経験者側」
「はい」
五人。
パス回し。
湊は受ける。
前を見る。
一瞬。
空いている。
「そこ」
パス。
通る。
「おお」
次。
カットイン。
止まる。
また空く。
パス。
決まる。
「黒瀬、めっちゃ見えてるじゃん」
「まあ」
「バスケ部入ればいいのに」
その言葉で。
湊の動きが少しだけ止まる。
「入らない」
「もったいな」
「別に」
またそれだ。
もったいない。
陸上でも聞いた。
バスケでも聞く。
好きとか。
やりたいとか。
そういう話じゃない。
できるかどうかで。
周りは言う。
湊は少しだけ面倒になった。
*
ミニゲーム。
湊のチームは負けていた。
残り一分。
「黒瀬!」
パスが来る。
前に一人。
抜ける。
湊は分かっていた。
右。
一歩。
相手の重心が動く。
左へ切り返す。
「うわ!」
抜いた。
ゴール下。
シュート。
入る。
「うめえ!」
声。
次。
相手ボール。
エースっぽい男子が来る。
湊が前に立つ。
「黒瀬、抜ける?」
「さあ」
「じゃあ行く」
来る。
速い。
でも。
止められる。
身体を入れる。
コースを切る。
相手が止まる。
「まじか」
パス。
カット。
そのまま前。
走る。
レイアップ。
決まる。
点差。
一点。
「黒瀬!」
クラスの男子たちが少し騒ぐ。
残り。
十秒。
相手のシュートが外れる。
リバウンド。
湊。
前を見る。
一人走っている。
長いパス。
通る。
シュート。
決まる。
逆転。
「うおおお!」
笛。
終了。
周りが笑っている。
「黒瀬やば」
「最後のパスえぐ」
「バスケ部入れよ」
「マジで」
湊は息を整える。
「……」
嫌ではなかった。
むしろ。
楽しかった。
久しぶりだった。
ボール。
音。
靴の擦れる音。
パス。
視線。
抜く感覚。
止める感覚。
全部。
知っている。
「黒瀬」
西野が遠くから来た。
「お前、普通にうまいじゃん」
「見てたの?」
「隣のコート」
「授業しろよ」
「してた」
「嘘つけ」
「最後だけ」
西野が笑う。
「バスケ好きなんだな」
湊は少し黙った。
「まあ」
「陸上より?」
「比べるまでもない」
「即答」
「悪い?」
「いや」
西野はそれ以上聞かなかった。
*
昼休み。
「黒瀬ー」
「何」
「腕」
「は?」
「筋肉痛」
「知らん」
「昨日の補強」
「若いのに」
「同い年だろ!」
教室。
いつもの席。
西野。
湊。
「今日部活どうする?」
「行く」
「お」
「何」
「初めて普通に行くって言った」
「……」
「今までずっと『知らん』『気分』『たまたま』だったのに」
「うるさい」
「成長」
「何の」
「陸上部員として」
「退部しようかな」
「すぐ言う」
西野が弁当を開ける。
「今日何やるかな」
「百」
「俺はな」
「じゃあ俺も」
「長距離だろ」
「一本くらいいいだろ」
「一ノ瀬先輩に怒られるぞ」
「何であの人が俺の管理してんだよ」
「担当?」
「勝手に決めるな」
「教育係」
「もっと嫌だ」
「保護者」
「それ本人の前で言えよ」
「怖い」
「お前でも怖いんだ」
「怒ると普通に怖そう」
「分かる」
二人で笑った。
*
放課後。
グラウンド。
昨日の雨の影響で、少し柔らかい。
「今日はメニュー変更」
久米先生が言った。
「長距離は外周」
「外周?」
湊が聞く。
「学校の周り」
「道路?」
「そう」
「何キロですか」
「一周二・三くらい」
「何周」
「三」
「……」
計算。
約七キロ。
「帰っていいですか」
「ダメ」
「何で毎回聞くんだろうね」
一ノ瀬が笑う。
