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記憶の記録  作者: とも
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3/21

第3話 まだ部員じゃない

 翌日の放課後。


「来てるじゃん」


「体育があっただけです」


 黒瀬湊は体操着姿でグラウンドに立っていた。


 一ノ瀬澪奈が、にやにやしながらこちらを見ている。


「ちゃんと着替えてるじゃん」


「体育があったからです」


「靴も昨日と違う」


「体育があったからです」


「鞄、部室に置いてる」


「城戸先輩が置いていいって言ったからです」


「へえ」


「何ですか」


「別に?」


 絶対に何か言いたそうな顔だった。


「帰りますよ」


「まだ何も言ってないじゃん」


「顔がうざいんで」


「先輩にうざいって言った?」


「言ってません」


「言ったよね?」


「空耳です」


「生意気だなあ、四分二十六」


「その呼び方やめろ」


 昨日より返事が雑になっていることに、湊自身は気づいていなかった。


 グラウンドでは、すでに何人かが練習を始めていた。


 短距離。


 長距離。


 跳躍。


 投擲。


 昨日は全部まとめて「陸上部」にしか見えなかった。


 今日は少し違う。


 短距離の部員たちはスタート地点の近くに集まり、地面に銀色の器具を置いている。


 長距離はトラックの内側でストレッチ。


 少し離れた場所では、城戸蓮が砲丸を投げていた。


 昨日、走高跳のマットで寝ていた女子生徒もいる。


 今日は寝ていない。


 漫画を読んでいた。


「橘!」


 教師の声。


「はい」


「何を読んでる」


「教科書です」


「表紙に『週刊少年』って書いてある教科書があるか!」


「現代社会を学んでます」


「没収!」


「ああ!」


 漫画が奪われた。


 女子生徒――橘が両手を伸ばす。


「先生! 今いいところなんです!」


「練習しろ!」


「主人公が死にそうなんです!」


「知らん!」


「人の命がかかってるんですよ!」


「架空のな!」


 湊はしばらく眺めた。


「……何なんですか、あの人」


「橘美琴。一年。走高跳」


 一ノ瀬が答えた。


「同級生?」


「たぶん」


「たぶんって」


「クラス違うし」


 橘は漫画を取り返そうと教師の周囲をぐるぐる回っている。


「返してください!」


「練習終わったら返す!」


「今返してくれたら自己ベスト出します!」


「先週も聞いたぞ、それ!」


「今日は本当です!」


「先週もそう言った!」


 陸上が好きで集まっている。


 昨日までは、何となくそう思っていた。


 違うらしい。


「黒瀬!」


 今度は別方向から声がした。


 西野大地が走ってくる。


「今日も来たじゃん!」


「見れば分かる」


「入る?」


「入らない」


「じゃあ何しに来たの?」


「……」


 またこの質問だ。


「暇だったから」


「じゃあ走ろうぜ!」


「何でそうなるんだよ」


「暇なんだろ?」


「走るくらいなら暇でいい」


「昨日めっちゃ走ってたじゃん」


「あれはお前が煽ったからだろ」


「今日も煽れば走る?」


「帰るぞ」


「ごめんごめん!」


 西野が笑う。


 こいつは昨日会ったばかりなのに、距離の詰め方がおかしい。


「西野、今日何やるの」


「百!」


「百?」


「タイム測る!」


「へえ」


「見る?」


「別に」


「見ようぜ!」


「聞いてた?」


 腕を引っ張られた。


「触んな」


「ごめん!」


 謝りながら、また腕を掴む。


「だから触んなって!」


 一ノ瀬が後ろで笑っていた。


     *


「十三秒〇四!」


「うわあああああ!」


 西野が頭を抱えた。


「遅くなった!」


 ゴール地点で地面に倒れ込む。


「十二秒台どころか十三乗った!」


「一本で騒ぐな」


 顧問がストップウォッチをしまう。


「向かい風もある。次、二十分空けろ」


「はい……」


 西野は仰向けになった。


 青空を見る。


 湊も少し離れたところから見ていた。


「十一秒台出すんじゃなかったの」


「出すよ」


「今十三秒じゃん」


「だから出すんだよ」


「いつ」


「三年までに」


「二年以上あるぞ」


「あるじゃん」


 西野は起き上がった。


