第8話 雨の日
火曜日。
四時間目が終わったころから、雨が降り始めた。
最初は弱かった。
窓に小さな水滴がつく程度。
昼休みになるころには、校庭の色が変わっていた。
「今日、外無理じゃね?」
西野大地が窓の外を見る。
「無理だろ」
黒瀬湊はパンの袋を開けながら答えた。
「部活どうなるんだろ」
「休みじゃない?」
「えー」
「何で残念そうなんだよ」
「百やりたかった」
「昨日十二秒五出したからって調子乗ってんな」
「黒瀬は十二秒六」
「〇・一」
「負けは負け」
「今日抜く予定だった」
「やる気あるじゃん」
「お前に勝つ気があるだけ」
「それをやる気って言うんじゃない?」
「違う」
雨脚が強くなる。
窓ガラスに当たる音が、教室の中まで聞こえてきた。
「これ絶対無理だ」
西野が言う。
「よかった」
「よくない」
「走らなくて済む」
「陸上部が言うことじゃない」
「俺は一貫してる」
「じゃあ何で入ったんだよ」
「知らん」
「まだ言ってんの?」
「まだ一週間くらいしか経ってないだろ」
「もう陸上部員だぞ」
「紙一枚出しただけ」
「じゃあ辞める?」
湊はパンを食べる。
「……」
「ほら」
「何」
「辞めないじゃん」
「今すぐ辞める理由もないだけ」
「面倒くさいな、お前」
「一ノ瀬先輩みたいなこと言うな」
*
放課後。
雨。
完全に雨。
グラウンドには水たまりができている。
部室前。
「今日は外無理だな」
城戸蓮が言った。
「やった」
湊。
「何がだよ」
「いや別に」
「顔が嬉しそうだぞ」
「気のせいです」
久米先生がやってくる。
「今日は補強」
「帰ります」
「早い」
「雨の日くらい休みにしましょうよ」
「廊下使うぞ」
「廊下?」
「体幹、筋トレ、補強」
「家でもできるじゃないですか」
「じゃあ家でやるか?」
「やりません」
「だから学校でやる」
「罠じゃん」
一ノ瀬澪奈が笑っていた。
「黒瀬、陸上部向いてないね」
「今さらですか」
「でも毎日来てる」
「たまたまです」
「今日も?」
「雨だから帰る予定でした」
「でも着替えてる」
「……」
湊は自分の体操着を見る。
「癖です」
「一週間で?」
「うるさいです」
*
廊下。
腹筋。
背筋。
腕立て。
体幹。
ジャンプ。
「地味」
湊が言う。
「陸上って地味だぞ」
藤原が答えた。
「もっとこう、走るだけかと思ってました」
「走るために走らないこともする」
「意味分からないですね」
「そのうち分かる」
「分かりたくない」
「何で入ったんだよ」
「最近それ聞かれすぎなんですよ」
近くでは西野が腕立てをしていた。
「二十七……二十八……」
「フォーム崩れてるぞ」
城戸。
「三十!」
「今二十八だろ」
「気持ちは三十です!」
「体は二十八だ」
「厳しい!」
橘美琴は壁際で座っていた。
「橘」
久米先生。
「はい」
「何してる」
「体幹」
「座ってるだけだろ」
「心の体幹を」
「立て」
「先生、精神面も大事ですよ」
「お前はまず肉体を動かせ」
笑いが起きる。
湊も笑った。
*
一時間後。
「終わり!」
久米先生の声。
「よっしゃ!」
西野が床に倒れた。
「疲れた……」
「百メートルよりきつい」
湊も壁にもたれる。
「黒瀬、弱くね?」
「お前も倒れてるだろ」
「俺は全力でやったから」
「俺もだよ」
「走るの嫌いなのに筋トレは全力?」
「負けたくないから」
「誰に」
「隣にいるやつに」
「俺かよ」
「お前以外誰がいる」
西野が笑う。
「やっぱ負けず嫌い」
「うるさい」
窓の外。
雨はまだ止んでいない。
「これ帰るのだるいな」
「傘ある?」
「ある」
「じゃあいいじゃん」
「駅まで濡れる」
「傘の意味」
「横から来るだろ」
「雨に文句言うなよ」
*
「なあ」
城戸が部室の中を見る。
「まだ時間あるな」
「帰りましょう」
湊が言う。
「即答するな」
「練習終わったじゃないですか」
「雨弱くなるまで待つか?」
部室の中。
何人かはもう着替え終わっていた。
でも外を見る限り、むしろ雨は強くなっている。
「最悪」
西野が言う。
「傘あるんだろ」
「あるけど」