「聞けば通る可能性あるじゃないですか」
「一回も通ってないよ」
「いつか」
「諦めなよ」
「嫌です」
「そこだけ強いなあ」
*
校門を出る。
長距離組。
一列ではない。
緩く。
会話できる速度。
「外走るんですね」
「たまに」
一ノ瀬。
「信号あるじゃないですか」
「止まるよ」
「記録狂いません?」
「記録取らないから」
「じゃあ何のために」
「走るため」
「またそれ」
「便利でしょ」
「便利すぎる」
藤原が前を走っている。
「黒瀬」
「はい」
「今日は本当にゆっくりな」
「分かってます」
「信号ダッシュ禁止」
「しませんよ」
「西野みたいに競争相手いないからな」
「いなくても走れます」
「成長したな」
「馬鹿にしてます?」
「少し」
*
学校の外。
普段。
登下校でしか通らない道。
それを部活で走る。
不思議だった。
コンビニ。
歯医者。
公園。
信号。
住宅。
「ここ」
一ノ瀬が指差す。
「前にみんなで飯食べた公園」
「分かってます」
「また行きたい」
「部活よりそっち好きなんですか」
「両方」
「欲張りですね」
「黒瀬は?」
「飯」
「陸上は?」
「……」
「間が長い」
「走るの嫌いなんで」
「知ってる」
信号。
赤。
全員止まる。
「はあ」
湊が呼吸を整える。
「信号最高」
「休憩じゃないよ」
「止まってるじゃないですか」
「青になったら走る」
「永遠に赤でいい」
「後ろの車怒るよ」
信号。
青。
「行くよ」
「はあ……」
走る。
*
二周目。
学校の裏側。
知らない道。
「こんなとこあったんだ」
湊が言う。
「来たことない?」
一ノ瀬。
「ないです」
「この先坂」
「聞きたくなかった」
「結構長い」
「もっと聞きたくない」
「楽しいよ」
「価値観合わないですね」
坂。
上る。
「……っ」
少しきつい。
一ノ瀬は前。
藤原。
二年。
湊。
少し差。
「黒瀬ー」
一ノ瀬が振り返る。
「遅れてるよー」
「煽ってます?」
「応援」
「それ煽りですよ!」
少し上げる。
「ほら速くなった」
「先輩!」
「何ー?」
「覚えといてください!」
「何をー?」
「あとで!」
「怖いなあ!」
坂の上。
湊が追いつく。
「はあ……」
一ノ瀬が笑っている。
「負けず嫌い」
「違う」
「じゃあ何」
「先輩がうるさいだけ」
「同じじゃん」
*
三周目。
疲れてきた。
七キロ。
長い。
「もう無理」
「まだ一キロ」
一ノ瀬。
「一キロも」
「一キロだけ」
「言い方で変わらないです」
「じゃあ千メートル」
「増えた感じする」
「同じだよ」
「分かってます」
信号。
赤。
「よし」
「喜びすぎ」
「文明に感謝してます」
「黒瀬」
藤原が隣に来る。
「どう」
「何がですか」
「長距離」
「嫌いです」
「即答」
「でも」
湊は少し考える。
「外はちょっとマシかも」
「何で」
「景色変わるから」
「トラック飽きる?」
「同じとこ回ってるだけじゃないですか」
「それがいいんだよ」
「先輩も一ノ瀬先輩側ですね」
「何側だよ」
「陸上好き側」
藤原が笑う。
「黒瀬は?」
「嫌い側」
「なのに毎日いる」
「それとこれは別です」
「便利だな」
「何が」
「その言葉」
青。
また走る。
*
学校へ戻る。
「終わった……」
湊はグラウンド脇に座った。
「七キロくらいで?」
一ノ瀬。
「くらいって言うな」
「そのうち慣れる」
「慣れたくない」
「また言ってる」
「俺、短距離に転向しようかな」
「西野に勝てないのに?」
「……」
「黒瀬?」
「長距離続けます」
