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記憶の記録  作者: とも
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第5話 27人

 入部した翌日。


 黒瀬湊は、陸上部の部室の前に立っていた。


「……狭くない?」


「狭いよ」


 隣にいた西野大地が即答した。


「何人いるんだっけ」


「知らん」


「お前、先に入ってただろ」


「数えたことないもん」


「普通、部員数くらい分かるだろ」


「二十人くらい?」


「適当だな」


「三十人はいない」


「幅が広すぎる」


 目の前にあるのは、校舎の端にくっつくように建てられた小さな部室だった。


 昨日まで湊も何度か荷物を置かせてもらっていた。


 ただし、中までじっくり見たことはない。


 扉を開ける。


「うわ」


 臭い。


 汗。


 制汗剤。


 土。


 湿ったタオル。


 それから、何の匂いか分からないものがいくつか混ざっている。


「くさっ」


「男子の部室だから」


「お前も原因の一つだろ」


「黒瀬も今日からな」


「嫌だよ」


 ロッカーが並んでいる。


 入りきらない荷物が床にも置かれている。


 スパイク。


 ジャージ。


 タオル。


 誰のものか分からないペットボトル。


 漫画。


 なぜかトランプ。


「何でトランプあるの?」


「知らん」


「お前、本当に何も知らないな」


 壁を見る。


 大会の日程表。


 去年の記録。


 練習メニュー。


 その横に、手書きの紙が貼られていた。


『冷蔵庫のプリンを勝手に食べない』


「……何これ」


「知らん」


「もうお前に聞かない」


 さらに下。


『城戸へ プロテインこぼしたら拭け』


「部長……」


「何だ」


「うわ!」


 後ろに城戸蓮が立っていた。


「急に出てこないでください」


「俺の部室だぞ」


「プロテインこぼしたんですか」


 城戸が壁の紙を見る。


「昔の話だ」


「拭かなかったんですか」


「昔の話だ」


「拭かなかったんですね」


「昔の話だ」


 三回目だった。


「で、今日は何やるんですか」


 湊が聞く。


「掃除」


「……はい?」


「部室掃除」


「練習は?」


「そのあと」


「俺、昨日入ったんですけど」


「だから掃除するんだよ」


「新人いびり?」


「全員やる」


 城戸が部室の外を指差した。


 見る。


 いつの間にか、何人もの部員が集まっていた。


「今日、月一の掃除の日」


「よりによって」


「入部初日から運がいいな」


「悪いだろ」


     *


「一回全部出すぞー!」


 城戸の声。


 部員たちが動き始めた。


 湊も荷物を運ぶ。


 段ボール。


 古いシューズ。


 カラーコーン。


 何に使うのか分からない棒。


「これ何?」


「知らない」


 西野が答える。


「捨てる?」


「勝手に捨てたら怒られるだろ」


「じゃあ置いとく?」


「それで物が増えるんだよ」


「黒瀬、頭いいな」


「普通だよ」


「これ何?」


 西野が別の箱を持ち上げる。


「知らん」


「じゃあ捨てる?」


「だから勝手に捨てるな!」


 少し離れたところでは、一ノ瀬澪奈が古い雑誌を読んでいた。


「一ノ瀬先輩」


「ん?」


「掃除してください」


「してるよ」


「読んでるじゃないですか」


「捨てていいか確認してる」


「十分くらい同じページ見てません?」


「精査してる」


「何の記事ですか」


「全国高校駅伝」


「いつの?」


 一ノ瀬が表紙を見る。


「四年前」


「捨てていいだろ」


「歴史だよ!」


「図書館じゃないんだから」


「黒瀬にはまだ分からないの」


「何がですか」


「陸上部の歴史が」


「入部二日目なんで」


「昨日入部届出したから、今日が一日目じゃない?」


「どっちでもいいです」