「じゃあ帰れば?」
「黒瀬は?」
「俺もある」
「帰る?」
「……」
湊は外を見る。
雨。
かなり強い。
「もうちょい待つ」
「じゃあ俺も」
「何で」
「一人で待つの暇」
「俺を暇つぶしに使うな」
*
「UNOあるよ」
橘が言った。
「何で?」
湊が聞く。
「部室にあった」
「昨日掃除したときの?」
「そう」
「まだ捨ててなかったんだ」
「必要だったじゃん」
橘が得意そうな顔をする。
「誰やる?」
「俺」
西野。
「私も」
一ノ瀬。
「じゃあ俺も」
城戸。
「先輩もやるんですか」
湊が聞く。
「暇だからな」
「部長の威厳なくなりますよ」
「UNOでなくなる威厳なら最初からない」
「強い」
「黒瀬は?」
「俺?」
「やるだろ」
「……まあ」
気づけば。
六人。
湊。
西野。
一ノ瀬。
橘。
城戸。
夏目葵。
部室の床に輪になって座った。
「ルールどうする?」
夏目が聞く。
「公式」
城戸。
「公式って何?」
橘。
「俺も知らん」
西野。
「じゃあ何でもありで」
一ノ瀬。
「それ一番揉めるやつですよ」
湊が言う。
「ドロー重ねあり?」
「あり!」
「スキップ重ねは?」
「それ何」
「知らん」
「じゃあなし」
「色変えたあとすぐ出していい?」
「何がダメなの?」
「ローカルルール多すぎない?」
開始前から進まない。
「もう適当でいいじゃん」
橘が言う。
「分からなくなったらその場で決める」
「一番危ないやつ」
「黒瀬細かいなあ」
「後で揉めるの嫌なんですよ」
「じゃあ黒瀬がルールブック」
「嫌です」
*
ゲーム開始。
最初は静かだった。
三分後。
「待って待って待って!」
西野が叫ぶ。
「何でドロー四!?」
「持ってたから」
一ノ瀬。
「俺さっきドロー二食らったんですけど!」
「知らない」
「ひどい!」
「勝負だから」
「一ノ瀬先輩こういう時だけ冷たい!」
「こういう時だけ?」
「普段は優しいです!」
「よし」
「何がよしなんですか」
西野が四枚引く。
「うわ、弱」
湊が言う。
「黒瀬、お前次だぞ」
「知ってる」
「覚えとけ」
「どうやって」
「復讐」
「UNOに復讐制度ないだろ」
湊がカードを出す。
「赤のスキップ」
「……」
西野の番が飛ぶ。
「黒瀬!」
「何」
「お前!」
「カードがあったから」
「絶対わざと!」
「ゲームですから」
「さっき一ノ瀬先輩に言われたことそのまま使うな!」
全員が笑った。
*
「UNO!」
橘。
残り一枚。
「早っ」
夏目が言う。
「橘強い」
「こう見えて頭脳派なので」
「漫画しか読んでないのに?」
湊。
「漫画から学んでます」
「何を」
「人生」
「便利だな漫画」
「黒瀬も読むでしょ?」
「読むけど」
「じゃあ同類」
「一緒にすんな」
「何読んでるの?」
「いろいろ」
「一番好きなのは?」
「急だな」
「何?」
「……」
少し考える。
「スポーツ漫画とか」
「バスケ?」
一ノ瀬が聞いた。
「まあ」
「中学バスケ部だったもんね」
湊が一ノ瀬を見る。
「何で知ってるんですか」
「西野から」
「お前」
「何」
「情報漏らすなよ」
「別に秘密じゃないだろ?」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃん」
「気分の問題」
橘がカードを出す。
「上がり」
「え?」
全員が見る。
「終わった」
「話してる間に!」
「会話は隙を作る」
橘が言う。
「漫画から学びました」
「絶対違うだろ」
*
二戦目。
今度は人数が増えた。
藤原。
短距離の二年。
名前をまだ覚えきれていない女子部員。
合計九人。
「多くない?」
湊が言う。
「カード足りる?」
「たぶん」
「たぶんで始めるなよ」
「配るよー」
夏目。
一人七枚。
「黒瀬」
「何」
「お前、さっき俺飛ばしたからな」
西野。
「根に持ちすぎ」
「絶対やり返す」
「好きにしろ」
開始。
三分。
五分。
十分。
「終わらねえ!」
城戸が笑う。
「人数多すぎる」
「誰だよ増やしたの」
「先輩じゃないですか」
「そうだっけ」
「部長しっかりしてください」