「扱いやす!」
「うるさい!」
一ノ瀬が笑う。
その向こう。
短距離。
西野がまだ走っている。
「十二秒四!」
声。
「うおおおお!」
西野の叫び。
湊が立つ。
「……は?」
一ノ瀬が笑った。
「あ」
「何ですか」
「行くね」
「行きません」
湊は歩き出す。
「黒瀬」
「何ですか」
「そっち短距離」
「知ってます」
「行かないんじゃなかった?」
「見に行くだけ」
「へえ」
「何ですか」
「別に?」
「その顔やめてください」
*
「十二秒四?」
湊。
「出た」
西野。
「本当に?」
「先生に聞け」
「黒瀬」
久米先生。
「十二秒四」
「……」
西野が笑っている。
「勝った」
「まだ俺走ってない」
「今日長距離だろ」
「一本」
「先生」
「ダメ」
「何で」
「七キロ走ったあとに百全力はやめろ」
「でも」
「明日」
「……」
西野がにやにやしている。
「明日な」
「うるさい」
「十二秒四」
「うるさい」
「十二秒四」
「マジで覚えとけよ」
「楽しみ」
*
練習後。
「今日どうする?」
西野。
「何が」
「コンビニ」
「行かない」
「珍しい」
「疲れた」
「七キロ?」
「七キロ」
「俺、百何本も走った」
「距離で勝負する?」
「それは無理」
「じゃあ黙れ」
「でも」
「何」
「駅まで一緒に帰ろうぜ」
「それは普通に帰るだろ」
「よし」
「何がよしなんだよ」
二人。
校門を出る。
途中。
体育館の前を通る。
中から。
バスケットボールの音。
キュッ。
ダン。
キュッ。
湊の足が少しだけ止まる。
「黒瀬?」
「ん」
「どうした」
「別に」
体育館を見る。
扉が少し開いている。
中。
男子バスケ部。
練習。
速いパス。
声。
シュート。
リバウンド。
「見てく?」
西野が聞く。
「……」
少し考える。
「いや」
「いいの?」
「うん」
歩き出す。
「好きなんだろ」
「好きだよ」
「じゃあ何で見ないの」
「見たら入りたくなると思ってる?」
「ちょっと」
「ならない」
「そうなんだ」
「好きだからって」
湊は前を見る。
「ずっとやるとは限らないだろ」
西野は少し黙る。
「そっか」
「何」
「いや」
「変?」
「別に」
少し歩く。
「俺は陸上好きだから、ずっとやりたいけど」
「へえ」
「高校でも」
「うん」
「大学でもできたら」
「そこまで?」
「できれば」
「本当に好きなんだな」
「うん」
即答。
一ノ瀬と同じ。
湊は少し笑った。
「何」
「いや」
「何だよ」
「陸上好きな人多いなって」
「陸上部だからな」
「それはそう」
二人で笑った。
*
駅。
「じゃあな」
「おう」
西野が改札へ向かう。
「あ、黒瀬」
「何」
「明日」
「十二秒四だろ」
「覚えてんじゃん」
「嫌でも覚える」
「楽しみにしてる」
「後悔させる」
「怖」
西野が笑って消える。
湊は反対方向へ歩く。
スマホ。
時刻。
六時十九分。
朝。
体育でバスケをした。
昼。
西野とくだらない話をした。
放課後。
七キロ走った。
西野が十二秒四を出した。
帰り。
バスケ部を見た。
今日一日だけでも。
いろいろあった。
でも。
どれも大きな出来事ではない。
湊は歩く。
「……腹減った」
コンビニ。
入る。
アイスを見る。
「またこれでいいか」
いつものソーダ味。
レジ。
店を出る。
一口。
冷たい。
明日は。
十二秒四。
そのことを考えている自分に気づく。
「……」
湊は少しだけ嫌そうな顔をした。
「何で俺、陸上のこと考えてんだよ」
でも。
足は止まらなかった。