「冷たいなあ」


 湊は雑誌を取り上げた。


「あ!」


「捨てる方」


「横暴!」


「橘みたいなこと言わないでください」


「呼んだ?」


 部室の中から橘美琴が顔を出した。


「呼んでない」


「そっか」


 引っ込んだ。


 三秒後。


「黒瀬ー」


「何」


「これいる?」


 持ってきたのは、片方だけのサンダルだった。


「いらないだろ」


「もう片方あるかも」


「探して、なかったら捨てれば?」


「頭いい」


「何でみんな俺にそれ言うの?」


     *


 三十分後。


 グラウンド脇には、部室から出された荷物が山になっていた。


「こんなに入ってたんだ」


 湊は少し感心した。


「人間もこれくらいいるよ」


 夏目葵が言った。


 手には雑巾。


「何人いるんですか、この部」


「二十七」


「そんなに?」


「黒瀬くん入れて二十七」


 湊は周囲を見る。


 確かに多い。


 昨日までは、自分と話した人間ばかり見ていた。


 一ノ瀬。


 西野。


 橘。


 夏目。


 城戸。


 久米先生。


 でも、それはほんの一部だった。


 名前を知らない人間がいくらでもいる。


 短距離の男子。


 長距離の女子。


 眼鏡をかけた先輩。


 ずっと誰かと笑っている一年生。


 一人で黙々と雑巾をかけている三年生。


 槍を持って歩いている女子。


「槍!?」


「やり投げ」


 夏目が答える。


「校内で持って歩いていいんですか、あれ」


「投げなければ」


「そういう問題?」


「たぶん」


 その女子と目が合った。


 軽く会釈される。


 湊も会釈した。


 名前は知らない。


「全員覚えるの大変そう」


「そのうち覚えるよ」


「夏目先輩、全員分かるんですか」


「もちろん」


「すげえ」


「マネージャーだし」


「じゃあ、あの人は?」


 湊が指差す。


「三年の森先輩。四百」


「あっちは?」


「二年の小宮。幅跳び」


「あの眼鏡」


「三年の藤原先輩。長距離」


「じゃあ――」


「一気に覚えなくていいよ」


 夏目が笑った。


「どうせ毎日いるんだから」


 湊は黙った。


 毎日。


 その言葉が妙に引っかかった。


「俺、毎日来るとは言ってないですよ」


「言ってないね」


「休むかもしれないし」


「うん」


「途中で辞めるかもしれないし」


「うん」


「……何で否定しないんですか」


「する必要ある?」


 夏目は雑巾を絞った。


「明日来るかどうかは、明日の黒瀬くんが決めればいいじゃん」


「適当ですね」


「部活なんてそんなもんじゃない?」


「マネージャーが言います?」


「マネージャーだから言うの」


 夏目は部室へ戻った。


 湊はその背中を見る。


「変な人」


「誰が?」


 一ノ瀬。


「近いですよ」


「傷つくなあ」


「聞いてないで掃除してください」


「してるって」


 一ノ瀬が持っているのは、さっきの四年前の雑誌だった。


「まだ読んでんじゃねえか!」


     *


「これ誰の?」


 橘が声を上げた。


 一本のスパイクを持っている。


「名前書いてない」


「片方だけ?」


「うん」


「さっきサンダルも片方だけだったよな」


 西野が言う。


「この部、片足の人いる?」


「いたらもっと早く気づくだろ」


 湊が返す。


「シンデレラ方式かも」


 橘が言った。


「履けた人のもの」


「他人のスパイク履かせるなよ」


「黒瀬履いてみて」


「嫌だ」


「西野」


「俺?」


「王子様」


「いいよ」


「やるなよ!」


 西野が本当に靴を脱ぎ始めた。


「入んねえ!」


「残念」


「次、黒瀬」


「やらないって」


 一ノ瀬が来る。


「何してんの?」


「スパイクの持ち主探し」


「履いて?」


「シンデレラ」


「私やる!」


「先輩まで乗るなよ!」


 騒ぎを聞いて城戸が来た。


「お前ら掃除しろ!」


「部長、これ誰のですか」