「二年以上も」


 湊は何も言わなかった。


 西野は落ち込んでいるようには見えなかった。


 十三秒〇四。


 本人にとっては悪い記録らしい。


 それなのに、もう次の一本の話をしている。


「黒瀬は?」


「何が」


「百メートル何秒?」


「知らない」


「測ろうぜ」


「嫌だ」


「絶対速いって」


「長距離と短距離は違うだろ」


「いいから!」


「嫌だって」


「怖い?」


「は?」


 湊が西野を見る。


 西野が笑った。


「遅かったら恥ずかしい?」


「……」


「黒瀬、意外と――」


「先生」


 湊は顧問へ向いた。


「百メートルって、勝手に測っていいですか」


「お前ほんと扱いやすいな!」


 西野が笑う。


「うるせえ!」


     *


「十二秒七!」


 顧問の声。


 湊はゴールを通過した。


 数歩進んで止まる。


「……こんなもんか」


 思ったより速くなかった。


 昨日の千五百メートルでは周囲が騒いだ。


 だから百メートルも、それなりに走れるのかと思っていた。


「十二秒七かあ」


 西野が隣に来る。


「普通だな!」


「何で嬉しそうなんだよ」


「いや別に?」


「顔が笑ってるぞ」


「だって俺とそんな変わんないじゃん!」


「十三秒〇四」


「向かい風!」


「俺も同じ条件だろ」


「あ」


「バカか」


 西野が悔しそうな顔になる。


 湊は少し笑った。


 勝った。


 それだけで気分がいい。


「もう一本やろうぜ!」


「嫌だ」


「何で!」


「疲れた」


「勝ち逃げか!」


 その言葉で足が止まる。


「……何?」


「勝ち逃げ!」


「いいよ」


「え?」


「もう一本」


「やっぱ扱いやすいな、お前!」


「黙れ!」


 二本目。


 十二秒八。


 西野。


 十二秒九。


「っしゃ!」


 湊は拳を握った。


「〇・一秒!」


「勝ちは勝ちだろ」


「もう一本!」


「いいよ」


「黒瀬」


 顧問が止めた。


「はい」


「短距離は今日は終わり」


「でも」


「お前はそもそも部員じゃない」


「……」


 そうだった。


 忘れていた。


 周りにいた部員たちが笑う。


「部員じゃないのに三本目やろうとしてる!」


 一ノ瀬だった。


「うるさいです」


「走るの嫌いなんじゃなかった?」


「嫌いですよ」


「楽しそうだけど」


「西野に勝つのが楽しいだけです」


「ひどくない?」


 西野が言った。


「お前が煽るからだろ」


「でも明日もやろうぜ」


「嫌だ」


「じゃあ明後日」


「嫌だ」


「来週」


「嫌だって」


「来月」


「何で長期戦になるんだよ」


     *


 練習の途中。


 湊はトラックの外に座っていた。


 自分は部員ではない。


 だから正式なメニューには入っていない。


 暇になった。


 西野は短距離組へ戻った。


 一ノ瀬は長距離組と走っている。


 城戸は投擲エリア。


 橘はようやく漫画を諦め、走高跳の助走を確認していた。


 湊は膝を立てた。


「帰るか」


 別に最後までいる必要はない。


 立ち上がる。


 そのとき。


 橘が走り出した。


 助走。


 踏み切る。


 身体が宙へ浮く。


 背中からバーを越えた。


 マットへ落ちる。


「おお」


 思わず声が出た。


 バーは落ちていない。


 橘はマットの上で寝転がったまま、拳を上げた。


「漫画返してー!」


「それとこれとは別だ!」


「成功したじゃないですか!」


「練習だからな!」


「横暴!」


 湊は笑った。


「何なんだよ」


「面白いでしょ」


「うわ!」


 真横から声がした。


 女子生徒が立っている。


 ジャージ姿。


 手にはスポーツドリンクのボトルが何本か入ったケース。


「驚きすぎ」


「誰ですか」


「夏目葵。二年。マネージャー」


「ああ」


「黒瀬湊くんでしょ」


「何で知ってるんですか」


「四分二十六」


「……」


 もう驚かなかった。


「俺、陸上部で人権ないんですか」


「まだ陸上部じゃないでしょ」


「そうだった」


 夏目が笑った。


「はい」


 ボトルを一本差し出される。


「いや、俺部員じゃないんで」


「一本くらい平気」


「でも」


「飲まないなら西野にあげる」


「飲みます」


「即答」


「喉乾いたんで」