カードが行ったり来たり。
色が変わる。
順番が逆になる。
スキップ。
ドロー。
「黒瀬!」
西野。
「何」
「ドロー二!」
「……」
「復讐!」
「子供かよ」
二枚引く。
「赤」
次。
すぐ湊の番。
「ドロー二」
「は?」
西野。
「俺?」
「赤だったから」
「俺に戻ってきた!」
「復讐」
「お前もやってんじゃん!」
「借りは返す主義」
「UNOで言うな!」
部室の中に笑い声が響く。
外では雨。
屋根に当たる音。
窓。
湿った空気。
狭い部室。
汗の匂い。
制汗剤。
濡れたジャージ。
カードが床に叩きつけられる音。
「UNO!」
「言ってない!」
「言った!」
「聞こえなかった!」
「聞こえなかったはずるい!」
「じゃあ二枚!」
「何で!」
「ルールだから!」
「そんなルールだった!?」
「最初に言った!」
「聞いてない!」
「黒瀬がルールブック!」
「俺に振るな!」
湊は笑っていた。
腹が痛くなるくらい。
*
気づけば。
午後六時十五分。
「え」
湊は時計を見る。
「こんな時間?」
「マジ?」
西野もスマホを見る。
「一時間半くらいやってる」
「嘘だろ」
雨は。
かなり弱くなっていた。
「帰れるな」
城戸が言う。
「片付けろー」
「もう一回」
橘。
「やらん」
「次勝てる」
「二回勝ってるだろ」
「三連勝したい」
「明日にしろ」
「明日晴れじゃないですか」
「練習しろ!」
カードを箱に戻す。
床に落ちていないか確認。
部室を出る。
空気が冷たい。
雨上がり。
土の匂い。
グラウンドには水たまり。
「明日使えるかな」
一ノ瀬が言う。
「乾けば」
藤原。
「朝晴れならいけるだろ」
陸上の話。
湊は少し後ろを歩く。
「黒瀬」
西野が横に来た。
「何」
「今日何しに学校来たんだろうな」
「補強」
「それ一時間」
「UNO」
「一時間半」
「……」
二人でグラウンドを見る。
「陸上部なのに」
「ほとんど走ってないな」
「雨だから」
「でも疲れた」
「腕立て」
「違う」
「何」
「笑いすぎ」
「分かる」
二人でまた笑った。
*
駅までの道。
水たまり。
「うわ」
西野が避ける。
「子供かよ」
「靴濡れるだろ」
「もう濡れてるじゃん」
「これ以上は嫌」
「意味ある?」
「ある」
一ノ瀬が前を歩いている。
橘と夏目もいる。
藤原は途中で別方向へ曲がった。
「じゃあな」
「お疲れさまです」
「おつかれー」
普段なら、それだけ。
でも今日は。
「あ、藤原先輩」
湊が呼ぶ。
「ん?」
「UNO、弱いですね」
「お前」
藤原が笑った。
「次覚えとけ」
「陸上で勝ってから言ってください」
「それは俺が勝ってるだろ」
「あ」
「黒瀬、墓穴」
西野が笑う。
「うるさい」
藤原は手を上げて帰っていった。
*
家。
「遅かったね」
母親が言う。
「雨だったから」
「練習できたの?」
「まあ」
嘘ではない。
補強はした。
「何してたの?」
「筋トレ」
「それだけ?」
「……」
UNO。
そう言いかける。
「まあ、いろいろ」
「ふーん」
夕飯。
風呂。
部屋。
スマホを見る。
陸上部のグループ。
今日追加されたばかりだった。
通知。
橘。
『次UNO持ってくる人』
西野。
『黒瀬』
湊。
『何で俺』
一ノ瀬。
『ルールブックだから』
夏目。
『決定』
湊。
『勝手に決めるな』
城戸。
『部室の棚にあるぞ』
橘。
『じゃあ黒瀬いらない』
湊。
『おい』
すぐ。
西野。
『笑』
「……」
湊はスマホを置く。
窓の外。
まだ少し雨が降っている。
今日。
タイムは測っていない。
何メートル走ったかも覚えていない。
むしろ、ほとんど走っていない。
記録に残るようなことは、何一つなかった。
たぶん数年後には。
誰が何色のカードを出したか。
誰が最初に上がったか。
西野が何回叫んだか。
そんなことは全部、忘れている。
それでも。
湊は電気を消したあと、
暗闇の中で一度だけ笑った。
「……UNOで六時まで何してんだよ」
明日は晴れるらしい。
また走る。
それは少し面倒だった。
でも。
雨の日も悪くないと、
少しだけ思った。