 城戸がスパイクを見る。


「あ」


「知ってるんですか」


「俺の」


「お前かよ!」


 思わず先輩に向かって言った。


 一瞬。


 静かになった。


「……」


「……」


 やばい。


 湊は思った。


 さすがに今のは――。


 城戸が笑った。


「もう片方、去年なくしたんだよ」


「捨ててくださいよ!」


 全員が笑った。


     *


 結局、掃除だけで一時間近くかかった。


 時計は五時を回っていた。


「今日の練習どうするんですか」


 湊が聞く。


「軽め」


 久米先生が答えた。


「三十分くらい動いて終わり」


「掃除で終わりでもよくないですか」


「お前、昨日入ったばっかりなのにもうサボろうとしてるな」


「掃除で疲れました」


「走れば回復する」


「どんな理論ですか」


「黒瀬」


 一ノ瀬が手招きする。


「千メートル一本」


「嫌です」


「今日はゆっくり」


「先輩のゆっくりってどれくらいですか」


「四分くらい」


「それなら」


 言ってから止まった。


 一ノ瀬が笑う。


「それなら?」


「……何でもないです」


「走ろ」


「一回だけですよ」


「はいはい」


 トラックへ出る。


 夕方の風。


 昼間より少し冷たい。


 一ノ瀬が横に立つ。


「黒瀬、最初から飛ばしそう」


「飛ばしませんよ」


「昨日、西野と競争してたじゃん」


「あれは向こうが」


「今日は競争じゃないからね」


「分かってます」


「私を抜いても何もないよ」


「抜きません」


「本当に?」


「本当に」


 走り始める。


 ゆっくり。


 昨日までとは違う速度。


 一ノ瀬の横。


 百メートル。


「遅くないですか」


「これくらいでいいの」


 二百。


「もっと上げられますけど」


「上げなくていい」


「何のために走ってるんですか」


「走るため」


「答えになってない」


 一ノ瀬が笑う。


 三百。


 呼吸は苦しくない。


 会話もできる。


「先輩」


「ん?」


「何で陸上やってるんですか」


「好きだから」


 即答だった。


 湊は少し驚いた。


「長距離が?」


「うん」


「走るのが?」


「うん」


「苦しいじゃないですか」


「苦しいよ」


「じゃあ何で」


「好きだから」


「……」


 分からない。


 同じ言葉を繰り返されただけなのに、一ノ瀬にはそれで十分らしい。


「黒瀬は?」


「嫌いです」


「知ってる」


「じゃあ聞かないでください」


「でも入ったじゃん」


「何となく」


「何となく三年間やるの?」


「三年間やるなんて言ってませんよ」


「そっか」


 それだけ。


 説教もされない。


 もったいないとも言われない。


 才能があるんだから頑張れとも言われない。


 四百。


 五百。


 湊は少しだけ速度を上げた。


 一ノ瀬もついてくる。


 さらに少し上げる。


「黒瀬」


「何ですか」


「速くなってる」


「なってません」


「なってる」


「気のせいです」


「競争じゃないよ」


「分かってます」


 六百。


 また上げる。


「黒瀬」


「何ですか」


「負けず嫌い」


「違います」


「私の前に出ようとしてるじゃん」


「たまたまです」


「じゃあ横戻って」


「嫌です」


「ほら!」


「うるさい!」


 最後の二百。


 結局、二人とも速くなった。


「先輩!」


「何!」


「ゆっくりじゃなかったんですか!」


「黒瀬が上げたんでしょ!」


「先輩がついてくるから!」


「抜かれたら悔しいじゃん!」


「同類じゃねえか!」


 ゴール。


 二人で止まる。


 息を整える。


「はあ……」


「疲れた……」


「何分ですか」


 一ノ瀬が時計を見る。


「三分二十七」


「全然四分じゃないじゃないですか」


「誰のせい?」


「先輩」


「黒瀬」


「先輩」


「黒瀬」