 受け取る。


 冷たかった。


 蓋を開けて飲む。


 風が吹いた。


 汗で湿った首筋が冷える。


 グラウンドにはいくつもの音があった。


 スタートの合図。


 足音。


 砲丸が地面に落ちる鈍い音。


 バーが落ちる音。


 誰かの笑い声。


「ファイトー!」


 夏目が長距離組へ声を飛ばす。


 一ノ瀬が走りながら片手を上げた。


 湊はそれを眺めた。


 昨日まで、陸上競技はただ走るだけだと思っていた。


 今も、それほど印象は変わっていない。


 長距離なんて特にそうだ。


 走って。


 苦しんで。


 また走る。


 意味が分からない。


 ただ。


 陸上部は、思っていたより陸上だけをしている場所ではなかった。


「黒瀬」


「はい」


 夏目が紙を差し出した。


「これ」


「何ですか」


 受け取る。


 入部届。


「いらないです」


「まだ何も言ってないけど」


「これ渡して何を言うつもりだったんですか」


「欲しいかなって」


「いりません」


「じゃあ返して」


「……」


 湊は紙を見る。


 名前。


 クラス。


 出席番号。


 希望する部活動。


 保護者印。


「返して」


「今返します」


「うん」


「……」


「黒瀬?」


「折れそうなんで、鞄に入れときます」


「私が持つけど」


「いや、いいです」


「何で?」


「だから、折れそうだから」


「ふーん」


 夏目が笑った。


「何ですか」


「別に」


 またその顔だ。


     *


 練習が終わるころには、空が少し赤くなっていた。


 湊は部室の前で靴紐を結ぶ。


「黒瀬ー!」


 西野が来る。


「明日も来る?」


「知らない」


「来いよ」


「何で」


「百メートル」


「お前が十二秒七切ったらな」


「絶対切る!」


「じゃあ頑張れ」


「お前も走るんだよ!」


「条件に入ってない」


「汚え!」


 一ノ瀬も部室から出てきた。


「黒瀬、明日長距離やろうよ」


「嫌です」


「千メートル一本だけ」


「絶対嫌です」


「八百」


「距離を短くしても嫌です」


「四百」


「昨日それで騙されたんですよ」


「騙してないけど」


「帰ります」


「また明日」


「だから来るとは――」


 言いかけて、やめた。


 どうせ何を言っても同じだ。


 湊は手を上げた。


「じゃ」


「また明日ー!」


 西野の声を背中で聞いた。


     *


 帰り道。


 コンビニに寄った。


 アイスの棚の前で三分迷った。


 結局、一番安いソーダ味の棒アイスを買った。


 店を出る。


 袋を開ける。


 一口かじる。


「つめた」


 歩きながら食べる。


 今日は昨日より帰るのが遅くなった。


 家に着いたら七時前だ。


 宿題もある。


 見たい動画もある。


 読みかけの漫画もある。


「部活とか入ったら時間なくなるな」


 独り言。


 中学のころは、それが普通だった。


 放課後は部活。


 帰宅して夕飯。


 風呂。


 宿題。


 寝る。


 土日も試合や練習。


 高校では、もういいと思っていた。


 そこまで何かに必死にならなくてもいい。


 好きなことをして。


 適当に学校へ行って。


 友達と遊んで。


 三年間が終わればいい。


 アイスをもう一口。


 棒が見え始める。


 鞄の中には入部届がある。


 捨ててもいい。


 明日、夏目に返してもいい。


 そもそも今日も、入部するなんて一度も言っていない。


「……」


 湊は歩く。


 しばらくして。


「十二秒七か」


 呟いた。


 百メートル。


 もう少し速く走れた気がする。


 スタートも適当だった。


 フォームなんて知らない。


 ちゃんと練習したら。


「……いや」


 考えるのをやめた。


 棒だけになったアイスを、コンビニの袋へ入れる。


 信号が青になった。


 歩き出す。


 その日の夜。


 入部届は捨てなかった。


 書きもしなかった。


 机の一番上の引き出しに入れた。


 翌朝。


 学校へ行く前。


 なぜか一度だけ引き出しを開けた。


 紙があることを確認して、


 また閉めた。


 黒瀬湊は、まだ陸上部員ではなかった。

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