 二人で睨む。


 数秒。


 一ノ瀬が笑った。


 湊も笑った。


「やっぱ嫌いだわ」


「何が?」


「走るの」


「知ってる」


     *


 練習が終わった。


「腹減った!」


 西野が叫んだ。


「毎日言ってない?」


 橘が言う。


「成長期だから」


「私も」


「じゃあ何か食う?」


「食べる」


 一ノ瀬が振り返る。


「駅前のファミレス行く?」


「行きたい!」


 西野。


「私も」


 橘。


「黒瀬は?」


 一ノ瀬が聞いた。


「俺?」


「他に黒瀬いないでしょ」


「……」


 湊は時計を見る。


 五時四十分。


 家に帰れば六時過ぎ。


 ファミレスへ行けば、もっと遅くなる。


 宿題もある。


 昨日見ようと思っていた映画もまだ見ていない。


「行かないなら三人で行くけど」


 西野が言う。


「誰が行かないって言った?」


「行くの?」


「腹減った」


「よし!」


「何でお前が喜ぶんだよ」


     *


 駅前のファミレス。


 四人。


 湊。


 西野。


 橘。


 一ノ瀬。


 陸上部に入って三日目。


 なぜかファミレスにいた。


「ドリンクバーつける?」


「俺いらない」


「絶対欲しくなるって」


「水でいい」


「じゃあ私つける」


 橘がメニューを閉じる。


「カルピスとコーラ混ぜよ」


「まずそう」


「やったことある?」


「ない」


「じゃあ分かんないじゃん」


「やらなくても分かることはある」


「黒瀬って保守的」


「飲み物で思想判定すんな」


 一ノ瀬が笑う。


「私メロンソーダ」


「普通ですね」


「悪い?」


「いや」


「黒瀬は何食べる?」


「ハンバーグ」


「普通じゃん」


「食事に革命求めてないんで」


「私はポテト」


 橘が言う。


「夕飯それだけ?」


「あとパフェ」


「栄養終わってる」


「野菜あるよ」


「どこに」


「ポテト」


「それを野菜扱いするな」


 西野がメニューを見ながら言う。


「俺、ステーキ」


「高くない?」


「千二百円」


「金持ち」


「今日千円しかない」


「足りねえじゃん!」


「黒瀬貸して」


「嫌だ」


「親友だろ」


「知り合って三日だぞ」


「三日も!」


「まだ、だよ!」


 一ノ瀬が腹を抱えて笑っている。


 橘は注文用のタブレットを触っている。


「あ」


「何?」


「パフェ二個押しちゃった」


「消せよ」


「一個食べる?」


「いらない」


「西野」


「食う」


「じゃあそのまま」


「解決すんのかよ」


 湊は笑った。


 窓の外。


 制服姿の高校生が駅へ向かって歩いている。


 もう暗くなり始めていた。


 今日。


 陸上部で何をした。


 部室を掃除した。


 千メートルを一本走った。


 それだけ。


 タイムを縮めたわけでもない。


 大会に出たわけでもない。


 何かを達成したわけでもない。


「黒瀬」


「ん?」


「ポテト一本いる?」


 橘が差し出してくる。


「まだ来てないだろ」


「あ」


「何を渡そうとしたんだよ」


「未来のポテト」


「怖いわ」


 また笑った。


 たぶん今日のことは、どこにも残らない。


 大会記録にも。


 賞状にも。


 学校のホームページにも。


 誰かが写真を撮っているわけでもない。


 明日になれば忘れるような一日かもしれない。


「黒瀬」


 西野が言った。


「明日、百やろうぜ」


「嫌だ」


「十二秒六」


「……」


「俺の勝ち」


「やる」


「やっぱ扱いやすい」


「黙れ」


 陸上は嫌いだ。


 走るのも嫌いだ。


 でも。


 ファミレスのテーブルに肘をつきながら、湊は思った。


 明日もたぶん、グラウンドへ行く。


 理由はまだ、よく分からなかった。

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